第9話 『おとといきやがれ』

 さらに、季節は廻り、この年の晩秋は日本各地に災厄をもたらす事態ばかりが起こり、横須賀航空隊内でも騒がしさだけがひときわ増していた。

 尾上の話によると、今橋中将と寺脇少将の水面下の殴り合いはとんでもない様相になってきているようであったが、ひとまずのところ、今橋中将の派閥優位に事が運んでいるとのことだった。

 今橋中将といえば、俺からしたら雲の上の人だ。

だが、戦闘機乗りあがりということもあり、ことのほか気さくな人柄で、びっくりするようなタイミングで飛行隊を訪れては、こっそり尾上と俺、小泉を宴席に引きずり出すのが趣味のようで、それがこのところ常習化していた。

 お気に入りの料亭で、お気に入りの席に座り、満足そうにしている今橋の傍に居る尾上は不服をありありと示すように口をへの字に結んだままだ。

「酒を飲んどる場合じゃないって顔だな、馨。」

 ひょうひょうとしたどこか人を食ったような笑顔をたたえた初老の男は、尾上に酌をさせながら、面白いものを見るように口角をあげた。

「尾上少佐です!」

 尾上は誰が馨だと言わんばかりの憤慨の修正を声にのせた。

それをものともせず、へへへと笑うと今橋は酒を一気にあおっている。

「面白くないなぁ、馨君。」

 海軍航空隊にあって尾上を『馨』等と気安く下の名前で呼べる人は他に居ない。

 それなりに恐怖の対象として君臨している尾上馨なのだから、部下の俺達からしたら今橋は奇跡のおっさんだ。

「探られて、何を暢気に飲んでるんですか!」

「じゃ、探られて、何か出たのか? 言ってみろ、馨君。」

 茶目っ気たっぷりに笑いながら、お気に入りの大根の漬物に箸を伸ばした今橋の手を尾上が押さえつける。

「もう冗談じゃ済まなくなってるんです!」

「そう、冗談じゃないな。」

「なら、何故、こんなにおおっぴらに俺を引きずり出すんです?」

「敵がその気なのだから、こちらも隠す必要はないだろう?」

「せんでもいい喧嘩を貴方が買ってどうするんですか!」

「なんだ、なんだ? お前が諫めるのか?」

 これは何とも面白いというように今橋はにやりと笑んで、頬杖をついた。

「俺達軍人同士の話で済むなら良い。 でも、寺脇少将のやり方は躊躇なく民間人を巻き込む。 それをいつまで黙ってみているのですか?」

「黙って見ているつもりはないがなぁ。 相手がそれだけ手づまりなのだとは思わんか? 背に腹は変えられん。 使い道の多いお前がいよいよ欲しいのだろうよ。 この厄介者を扱える手腕もない癖に。」

「中将!」

「尾上少佐、海軍も一枚岩ではないと何度言えばわかる? 喧嘩は殴り合いだけではない。 ここを使う戦い方もあるんだぞ?」

 今橋はわざとらしく言葉遣いをかえた。

その上で、自分のこめかみを指でトントンとつついてみせた。

「考えろ。 どうして戦が苦しく思える? 何故、何をしても先が見えないように思える?」

 俺もすぐ隣にいた小泉も何が始まったのかと息をするのを忘れて聞き入っていた。

「勝っていたはずの戦はどこで流れが変わったのか考えろ。」

 今橋の表情から引き潮のように笑顔が消え去っていく。

「この戦況に劣勢となったのは我が海軍が主役たる海上戦に負けているからだ。 海上戦に負けるのは航空戦で圧倒されているからといえるだろう。 航空戦が有利に展開しない原因は、我が海軍戦闘機が制空権を獲得出来ないことにある。 つまりは、戦闘機が敗れる故に劣勢となっているというわけだ。 海軍の戦闘機乗りとしてこれほど不名誉な言葉があるか? ならば、我が航空隊に絶対に敗れぬ精強部隊を立ち上げ、機動運用することで、制空権を部分的に回復する他、もう道はないと思わんか?」

