第15話 愛おしいからこそのさようなら

 紫電の改良は思うようにいかず、米軍に研究されつくされた零戦ではもう太刀打ちできない八方ふさがりの中、横須賀航空隊の試作機運用に絡んでいる面々は頭を抱えるしかなかった。

 紫電ありきの新設部隊を見据えているのにと苛立ち募る尾上は数居るテストパイロットに混じり、自らも搭乗しようとする始末だ。

 恋人に逢いたいという一言すら口にできないくらい謀殺された日々。

戦時中なのだから、誰もが愛する家族や恋人と引き離される世相なのだから、ひどく当然のことなのだけれど、それでも尾上には逢いに行って欲しいと俺はそう思っていた。

「腹減ったな。」

 顎のあたりを指でさすってみるとざらざらとした感触がした。

 鏡の中の自分の顔は不精髭だらけで、我ながら色男台無しという奴だ。

 戦時中なのだ、たいして気にすることでもないかと剃ることもせず、一回前の食事はいつとったのだろうかなんて思いながら伸びをしてみる。

 試作機は昼間しか飛行しないが、その他の部隊運用は昼夜問わず、離発着が続いている。

 けたたましいエンジン音を耳にすると、すぐにでも飛び乗ってしまいたいが、この頃ではどうにも俺も尾上もその役割が回ってくることはなかった。

 唯一、空を飛んでいるのは小泉くらいのものだった。

「そういや、尾上さん、戻ってきてないな。」 

 尾上は横須賀鎮守府、俺は横須賀航空隊と10日ばかりの別行動だ。

 上の階級には上の階級の難題という奴があるのだろうが、もっぱら航空戦力の増強に否定的な寺脇一派との戦いだろう。

 尾上環という尾上の父親の名前というか人望というのは寺脇の言葉以上に威力があるようだった。覚悟を決めた尾上は今橋に『自分をうまく使ってくれ。』と言ったようで、何か会議がある度に尾上環の一人息子はそこに呼ばれることとなっていた。

「名前一つで流れが変わる親父さんってどんな男だよ、まったく。」

 今橋中将曰く、『出世街道まっしぐらの艦艇乗りになった馨』、つまりは、そっくりそのままらしい。容姿に声、思考、行動、何もかもが息子に踏襲されているそうだ。

 もう少し生きていてくれていたら、もう少し共にあってくれていたらなんて言いながら、酒を飲んで泣きながら絡んでくる中将に尾上が苦笑いしていたことを思い出した。

「出生街道まっしぐらにしようと思えばできるのにしないのが尾上さんだからな。」

 そのあたりが御父上との違いとでも言うべきか、より自由度が高い男というか。

 俺の師匠は型にはめようにもはまらないから、亡き御父上の昇進速度と大きく差があるのは仕方がないことだと言える。

 それでも、父上の御名をこうまでも機能させているということは尾上はただのぼんくら息子と言う扱いではなく優秀な2世として受け入れられているということだろう。

 優秀と言うのも困りものだなと心底思う。

 尾上はきっとこの先、現場ではなく頭脳として機能し、いずれ嫌がっていた軍隊における政治という舞台に立つこととなるのだろう。

その時、俺はどうするのだろう。

 俺はきっと尾上を支えたいとは思うが、現場にこだわる気がする。

 尾上の想いを知っている奴が一人くらい現場にいた方が良いだろうし、士官上がりと叩き上げをまとめていく役割を果たす丁度良い駒が必要になるだろうしなんて考えながら大きく伸びをしてみた。

「運動不足甚だしだな……。」

 凝り固まった肩の筋肉が悲鳴をあげているようだ。

「季節もかわるわなぁ。」

 窓際に立ってみると、急に肌寒く感じ、はじめて季節が変わったことを体感した。

 明け方の気温差に窓の内側は結露だらけだ。

 燈子のもとへ尾上がこっそりとでかけていったのはいつだったか。

「もう2ヶ月か、早いな……。」

 それを送り届けるついでに理子と燈子の病状について話し合ったのを思い出した。

 病名は悪性リンパ腫。

 腫瘍は徐々に全身を蝕み、燈子の寿命を確実に奪っていく。

 絶対に尾上にだけは知られたくないのだと、俺は燈子から釘をさされていた。

 いずれはわかってしまうことなのだろうが、本当にそれで良いのだろうかとここ最近、考えてしまう。

「まずいよな……。」

 理子のあの話ぶりを分析するに至ると、仕事するのはもう限界、燈子はもうじき、海軍病院を除籍されることになる。外地へ送り出すこととなる従軍看護婦としてもう機能できない健康状態であることがすでに本部に報告されていることだろう。

