第4話 古い写真に眠る想い

 蝉のけたたましい鳴声が一気にやんだと思うと、南国を思わせる雨が窓を激しくたたきつけた。

「ここは日本だぞ、まったく……。」

 畳に胡坐をかいて、ただ庭を見つめていると、8月15日はひどく感傷的になる。

 遠ざけようにもどうにもならない鮮明な記憶が簡単に蘇る。

 血気盛んだったあの頃に聴いたあの玉音放送。

 横須賀の鎮守府で膝を折っていく上官の背中、手の中からこぼれ落ちる指令書の数々。

 これを知らず今も戦っている仲間はどうなると、駆け出そうとした若き日の俺は、当時の上官だった今橋中将に襟首をつかまれ、そのまま壁に押し付けられた。

「ならん!」

 初老のその人の腕の力は尋常ではなかった。

その腕からのがれようとあがいた現役の戦闘機乗りの俺の力をものともしない。

「私を空に上げてください! まだ護ってやれる隊がいるはずです。」

「貴様はこれからを担うのだ。 最後までここにおれ。」

 それでも俺は駐機場へ駆け出したかった。

だが、今橋中将に押さえつけられた身体がびくともしない。

血液が逆流しそうなほどに怒りがこみ上げてくる。

どうしてできることがあるのに許されないのかと、今思い返すときっと血走った目で睨みつけていたと思う。

「もうできることはない、川村大尉。」

 中将の白髪交じりの髪が俺のせいで乱れていた。そのひどく温度のない言葉は真実だとしても、受け入れがたいものだった。

背後でけたたましく電話がなっているが、誰もそれをとろうとはしない。

方々で大混乱になっているのは想像に易い。

「やってみないと……わからないでしょう? やってみもしないで何故わかるんですか!」

 鼓動が速くなり過ぎて、こみあげてくる得も言われぬ不快感が胸を締め付けてくる。

「大尉……。」

 言葉を慎重に選ぶように中将は口ごもった。

その目には海軍の魂が猛る炎として見えているのに俺を拘束した腕の力は緩まない。 

「大義なく徹底抗戦すると息巻く連中をとめねばならん。 貴様は止める側の人間だ! これからここでの仕事が貴様の戦いなんだ。」

「大義なんてどうだってかまわんでしょうが!」

大義や何らや小難しいことは知らない。それよりも今、たった今、撃墜されたかもしれない仲間の死はどこへ向かうのか、何のために空に上がったのかわからないではないかと、自分でも自分の声とは思えないような地を這うような低い声しかでなかった。

「……私は戦闘機乗りです!」

「そんなことはわかっている! 俺も戦闘機乗りだ! 貴様も戦闘機乗りならききわけろ。 もう制空権は失われた。 その意味がわかるだろう?」

「それでも……。 あなたは……、あんたは悔しくないのか!」

 手を放してくれと騒ごうとした俺の口は中将の袖口でゆっくりとふさがれた。

「こらえろ、川村! 貴様がどれだけ騒ごうと状況は覆らんのだ。 343に最期の仕事をさせる必要があれば貴様をそこへ送る。 だから、頼むから、もう黙れ。」 

静まり返った室内で俺の声が響き渡らないようにという配慮だったと気づいたのは、中将が俺を見て泣いていたからだ。

それは親のような目で、子供をいつくしむように、震える声で、『俺は! 貴様まで失うわけにはいかんのだ。』と耳打ちされ、完全に抵抗することができなくなった。

怒りの矛先をどこへむければよいのかわからない苛立ちだけが俺の脳裏を支配した。

「こらえろ。」

ただ何もするなと言われることがこれほどまでにやるせなく、口惜しいものだとは思わなかった。

「米軍が入国したらどうなる? この意味が分かるな? 皇統を、国民を……身を挺して護れる者は血反吐をはいても、恥辱にまみれても生きねばならんのだ。 343には敗戦の際に皇統を護り抜く極秘の司令が出されている。 これは死よりも重い任務だ。 今ここで死ぬというのなら……時期が来たらそこでいっそのこと役に立て。 ……川村、俺は愛する海の子達をもうこれ以上、戦地へ送り出したくはない。 いいや、嘘か。 どれだけもっともな御託を並べても結局は貴様を生かしたいだけだ。 想いを受け継いでいける人間は限られているからな。 生き恥をさらせと、泥を飲んでも生きろと、もっともひどい仕打ちをするのに、それでも生かしたい。 わかってくれんか?」