 今橋は尾上だけでなく、俺や小泉の目をじっとみつめた。

 尾上が嫌がるのがわかっているのに、俺たちにどうあってもきかせたいらしい。

「大本営の主力を立て直しの間、海軍航空隊は有力な部隊を敵に見せつけることでまずは局地的優勢を保ち、来るべき決戦を待ち受ける他ない。 勝ち方にこだわる時点はもう過ぎ去った。 これからはましなこけ方を模索する時点といえる。 ただで転ぶかとネタを仕込む人間が必要だと言っている。」

 今橋が俺達二人にこんなに込み入った話をするのは初めてだった。

尾上が何やら考え込んでいたのは知っていたのだが、こけ方、つまりは負け方を論じる今橋の思想をこうもおおっぴらに耳にすることになるとは思っていなかった。

故に、俺は思わず表情を強張らせてしまった。ふいに横を見ると、あの小泉までもが脂汗を額に浮かべて息をのんでいるのがわかった。

「それを、こいつらにきかせて、楽しいですか?」

 尾上は今橋の酒をとりあげて、きつく睨みつけた。

 背中に怒りがありありとにじんでいた。

この背中はいつも、俺たちを護る時に見せるものだと俺と小泉は互いに顔を見合わせた。

「こいつらにはこいつらの考えがあっても良いと考えています。 勝手に行動されるのはいささか迷惑です!」

 尾上は俺と小泉をどうにも巻き込みたくないらしい。

「わかっていますか? これは危険思想だと裁かれかねない思想なんですよ? 下手したら軍法会議ものだ。」

「そうかもしれんが、お前の言う危険思想と現状把握を的確に行った結果はいまや紙一重だぞ、馨。」

「諸事理由はあるでしょうが、現時点でこいつらを一蓮托生と決めつけるのはやめていただきたい。」

 いつになく苛立っている尾上の声で、不思議と緊張がとけた。

それに、当の俺たちは尾上が行くというのなら迷うはずがないのになと、ほんの少しの不満を心に抱えていた。

「お前の所の二匹はそうでもないような顔をしておるが? 一蓮托生上等って顔をしとるぞ? お前もいい加減、本当のことを聞かせてやれ。 その上で、二匹がどう立ち回るかについては自由を許す。 さて、馨、どうするか?」

 今橋は俺達の腹の底をあっさりと見抜きニヤリと笑んでいる。

 尾上は今橋の言葉に小さく唸ったかと思うと、ばたりと畳に倒れこんだ。

「今の海軍においては貴方の思想は暴論を振りかざす有能な腰抜けでしょうよ。」

 しばらくして尾上はよいしょっと体を起こすと、胡坐をかいた。

「あぁ、もう! お前たち、特攻というものが実際にどんなものか聞いたことはあるか?」

 おもむろに俺と小泉の顔を見比べて、尾上はふうっと息を吐いた。

「じきに航空特攻が本格的に導入になるだろう。」

 俺と小泉は息をのんだ。

 俺は尾上が何を言っているのかわからなくなって、持っていたぐい飲みを落としてしまった。

 確かに、艦艇ではそんな研究もなされ、一部では実行されているかもしれないと噂にはきいたことがある。

 それが海軍航空隊に本格導入されるということは、この戦争はもはや末期症状ということだ。

「一般搭乗員の錬成はじきに停止。 すでに特攻要因の錬成に切り替わったところもある。」

 俺は膝にゆっくりと広がっていく熱燗の温度すら感じられなくなったほどに耳を疑った。

 各航空隊の搭乗要因の錬成期間が大幅に縮小傾向となったと耳にしていたし、経歴も不問、年齢も大幅に引き下げるという背に腹は変えられない転換期にいることも十分にわかっていた。