 戦時下にあって、人員の不足は否めないところだが病人を看護婦として働かせるわけにはいかない。となると、今橋中将あたりに俺がそろそろ呼び出されてもおかしくない頃だ。

 もっとも、今橋中将が一番に気づいてくれればの話なのだが。

「川村中尉、おはようございます。 急ぎの呼び出しです。」

 やっぱりきたかと俺は紙切れ一枚を受け取る。

【鎮守府へ、至急来られたし。】

 発信先は間違いなく今橋中将だ。

「すぐに行く。」

 俺を迎えにきたらしい下士官は小さく敬礼をして、先に部屋を後にした。

 そっと振り返ると小泉は規則正しい寝息をたてていた。書類によだれが広がろうとお構いなしに眠っている。

「……ぐっすりなわけね。」

 俺はぐっすりの小泉に気取られないように、横須賀鎮守府へ出向くことにした。

 徹夜続きの足は階段を駆け下りるのをいくらか難儀にした。膝がかたまってしまったようでまかりまちがったらこけてしまいそうだ。

 隊舎を出ると明け方の冷たい風が一気に吹き付けてきた。底冷えするような寒さだ。

 相当に眠っていないのだが、面白いくらいに目が覚めた。

「中尉、どうぞ。」

 どうにも気がすすまないが軍用車の扉が開かれてしまった以上、腹をくくらねばならない。座りの悪い軍用車の中で考えることは一つだ。

 どうやってこの状況をうまく尾上に伝えるのか否かにつきる。

 最大の幸運はこの事態を一番早く察知してくれたのが今橋中将であったことだ。

中将ならば尾上に直接詰問の先が向かうことはない。

 考えあぐねすぎて、車から見える外の風景などまったく目に入らなかった。

あっという間に鎮守府エントランス前に車が寄せられてしまったが、気が重すぎてわかってはいるのだが降車するはずの足が動かない。

 何度、深呼吸しても胸の奥がすっきりする様子はなく、ややもすれば頭痛すら襲ってきそうだ。運転手に軽く首を傾げられたあたりで、ようやく俺は気にするなと手をふり、気合いそこそこに車を降りた。

 敵対する者も多い横須賀鎮守府なのだからと気を引き締め、中将のもとへ急いだ。

「お、きたか!」

 階段を駆け上がる途中で、当の中将が書類片手に階段を下りてくるのと出くわした。

「お呼びでしょうか?」

「ついて来い。」

 今橋に顎で促され、執務室へ招き入れられた。

 デスクの上には今にも雪崩が起きそうなくらい書類が山積みだ。

 応接セットに座れと促されて、俺は中将と向かい合ってすわることになった。

「なぁ、川村。 お前に妹はおったか?」

「おりません。」

「残念だ。 その顔の妹ならばさぞかし美しいかと思っておってなぁ……。」

 今橋は紫煙をくゆらせながら、こちらをちらりと見た。明らかに含みたっぷりの視線に俺は回りくどい話しはやめて欲しいと小さく息を漏らす他なかった。

「川村、不思議なことがある。 妹のおらん貴様の妹とは誰なのだろうな? 中尉の妹の薬剤の処方を依頼されている軍医がおってだな。 その薬、かなり具合が悪い病人に使うものらしくてな。 貴様の身内だからといたく気にしておったぞ? さて、妹のいない貴様はこれをどう説明するか?」