「あの人を護らせてももらえなかったのに! その上、死に場所さえ与えられない苦痛がわかりますか?」

「それを共に背負う覚悟だと言っている!」

 中将は俺の葛藤をすべて受け止めてから静かにうなずき、俺をようやく解放した。

 中将の中に、亡き師匠を見た気がした。きっとあの人も同じことを言うに決まっていた。

 もう逆らうことができそうにない。

「畜生!」

 弱い獣が簡素な罠に足をやられて、声にならない声をあげ、崩れ落ちる。

 俺はまるでそのまま。その間抜けな弱い獣だった。

中将はそんな俺の肩を抱いて何度もこう言ってくれた。

「生きてこそ護れる物があるんだ。」 

 俺は終戦のあの日、まだ戦闘機にのれたのに戦場に出ることもなく、司令部の大会議室にいた。

今橋中将の手に制され、参謀飾緒のついた軍服に袖を通したまま、ただ護られた。

 もっと護るべき軍人がたくさんいたはずなのに、どうしてこんな俺が残るのだという絶望感はもう涙も流せないほどのものだった。


「どうせこうなるのなら、いっそのこと、もっと早くしてくれよ……。 そうすれば皆を大好きな空で失わずに済んだ……。」 


 8月15日の正午はいつもこの台詞しか出てこない。

 数か月、数日、数時間、数分、数秒。

言い出したらきりがないが、ほんの少しでも早く終戦を迎えていたのならどれだけの命が失われずに済んだと思っているんだと今でも毒を吐きたい気分になる。

 怒りの混じる悲しみの想いのまま黙祷していると、静かに障子が開き、ひょっこりと泰子が顔を出した。

 相変わらずの顔色の悪さが気になるものの、表情はにこやかだ。

「どうした?」

「今、黙祷が済んだところでしょ?」 

 泰子の問いに小さくうなずくと、その口角がさらにぐっとあがり微笑みにかわる。

 そして、手にしていた盆の上には涼やかなガラスの器に盛りつけられたところてんが二つ用意されている。

「食べるでしょう?」

 ひ孫のこういう所にはいつも降参してしまう。

本当によく見ているものだ。

 終戦記念日にはところてんを食べるという恒例行事はしっかりと把握済みというわけだ。

 泰子の存在がこの日に限っては薬のような気がする。それも切り傷にしみない薬だ。

 きっと俺の心の中のどろどろとした感情など知らないだろうに、その笑顔で救い出してくれるのだ。

「好物なんでしょ?」

 泰子の手から少しヒヤッとする程度の冷たさのある器を受け取ると、首を横に振った。

 好物は好物でも、俺の好物ではない。

 驚いたような表情をする泰子に、まぁ座れとすぐそばに腰を下ろさせる。

「これは供養みたいなもんだ。 誰の好物か知りたいか?」

「そこまで言われたら知りたいに決まってるでしょう?」

「尾上馨中佐。 俺の師匠だよ。 甘いものが全くダメで、黒蜜がかかったくずきりなんて水で洗えって言うくらいでな。 その人に、だったらところてんは? と、すすめた人がいてな。 それからはところてんだけは食べるようになった。 『ところてんもくずきりも兄弟みたいなもんだが、甘くないだけ随分と可愛い。』らしくってな。」

「変な人だね。 随分と可愛いってさ。 それって好きってことでしょう?」

「そうそう、素直じゃないんだ、あの人は……。」

 気分を変えようと、ところてんをひとすくいして口に入れてみる。

すっきりとした酢の味が広がってくる。

 すぐそばで尾上が上機嫌で笑っていたのが昨日のことのように思えて、目頭が熱くなる。

「じいちゃんの戦後ってさ、いつくるの?」

 妙にしんみりしている俺に毎度おなじみのストレート真っすぐの球がくる。

「そんなに抱えて生きてきたのに、じいちゃんはどうして自衛官になったの?」

 泰子は自分の分のところてんを盆の上へ戻すと、じっとこちらをみた。

 まっすぐで穢れのない目にはもうごまかすことなどできそうにない。

「戦争は嫌いだ。 失ってばっかりだったからな。 でもな、日本が何もしなくても戦争をふっかけてくる国があったとしたら、誰が護る? あの悔しさも痛みも知っている人間だからこそ護ることができると思ったからだよ。 ……それにな、戦後は永遠に続く。 終わるはずがないんだよ。 亡くなった人間はもう戻らないのだから。」