「それって……もう人も機体も戻さんで良いってことですか?」

 小泉がたまらず身を乗り出した。

「僕達は何度だって国を護るために飛んでるんだ! 死ぬために飛べって言うんですか?」

 尾上は表情一つ崩さない。そして、無言のまま、否定しなかった。

「どうして! 何で止めてくれんのですか! 死ぬために育てていくっていうんでしょう? この誇り高い海軍航空隊が!」

 肩を震わせて、尾上に今にもつかみかかる勢いで怒りをあらわにする小泉を俺はとっさに押さえつけた。

「落ち着け!」

 俺は必死に小泉をはがいじめにして、なだめる。

 だが、俺もまた小泉と同様のやるせない怒りに似た思いが胸を埋め尽くしていた。

 尾上は俺に小泉を放してやれと目配せをしてから、ゆっくりと息を吐いた。

「小泉、もう流れは誰にも食い止められん。 どれだけ想いのある上層部が海軍にいたとしても、大本営は振り上げたこぶしをおろすことができんのだ。 これは陸も同様だ。 だから、せめてもの反抗をしてやると中将は考えている。 特攻の方針に喧嘩を売る部隊を作ると言っているんだ。 最後の最後まであがくためにだ。」

 今橋が作ろうとしている部隊は確かに特攻とは正反対の意志のもとにあるものだ。

「最後の最後まで日本の空を護りぬく能力のある猛者を簡単に死なせはしない。 最後の砦だからな。 国のため死力を尽くして死を賜るのを恐れる者はおらんだろうが、特攻はあまりに乱暴な方針だ。 だから、中将は一矢報いたいと考えている連中と手を組む準備をしている。 俺もそれに乗ろうと思う。 お前たちはどうするか?」

 尾上はゆっくりと目を伏せてから手酌で酒をあおった。

「愚問です。 つまらんことをきかんでください!」

 ご機嫌斜めの小泉は、尾上から酒をもぎ取り、そのまま一気にあおる。

 俺は肩をすくめることしかできない。尾上が乗るなら俺達はその足なのだから聞かれるまでもなく乗るにきまっている。

「愚問ね……やることなすこと非難轟々だぞ?」

 尾上は腕を組んで、眉間にしわを寄せてからもう一度唸った。

「今更です! もう僕は少佐の手先として今橋中将に目をつけられてますしね!」

 小泉はそっぽを向いてしまうが、尾上の想いがわからない奴ではない。

 根っからの海軍飛行機乗りそのものなのだから、小泉は尾上に従う。

 尾上はすっと立ち上がると小泉の頭に手を置いた。

「特攻を止められもせん海軍士官は地獄行きなんだろうがな。」

「もとから天国に行ける発想あったんですか? あれだけ好き勝手して!」

 小泉の言葉自体は荒いが、覚悟の決まった目でゆっくりと今度は中将を見据えた。

「今橋閣下、僕にできることはありますか?」

 小泉は背筋を正して、座りなおした。

「新設精強部隊の搭乗要因の選抜に関して自薦他薦問わず。 情報の漏洩は一切許さん。 最後の最後まで隠し通して新設する。」

 今橋はゆっくりと三人の顔を交互に見ながら、嬉しそうに静かに言い放った。

「やりましょうとも!」

 俺は静かにうなずいた。

 尾上はポリポリと頭をかくと、再び、ごろりと寝転がった。

 中将の前で不遜すぎるでしょうと小泉に尻を叩かれていたが、今橋は尾上の好きにさせて、手酌で酒を楽しんでいた。

 