「お察しの通りですとしか申し上げられません。 薬剤不足のため軍関係者の縁者でなければ処方できんと言われ、私の妹の処方だとして依頼しました。」

「貴様はどちらの側の人間か?」

 今橋は獰猛な獣のような目で睨みつけてきた。本気で怒っているのが肌で感じるほどによくわかった。

「どういう意味でしょうか? 私が尾上少佐の敵に回ったことがあるとでも?」

 これだけは誤解されたくはなかった。

 燈子のためだけに伏せてきたわけではない。尾上のことを考えているからこそ、タイミングをはかっていたのだからと睨み返した。

「昨日、彼女にあってきた。」

 今橋はふうっと息を吐くと、こちらに目をやった。

「馨にだけは知られたくないそうだ。 貴様に釘を刺していたとも話していた。 彼女の考えはよくわかった。 だがな、川村、貴様が馨であったならばどうであるかを考えてみたことはあるか?」

「それは……。」

 俺ならば到底耐えられない。言われて初めて気が付くなんて。

 どうして、今までこの想いにたどり着けなかったのか。

 俺は自分だけが秘密を知っているようで安堵していたのか。

 膝の上に置いたままの手に汗のしずくがこぼれ落ちた。

 違う。心のどこかで分かっていたのだ。

 燈子を失った後の尾上の姿を俺はきっとみていられない。

 だから、俺はこの現実から尾上を遠ざけたかったのかもしれない。

「彼女には申し訳ないが、覚悟を決めてもらえるよう、昨日厳しい言葉を残してきた。」

「何をおっしゃったんですか!?」

 俺は思わず立ち上がって、今橋の方へ身を乗り出していた。

「燈子さんは病身ですよ!?」

「だから、貴様はどちら側の人間かときいている!」

 今橋も立ち上がり、今度は思い切り胸倉をつかまれた。

「高野燈子はもはや馨の任務に支障をきたす存在なのだから覚悟を決めて当然だろうが?」

「まさか身を引けとおっしゃったんですか?」

 身体中の血液が逆流し、沸騰しきってしまったようで、身体が震えた。

 こんなことになるために黙っていたわけじゃない。

「馬鹿にしてくれるな!」

 今橋は俺を突き放すと、鼻で笑ってからゆっくりと座りなおした。

「馨と添う覚悟を決めろと言うただけだ! 見くびるな!」

 俺はその言葉に一気に足の力が抜け、自分でもびっくりするくらい簡単にその場で膝を折った。

「大の男がなんて様だ。 さっさと立たんか。 それだけ馨のそばにおって何にもわかっておらんとは……。 今更、馨から彼女を取り上げてみろ。 もうそれこそどうにもならんくらい厄介者になるだけだぞ?」

「よかった……。」 

 俺は何とか椅子に座りなおすと、詰襟を外して何とか呼吸を整えることができた。

「でも、正直なところ、どう少佐にお伝えしたらよいのかわからんのです。」

「まだ死ぬと決まったわけではないだろうが? 貴様は最初から死ぬと決めているようだが、馨なら絶対に諦めはしないと思うが?」

 今橋は俺をじっとみつめると、ニヤリと笑んだ。

「それに、大切なのは月日ではないだろう? この時代、戦争で死のうと病で死のうと同じだ。 何か違いがあるとしたらそれはどう生きたかが物を言うとは思わんか?」

 完全に抜け落ちていた発想だった。

 そうか、俺達だっていつでも死はすぐそばにあるじゃないか。

 今橋の笑顔が俺の胸の中にあったどすぐらいものを祓ってくれた気がした。

「大人しく結婚してくれるとありがたいんだがな……。」

「少佐ですからね……。」

「本当にお前は馨をわかっとらんな。 アレは迷いはせんだろう。 大問題なのは高野燈子の方だ。 どれだけすごんでみても、首を縦に振りはせんかったからな。 理由を問うたら、何とぬかしたと思う?」