 泰子の顔を強張らせてまで話す必要があるのだろうかとほんの少しだけ躊躇してしまう。

 だが、堰をきってしまった胸の奥に居た心達は言葉として転がり落ちるように飛び出していく。

「誰もが国を護ろうとして、命をかけたんだ。 『まだ飛べる。 あの人を殺してなるものか!』って誰もが操縦桿を握るんだ。 『頼む、まだ生きていてください!』って……。 そんな中、生き残った人間が国を護ることをやめたら顔向けできないだろう? だから、何を言われても、どう思われても、非難され、罵声を浴びせられても俺は国を護れる戦闘機乗りでいることを選んだ。」

 手が震え、息も上がる。どくどくと脈打つ心臓がさらに鼓動を速める。

「生き残ってしまった者の背負うものはとんでもなく重かったんだよ。」

これほどまでに感情をかき乱される事象など俺の人生にはこの戦争体験しかない。

 自分が生きていてごめんなさいなんて馬鹿なことは口にしない。

でも、本当はきっとこの気持ちはずっと心の中でくすぶっている。

 目を背けていたけれど、俺の人生は、俺以外の誰かが手に入れることのできていたものかもしれないと、きっとずっと昔から本当は考え続けていた。

 結婚をして、子供が生まれて、自衛官として立ち、穏やかな老後を生きる。

 これは奇跡の連続であり、幸運の連続でもある。

俺の運だと笑い飛ばしてやれと叱咤するがどうしても抜け出せない闇がつきまとう。

「戦後は終わらないんだ……。 終わるわけがない。」

 ついには、師匠の好物まで喉を通らなくなる。

怒られてしまうなとふっと笑いがこみあげてきた。

すると、耳に鼻をすする音がようやく届いた。

「辛いことを聞いてごめん。」

 顔をあげると泰子は静かに泣いてくれていた。

 今どきの若者がこんな生き残りの話に真剣に向き合ってくれるのが嬉しくなってしまう。


「いいや、すまんな。 こんなことをきかせるつもりじゃなかったんだけどな。 泰子、あの写真とその桐箪笥の一番上の引き出しにある包みをだしてくれるか?」


 泰子は掌でそっと涙を拭きとった後、勢いよく立ち上った。

 妻の嫁入り用の桐箪笥の傍まで行くと、その引き出しの中を覗き込んでいる。

「あったか? ちょっと色が変わっているかもしれんが、紫と白の風呂敷わかるか?」

 物色して、ようやく何かを見つけたらしい泰子は一瞬、複雑な表情を浮かべ、一歩だけ足を引いた。

神社がないと生きていけない体質で、直感やら霊感やらがずば抜けているらしい泰子は完全に固まっている。

そういえば、鹿屋の歴史記念館にある零戦を目の前にした時、冷や汗たっぷりでぶっ倒れたことがあったな等と今頃思い出した。それでよく自衛官になろうとしたものだとほんの少しの苦笑いだ。

「まったく損な体質だな、お前は。」

 俺は重い腰をあげて、泰子の横に並び立つ。

 引き出しにそっと眠っていた預かり物を目にすると、鼻の奥がツンとしてくる。

「無理もないか。 これは強烈な想いがこめられたものなんだものな。」 

 横から手を出し、包みをそっと取り出した。

 泰子はなんでそんなに簡単に触れるんだというように俺を見た。

「じいちゃん、ソレ生きてるよ?」

 蒼ざめたままで、包みを指さす泰子を落ち着かせるように肩にそっと手を置く。

「幽霊なんてでやせん。 むしろ、幽霊でも逢いたいくらいだ。」

 生きているのは当然だ。想いは死なないのだから。

「さて、泰子。 お前に選択権をやる。 この包みにある想いの物語をきくか、否か。」

 俺は返答を待たずに、風呂敷を広げて、久しぶりに対面する手紙と写真に目を落とす。

 色褪せた写真は今にも破れ落ちそうだ。

 その写真の中には俺が逢いたくて仕方のない人が二人うつりこんでいる。

 人を食ったような顔をして参謀飾緒のついた海軍の礼服を身にまとった男性。その傍に寄り添うようにひたすらに幸せそうに笑っている線の細い女性。

「ご無沙汰しています。 尾上さん、燈子さん。」

 写真の中の男と目が合った気さえしてしまう。

「あの写真とこの写真、表情が全然ちがうね、この人。」

 泰子が横に座り込んで、一緒に写真を覗き込んでいた。

その手には飛行服を着ている時の尾上の写真があった。

「幸せそうだろう? でも、これをとる直前まではだいぶんごねていたんだぞ? 二人でとるなんて面倒だとかなんとか。 困ったもんだ。」

「なんでよ、恋人同士だったんでしょう? 普通に撮ればいいのに。」

 泰子の言う通り、普通に撮るのが当然なのだろうがこの二人においては難題だったのだ。

「難儀も難儀な恋物語だったから仕方なかったんだ。 でも、この時、燈子さん……あぁ、この女性が、世界で今が一番幸せなのだから笑ってくださいとお願いして、尾上さんは彼女に負けて笑ったんだ。 次があるかなんてわからなかったからな……互いに。」