「さて、とうとうこの日が来ましたよ! 付けを払いに行きますよ!」

騒々しい毎日の中、ほんの少し人間生活を思い出させる情報が届き、俺は急ぎ尾上の尻をたたき、申し開きの旅へ連行することにした。

 あの雨の日の一件は予想外の相手から燈子へ暴露されることとなってしまったのだ。

 小泉という情報網によると、寺脇登紀子が真正面から燈子のもとをおとずれたそうだ。

 燈子にその真偽のほどを確かめるという名目で、尾上を外へ連れ出すことにした。

頭をどれだけ抱えてみても戦況は変えられず、どれだけ死力を尽くしても航空機の性能を高めることもできず行き詰まり、上層部はもめ事がやまず、航空隊の方針も定まらない。

航空隊でのにっちもさっちもいかない隊員たちの息苦しさは隊の親玉格である尾上がその背中ですべてを受け止めているかのような日々だったのだ。

小泉は何も語ろうとはしなかったが、俺同様に近くにいるからこそ、わざと尾上に情報を持ち込んできたとしか思えなかった。そして、俺はそれを迷いなく利用した。

「遅いですね。」 

 病院近くにある公園で燈子と待ち合わせをしていたが、待てど暮らせど燈子は現れなかった。

 半時ほど待った頃、1人の女性が大慌てでこちらへかけてくるのを目にした。

 頬をピンク色に染めて肩で息をしているその子は、すぐに話せる状態ではなかったが、それでも一生懸命に尾上と俺に何かを伝えようと必死だった。

「あの……高野理子と申します。 すみません。」

 その苗字でその女性が燈子の姉妹だということはすぐにわかった。

 すらりとした手足の気の強そうな目が印象的な女性だった。

「彼女は?」

 尾上の方が先に理子に対して口を開いていた。本当に燈子が相手じゃないと何の憂いもなくスムーズに対応できるのだからあっぱれだ。

「……喧嘩をしています。」

 とても言いにくそうに、理子は頭をぽりぽりとかきながらつぶやいた。

 言っている意味がよくわからなくて、俺と尾上は顔を見合わせてしまう。

「えっと……ここへ来る直前に尾上さんの許嫁という方が病院に来られて……。 姉につっかかったもので、その喧嘩を買ってしまったというか……。」

 理子はもうよくわからんというように空を仰ぎ見た。

「私は昨日、こちらへ来たばかりなので状況がよくわからないけれど、姉が必ず行くから待っていて欲しいと伝えてきてというので来ました。 お待たせして申し訳ありません。 でも、少し言わせていただいても?」

 その気の強そうな目が尾上をぐっと見上げた。

燈子とは違う、こう猛る炎のような性質があるようで、尾上は思わず、どうぞと小さくうなずいていた。

「ご自分の許嫁くらい、しっかりと躾をされてはいかがですか? それから、姉が巻き込まれるしかるべき理由があるのでしょうか?」

 たたみかけるようなものの言い方に尾上は閉口するしかなかった。

 ごもっともではあるのだが、事実はそうともいえないので、俺が弁明をすることにした。

「少し訂正をさせていただいても? ……少佐には許嫁はおりません。 その許嫁を名乗る方は勝手にそうおっしゃっているだけです。 それから、燈子さんは巻き込まれるというより、おそらくご自分で喧嘩を買ったのかと思いますが?」

 この言い方が悪かったのか、何なのかよくわからなかったが、理子の攻撃目標が確実に俺に切り替わった瞬間だった。

「勝手に巻き込まれたとおっしゃりたいのですか?」

「そうは言っていないでしょう? 一事が万事、決めつけないでくださいませんか?」

「帝国海軍の人間は謝りもしないのですか?」

「ですから! そうではないでしょう? と言っています!」

 どうして燈子の妹と喧嘩しなくてはならないのかと苛立ちがピークになったところで、背後にいた尾上が静かに、すまないと詫びた。

 振り返ると尾上は軍帽を脱いでいた。

「尾上さんが責められることじゃない!」

「川村、もういい。 このお嬢さんの言う通りだ。 諸事情があったにせよ、管理不行き届きなのはかわりない。 そもそも高野さんがコレに巻き込まれる理由ももとからないのだし。 悪かったね、始末はこちらでつける。」