「少佐の子どもを残せないから、ですか?」

「貴様はやっぱりこちらの側ではなさそうだ。 彼女のことはよくわかるようだな。」

 今橋の大ため息に俺はうつむくしかなかった。

 おっしゃる通り燈子のことならよくわかる。

「惚れていたんです。 仕方ないでしょう?」

「はぁ!?」

 今橋は顎が外れるんじゃないかというくらい口を開けてこちらをみた。

 それならばどうして尾上との縁をお前がつなぐのだというような目に俺は苦笑いだ。

「惚れた女性の一番が、私の惚れた男だったからです。 少佐よりうまくやれたと思うんですが如何せん、私は眼中になかったようでして。」

「馨も思わぬ伏兵だな……。」

「肝心なところで少佐がちゃんと動いたので寝首をかかずに済みました。」

「惚れた女の願いを叶えてやるのが貴様の心意気か?」

「そのようです。 でも、尾上さんがあんなに優しい顔をする時間をもてることがそれより上の願いだったみたいです。」

「大馬鹿野郎だな。 馨が相手なら、貴様ならいくらでも奪えただろうに。」

「中将、運命って信じますか? 私は信じざるを得なくなってしまって。 その結果、この大失恋です。 どこぞの良い婦女子でも紹介していただけるとありがたく思います。」

 今橋はからからと笑うと、それは無理だなと肩をすくめた。

「紹介なんかせんでも、もう丁度良いのがおるじゃないか?」

「そんな方いませんけれど?」

「おっかない妹君などもろうてしまえ。」

「冗談を!」

 突然何を言い出すかと思えばこの親父めと俺は口をとがらせる。

 理子を嫁になんてできるはずがない。

「悪かった、悪かった。 さて、川村。 高野燈子を説得してこい。 余計な輩に邪魔をされる前に我が家に連れて帰った。」

「我が家!?」

「こちらが情報を手にできたということはどういうことか想像はつくだろう? 『君が利用されるのはこちらも困るし、馨から身を隠すには最適だろうから。』 と説得して連れてきた。 馨からのお叱りは受ける覚悟だがな。 だから、説得を急げ。」

「承知しました。」

 俺は今橋にポンと背を押されて廊下へ飛び出した。

 そして、一気に階段を駆け降り、鎮守府を後にした。

 



 急転直下、青天の霹靂、いや、何と言うべきか。

 今橋中将と密談をしたわずか三日後に、事態は一変した。

「何とか言いやがれ!」

 頬を打たれる拳の威力たるやこれまで経験のない痛みそのものだ。

 撃ち込まれる拳をよけることはしなかった。

 何とか言えとすごまれても、言い訳などできるわけがなかった。

「川村!」

 仕事を取ったら何もない、そんな男のはずだったのに、予想外の勘の良さに俺はたった今絞られている最中だ。

 考えてみたら、燈子に触れる機会があるのだから、その不調にうすうす気づいていたのだろうなとようやく思い至った。

 今橋と俺の想定をはるかに凌駕した怒りは、龍が何匹も一気に空を駆け回っているがごとくで、腹心中の腹心の俺であってもお構いなし、殴られ過ぎて、切れた口の中は血の味しかしない。

 何とか間に入って止めようとした小泉もあっさりと巻き添えを食らってボロボロだ。

「あいつが口止めしていたのか!?」

 燈子に口止めされてはいたが、燈子に怒りが向くのはよくない。

事実がどうであれ、大切な人を護るためならばその事実を伏せ、かぶっていくことに決めた。だから、俺はひたすらに静かに首を横に振ることにした。

「お前はどんなつもりで黙っていたんだ!?」

血走っている目でにらみけられるが、どうにも俺には恐怖が感じられなかった。

 嬉しくて、こんな状態なのに笑ってしまいそうだ。

尾上がまっすぐに燈子を案じてくれているのがわかって頬が緩んでしまいそうだ。

 燈子に向かうであろう怒りを一旦、俺や小泉が引き受ける。

それで良いんだと思った。

「あの阿呆が送り付けてきた。」

 尾上の手にあった手紙はぐしゃぐしゃだ。

それを押し付けてくると窓際まで歩いていき、外を見ながら怒り冷めやらずの尾上は舌打ちをしている。

 握りつぶされた便箋を広げてみると、鈍感王の尾上がどうしてこうも早くに事実にたどり着いたのかがわかった。

 燈子が手紙に短くこう書いていたのだ。


【尾上馨様

 連日の任務、お疲れ様です。

 どんなことがあろうとも、お身体だけはご自愛ください。 

 どうやら私は療養のため従軍看護婦を除籍されるようです。

 これまで過分な思い遣りをいただき、感謝いたします。

 どうか、健全な体をおもちの方とお幸せにお過ごしください。

 遠くから少佐のご多幸をお祈り申し上げます。         

                         高野燈子    】


             