 俺の人生で一番温かかった時間であり、一番の傷を負った時間だ。

 大切な人間が次々と奪われていく時代に、愛しい思い出が詰まっている。

 ぽとり、ぽとりと不可抗力の涙が膝の上にこぼれ落ちる。

「逢いたいなぁ……。」

 できるならば、あの時に戻って、すべてをひっくり返してやりたい。

 何かを変えることができる力があったのなら、俺はきっと何を引き換えにしてもこの二人を取り戻したい。

「じいちゃんはこの二人が好きすぎるんだね。」

「そうだな。 それに、困ったことに、この燈子さんって人がじいちゃんの初恋の人だ。」

 自分の失恋話ほどこっぱずかしいものはないのだが、どうしてか自然に笑みがこぼれてしまう。

「え? じいちゃん、この男の人に負けたの? じいちゃんの方がイケメンじゃん!」

 驚いたように目を見張っている泰子の顔を見るとイライラが増す。

 そう、その表情で俺を見ることが多かった燈子と泰子が同じに見える。

「お前ならどうする? この俺とこの人、どちらをとる?」

 若き日の自分の写真をずいっと泰子の前に差し出した。

 泰子はほんの少しも悩むことなく、回答を口にした。

「じいちゃんはイケメンすぎるからな……。」

 これにはさすがにがっかりだ。

「お前もか!」

 こらえきれず、毒を吐く。昔に戻ったようで腹立ちは二倍だ。

「え? 同じこと言われたの?」

 ふんと腕を組んでそっぽを向いた俺を泰子がからかうように指をさしてくる。

その笑った表情や仕草が燈子に見えて仕方がない。

「川村さんは女性におもてになるから大変なんだそうだ。」

「災難だったね。」

「まったくだ! ……で、どうするんだ? 聞くのか、聞かないのか?」

「聞くよ。 聞かないと後悔する気がするから。」

「そうか……。 よし、ところてんを食べてから話すとしよう。」

 再び、器に手に戻すと、器がほんの少し汗をかいていた。

 もう泣かないでと言わんばかりに、器が代わりに泣いてくれている気がした。

 泰子には泰子の物語がこの先に待っているのはわかっているが、まずはきっとそのルーツである二人の話しを聞かせてやらねばならない気がした。これは俺の思い込みの一環なのだが。

 泰子にとって戦闘機はあの人をみつけるためのシンボルだ。

どうしようもなくひきつけられるあの人を探すための核になるもののはず。

 俺の話す物語は、いわば対処法になるのかもしれないのだからと理由をつけた。

 なんせ、とんでもない不器用な相手を口説かねばならないのは泰子の役目になりそうだからだ。

「好きか?」 

美味しそうにところてんを口にしている姿を目にすると少しホッとする

「うん、大好きだよ。」

 泰子はにっこりとしながら、大きく頷いた。

 つい先日までは大好きなものを口にする元気どころか、身体を起こすのも辛そうにして居間のソファーで日長眠り込んでいたのに、今日は調子が良さそうだ。

 大量の内服薬を日々口にして、週に幾度かは通院して点滴や検査、大好きなお刺身や生肉の摂取は禁じられ、未だその心には闇があるだろうが、泰子は笑おうとする。

 正直なところ、俺よりも強い。そう思った。

 人生のどん底にいて、立ち上がることを諦めていない。

俺ならきっと駄目になっていそうだと思ってしまうほどに、泰子に与えられた毎日は病との戦争だ。

 泰子はファイター。空に上がらなくてもファイター。

「なぁ、泰子。 何でところてんが好きになった?」

 泰子は一拍置いてから、こう答えた。

「みたままの味に惚れたから?」

 実に簡潔な一言だ。

『一切、奇をてらっていないというか、そのままの味でしょう? 余計なことをされないし、余計なことができないから気に入っています。』

 あの懐かしい声が蘇ってくる。

泰子には話していないが、ところてんは燈子の好物でもあるのだ。

 おかしな偶然はやはりなという想いを抱かせるには十分だった。



The future starts today, not tomorrow.

                  Pope John Paul II (ヨハネ・パウロ2世) 

【未来は明日から始まるのではなく、今日から始まる。】


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