 尾上は軍帽をかぶりなおすと、病院の方へ歩きだそうとする。

「尾上さん! 燈子さんがどうして喧嘩を買ったのか、わかってますか?」

 俺は尾上の前に立ち、その歩みを止めた。

 何も答えようとしない尾上にもいらだちが募る。

 その時だった。『尾上さん!』と遠くから燈子の声がした。

 待ってと手を振りながらかけてくる燈子の髪が乱れている。

それだけで、どれだけ全速力で駆け付けようとしたかがわかる。

「よかったぁ、間に合った!」

 汗びっしょりで、にっこりと微笑む相手はもちろん俺ではなく尾上だ。

尾上の腕をつかんで、一息つこうとする愛しい女性の姿に切なくなるばかりだ。

 理子も理子でびっくりしたような表情で姉のまっすぐな愛情の先が尾上に向かっているのを見ているだけだ。

 俺はその理子を見て、ため息しかでない。

「だから言わんこっちゃない。」

 これを見ればわかっただろうと呆然としている理子の腕を引いて、二人から少し距離を取らせた。

「許嫁に一番近いのは君のお姉さんだ。 わかった?」

「……だから喧嘩を?」

 どうしようという表情が素直にも出てくる理子が急に幼く見えた。

 ありありと反省の最上級という後悔がその背ににじんでいた。

「そうみたいだね。 それに、本当に少佐の知らない所での話しだったんだ。 それで、今日、その件について君のお姉さんにお話しを伺う予定だったわけで……。」

「今日が初めてではないと?」

「おそらく。 一度は流してくれていた燈子さんも堪忍袋の緒が切れたのかな?」

 理子はわかりやすく、がっくりと肩を落としていた。

 姉の想い人につっかかったのだからいたたまれないことだろう。

「後で少佐に詫びてくれると助かります。」

 理子が大人しくうなずいてくれたので俺はようやく留飲を下げることができた。

 そして、燈子が一息ついたころ、ようやく事の顛末について状況確認をすることとなった。

 ゆっくりと公園を歩きながら、登紀子の襲来についての会話が始まった。

 一度目は燈子の宿舎、二度目は病院に登紀子は現れたそうだ。

 最初は尾上の許嫁だと名乗った登紀子に対して、燈子は何も言わずに流していたようだったが、最後にはこらえきれなかったと白状した。

「流しておればよかったのものを……。」

「だって! あなたを差し出せなんてことを言われて我慢ができますか?」

「差し出せか。 だいたい許嫁じゃないし、見合いしただけだろうが。」

尾上は世界で一番迷惑そうな表情をしていた。

「ところで、それになんて答えた?」

尾上がぴたりと足を止めて、珍しく燈子を眺めた。

 燈子は何と答えたのか。それが俺も尾上も一番知りたかった点だ。

 尾上はその答えを待つ様に燈子をじっとみた。

 燈子は臆することなくにっこり笑って、片手を腰にあてたままでこう言った。

「おとといきやがれ。」

 燈子の辞書にそんな言葉があったのかと、俺は大爆笑してしまった。

 理子や尾上すら我慢できずに笑い出してしまった。

 蛇のような登紀子に食われると心配していたのに、なかなかどうして、この女性は強い。

「燈子さん、すげぇ。」

 俺は面白すぎて、腹が痛くなるくらい笑い、ついには涙が出てきた。

 すぐ横では理子も同様に涙を流して笑っていた。

「だって! どうして私がそんなことに協力しないといけないんです?」

 燈子は至って真面目な顔をして、尾上にずいと歩み寄った。

 敵に塩を送るようなことをわざわざするようなおバカではないと口先を尖らせている。

「それとも、協力した方がよろしかったですか?」

 燈子にまっすぐに見上げられ、尾上はたまらず顔を背ける。

「どうして何もおっしゃらないんです?」

「……迷惑かけたな。」

「それだけ?」

 燈子は大袈裟に不満の声を漏らした後、唇をかんだ。