 今橋の説得も、俺の説得も燈子には通じなかったというわけだ。

 燈子は尾上の未来を護ろうと自分の願いをきっちりと切り捨てようとしていたのがよくわかった。

 手紙が長くなればなるほどに、弱い自分があふれ出しそうなのだろう。だから、この短さなのだともわかってしまった。

「いつもなら、それの3倍は書きやがる癖に! こんな時に一番短いとはな!」

 尾上はわかりやすいにもほどがあるというくらい焦っていた。

 尾上もまた、この手紙の短い文面に燈子の隠された本音を感じとっていたようだ。

「何が過分な思い遣りだ! 阿呆か、あいつは!」

 イライラが収まらない尾上は手袋を床に投げ捨てた。

「探してやらんと……あいつは阿呆だから……。」

 あの尾上が言葉を詰まらせた。ようやく尾上は自分自身でもわかってしまったのだろう。

 燈子がいなくなれば困るのは尾上の方だということを。

「戦時中のこのややこしい時期ですよ? 上の目が痛い中、行かれますか?」

 俺は投げ捨てられた手袋を拾い上げ、尾上の意志を確認する。

「阿呆を連れて戻るのに、誰に許しを請う必要があるんだ?」 

今橋の言う通りだ。尾上は迷わなかった。

このただならない戦況、この司令部の中にあっても、迎えに行くつもり満タンという奴だ。

「お連れします。」

 俺は小泉に車を回してくるようにと小さくうなずいた。

 だが、小泉が扉を開いた瞬間、今橋が真っ青な顔をして飛び込んできた。

「馨、彼女がおらんようになった!」

 今橋は家族からの知らせを片手に飛んできたようだった。

 飛びだしていこうとした尾上の腕を今橋が力一杯引き留めた。

「今、探させているから!」

「あの阿呆が!」

 尾上は苛立ったように声を上げる。それはもう悲鳴だ。

「俺は……気が向いたら逢いに行くとあいつに言った。 約束したんだ。」

 尾上があの日の別れ際に燈子に耳打ちしていたのはこれだったのか。

 気が向いたらなんて言い方だが、この人なりの愛してますだ。

「あいつが泣いてる! こんな手紙、嘘ばっかりだ。 ……泣いてるんだ。 時間が惜しい、俺が探しに行って何が悪い?」

 尾上に胸倉をつかまれた今橋の顔が苦渋の色にかわる。

 尾上も今橋も不精髭のままのやつれ、疲れ果てているが、尾上は今にも死に急いでしまいそうなほど追い詰められた顔をしている。

 どれだけ戦況が渋くてもこんな顔をみたことはなかった。

 俺はこんな時に思い出していた。

『俺の方が壊れる。』

 嚙んだ唇から血がにじんでいるほどに尾上は焦っている。

 そういうことか。あなたの魂は何よりもこれを恐れていたのか。

 痛いほどに伝わってくる尾上の心が俺の涙腺を破壊しかかる。

 この男はばかげたレベルの純粋な愛情しかもっていない。

 国をここまで必死に護るのは、護る対象に燈子がいるからだ。

 では、燈子を失ったら尾上はどうなるのだろう。 

「少佐! 冷静におなりください!」

 俺は今橋を丁寧に扱えと、冷静になれと尾上の腕を力いっぱいつかむ。

「……申し訳ありません。」

 さすがの尾上も気が付いたらしく、そっと今橋から手を放した。

 そして、自分自身の感情一つコントロールできないのか、髪をかきむしった尾上はその場にしゃがみこんでかすれた声でうなった。

「どうしてこうなる! ……どうしてだ!」

 尾上の頬を一筋の涙が伝い落ちる。もう完全に冷静沈着な尾上はどこにもいなかった。

「馨、落ち着け。」

「落ち着けるわけないでしょうが!」

 今橋の腕をはねのけるようなしぐさをした尾上はまるで子供だ。

 勇猛果敢で抜群の度胸のある戦闘機乗りがたった一人の女に撃沈。

 今橋は嫌がる尾上をかかえるようにして、とにかく椅子に座らせると、燈子の考えを尾上にゆっくりと諭すように話し始めた。