だがすぐに表情は不安でいっぱいに歪み、今にも泣きだしそうだ。

「若いし綺麗で可愛らしい方ですね。 少佐はおもてになってさぞ気分が良いでしょうね。」

 燈子は泣きたいのか怒りたいのかもうわからないというように言い捨てると唇をかんだ。

「誰がもてるんだ!」

「少佐です!」

「どこがだ!」

「お見合い相手がわざわざ私の所へ来るとか!」

「あいつが勝手にしたことだろうが! 俺は知らん!」

「あいつ? ずいぶんと親しい呼び方されるんですね。」

「はぁ!? なんでそうなるんだ? それ以外に何て呼べば良いのか言ってみやがれ!」

 尾上はまるで浮気がばれた亭主のようだ。

 燈子にも険のある言い方しかできないが、その温度はあたたかくて実に優しい。

「私は今日ほど、祖父が海軍少将でないことを悔しく思ったことはありませんでした。」

燈子はうっすらとにじんでくる涙をみせまいと袖口で拭いながら背を向けた。

「私には何の手土産も持たないですから!」

 そう言うとうつむいてしまう。

 燈子は詳細なことは何一つ語らないが、俺も尾上も登紀子に何を言われたのかがすぐにわかってしまった。

 俺は肘で何か言ってやれと促すが、尾上は困ったようにして身を引く。

 勇猛果敢はどこで落としてきた。俺は力いっぱい尾上の背中を押した。

「すまん。 嫌な思いをさせたことは詫びる。」

 尾上が神妙な面持ちで詫びている姿が借りてきた猫のようでがっくりとくる。

 抱きしめれば済むことをこの男はと俺はため息をもらすしかない。

「だがな、そもそも、君が阿呆な事を口にするから巻き込まれたんだぞ?」

 『何を言い出すんだ、尾上!』と俺は必死に状況をかえるためにどうするかと思案する。

 だが、尾上のその発言は燈子によって撃破される。

「阿呆ですって? 私の想いをバカにしないで!」

 くるりと振り返った燈子が尾上に抱き着いた。尾上の胸に顔をうずめて動こうとしない。

 まさに起死回生。

 俺は空を仰ぐようにして二人に背を向ける。これ以上はいくら何でもみたくない。

「阿呆、はなれろ!」

「絶対に嫌だ!」

「そんなことをするから、いらんもんにからまれるんだ!」

「もう、宣戦布告しました!」

 燈子の物騒な物言いに、俺は唖然としてしまった。

 くるりと振り返ると、尾上が血の気の引いた顔をしていた。

「一体、宣戦布告って何を言ったんだ?」 

 尾上は力こめて燈子を引き離すと、真顔で覗き込んだ。

「何を言った?」

 敵は少将の孫で、戦時下であれば最強の血統。

「君は海軍病院で働いていることを忘れたのか! おとといきやがれだけでも相当な喧嘩を売ったんだぞ? 相手は何をしでかすかわからんのに、何を言った?」

 尾上の声が心配のあまり、ついには怒りをはらんでいる。

「知らない!」

「知らんなんてことあるか! 頼むから、何て言った? 言え!」

 尾上の語気がさらに荒くなる。そして、燈子の肩をつかむ指先にも力が入っている。

 その表情にはお前が大切なんだぞと素直にもにじみ出ている。

「どうして言わないといけないんですか? 尾上さんには関係ないのでしょう?」

「関係あるだろうが!」

「じゃ、仮にそれをきいたとして、尾上さんはどうしてくれるんですか?」

「それは聞いてから考える。 とにかく言え!」

 お願いしているようには聞こえはしないけれど、声が心底困り果てているのを感じ取ったのであろう燈子が意を決するように顔をあげた。

「尾上さんのことは死んでも諦めませんって言いました。」

 燈子は尾上の胸のあたりをぎゅっと握り締めた。

「協力するなんて天地がひっくり返ってもできません。 尾上さんの出世のために渡せって言われたって……尾上さんは尾上さんのもので、誰かに差し出すものなんかじゃない。 尾上さんが望まないなら、私は尾上さんを護ると言いました。 いけませんか?」

 うつむいた燈子の頬をポロポロと涙が伝い落ちていく。

「好きでいるのは勝手でしょう? この気持ちまで諦めなくちゃいけませんか? これを私に言わせて、尾上さんは考えるんでしょう? 言いました。 で、きいてどうしますか?」

「これから考える。」

 尾上の言葉は歯切れが悪い。

形勢が圧倒的に不利なことは自覚済みなのだろう。

「そうやって、はぐらかすんでしょう? だから言いたくなかったのに!」

 燈子の言う通りだ。

 言わせたのなら抱きしめるくらいの覚悟を持ってくれよと思ってしまう。

「私は正直に生きたいんです。 悪いですか? 軍人だけが戦地に出ると思わないでください。 私にだっていつ赤紙が届くかわからないんだから。」

「そう……だったな。」

 これには尾上もたまらなくなり、ぽんぽんと燈子の頭を撫でた。

女性でありながら赤紙が届くのは彼女たちだけだ。

高野燈子が出身の神戸を離れ、横須賀で働いているにはわけがある。

 日本赤十字関連である彼女は立派な従軍看護婦の資格を有している。

彼女の仲間の多くは中国や南太平洋の最前線へ送られている。

いつだったかもうそろそろ国外にだされるかもしれないと話していたことがあったが、まだ彼女には召集の赤紙が来ていない。

数か月ほど病院船に乗っていたことはあるようだが、彼女の勤務地はおおむね内地の海軍病院のままだ。

 根っからの軍人である俺や尾上とは違って、戦地へ赴くのがあたりまえでない燈子にはたまらない日々なのだろう。

「君たちがいるから俺たちは戦える。 高い矜持を持て。」

 もっと甘い言葉を用意してほしかったが、これが尾上だ。

 燈子は泣き顔を隠すように、尾上の胸に顔をうずめる。

「今だけだぞ?」

 尾上はもう燈子を引きはがそうとはせずに、その背を撫でていた。

 はたからみていると、悔しいくらいにお似合いという奴だ。

 恋敵の尾上が燈子をそっと抱きしめている。

それなのに、何故だが嫌じゃない。

 尾上はもう腹をくくるべきなのだとさえ思ってしまう。

 人生は一度きり。

 軍関係者であろうと看護婦であろうと民間人であろうと、明日の命などわからない世の流れの中に生きているのだから。

日本国内は軍部の情報統制がしかれ、戦況の真実など民間の人間は何一つわからないままだろう。

だが、尾上や俺は違う。

軍人だからこそ、いやというほど聞きたくない情報を耳にする。

 ただ好きな人を、素直に抱きしめることがあと何回出来るのだろうかと思うほどに、混迷の中に生きるしかなかった時代が尾上を頑なにしていた。

 それでも、尾上の両手は本音を隠せない。

燈子をそっと抱きしめている尾上の表情は俺をほっとさせてくれる。

尾上が戦いをやめられる場所を見つけられたことが嬉しかった。

だからこそ、俺の失恋はとんでもない痛みを残した気がする。

「こんなに好きな相手がいるってすごいな。」

 理子はどこか寂しそうに、小さくつぶやいた。

「相当大変だと思うけどね。 ……確かにすごいことだと思うよ。 そうそう出逢える想いじゃないだろうし。 そういう相手がいるのは奇跡なんだろうね。」

 俺が理子にかけてやれる言葉はそれだけしかなかった。

 誰が見ても、燈子が持っているまっすぐな想いの強さには完敗だ。

 尾上がそれを何となくでも受け入れ始めているのがわかるだけに、辛さが倍増中で、性懲りもなく、諦めの悪い俺は精一杯に耐えているんだなんて言えなかった。

理子にもっと気の利いたことが言ってやれないほどに、心に余裕がなく、女々しい自分に実はかなりうんざりしていた。


We are never so defenseless against suffering as when we love.

                 Sigmund Freud(ジークムント・フロイト)

【恋に落ちているときほど、苦痛に対して無防備であることはない。】



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る