 尾上はそれに耳を貸してはいたものの、終始首を横に振り続けた。

「あいつはわかっとらん。」

尾上は怒ったように繰り返しそう呟いていた。

 半時ほど過ぎた頃だった。

 一人の女性が司令部へ尾上を訪ねてきていると報告が入った。

 隣室へ案内された女性の名前を確認することなく、飛びだした尾上を待っていたのは燈子ではなく、登紀子だった。

 質素な服装に、耳よりほんの少し下で切りそろえられた短めの髪。

 一瞬、理子を彷彿させるような姿の登紀子が立っている。

 不思議なぐらいに敵意はなく、ただ純粋に尾上に何かを伝えたいそんな感じがした。

「何でこんな時に……。」

 そんな登紀子の様子には目もくれない尾上はあっさりと踵を返した。

 落胆を隠せない尾上は言葉にならない様子で、俺に目で交代だと意思表示した。

「何かあるのなら、中尉がきく。」

 部屋をさっさと出ていこうとした尾上の足を完全に止める言葉を登紀子がもっていた。

「高野燈子さんの件であってもお聞きにならないのですか?」 

 振り返った尾上の傍に登紀子がゆっくりと歩みを進める。

 これまでの彼女とはやっぱり何かが違っているように思えた。

「それはどういう意味だ?」

「意味? 聞いてみて、ご自分で判断されたら良いでしょう。 あの人は鎌倉にある療養所にむかわれましたよ。」

「何故それを?」

 尾上の目がようやく登紀子にしっかりとむけられた。

「彼女に一言お伝えしたくてでむいたら、丁度出ていかれるところでしたので、文句を言うだけ言わせていただいてから、後をつけさせてもらいました。」

 登紀子は尾上の手に小さなメモ書きを握らせた。

「そこにおられます。 あの人、少佐の子どもを産めるような身体ではない自分がそばに居ることはできないし、病んでいく姿を見せる恥に耐えられないそうです。 何よりも、少佐のお荷物にはなりたくないそうですよ? 何なら、少佐を本気で想ってくれるのならばこの私が嫁におさまり、少佐を幸せにして欲しいそうです。 いけしゃあしゃあとよくもこんなことが言えるもんですねと怒鳴ってやりました。」

 登紀子はぐいっと顔をあげると、尾上の顔をじっと見つめた。

 尾上を見る登紀子の目。

 登紀子は本当に尾上に恋しているのだとすぐにわかってしまう目だ。

「全く、馬鹿にされたものですわ! 私はおじい様が話しをもってくる以前から尾上馨という海軍軍人に惚れていたのに。 ちょっと横から出てきたあんな女にかっさらわれるし、おじいさまのせいで折角の機会がもうめちゃくちゃ! だから、少佐、ちゃんと彼女との人生を全うして、ちゃんと終わらせてください。 そうじゃないと、このまま貴方の心はあの人が持って行ってしまうでしょう? そんな勝ち逃げされたら、私がたまったものじゃない! 私はどうせ勝つのなら正々堂々と貴方を勝ち取るつもりですから!」

 登紀子のあっぱれな言葉に、あの尾上が破顔した。

「ありがたい申し出だが後添えはとるつもりはないから、もっと良い男探せ。 感謝する。」

 尾上は登紀子の頭に手をのせて、これまで見せたこともないような笑顔をみせた。

 そして、尾上は俺たちを振り返ることもなく飛びだして行ってしまう。

 今橋に促されて、俺はその後を追うことになった。

 以前、横を通り過ぎた時に見た横顔とは全く違っていた。

 さすがに寺脇少将の孫娘と評するに値する凛としていた姿に、女性が花を咲かせるには恋する原動力が必要なのだと痛感するほどの変化だ。

 惚れた男の幸せを後押しした登紀子、惚れた女の後押しをした俺。

 この痛みはきっと俺も登紀子も抱えて生きていくのだ。

俺は登紀子に自然と礼が言いたくなった。

「ありがとう。」

 登紀子は驚いたように目を見張ったが、すぐに微笑んでくれた。

 今の登紀子が見合いの場に居たのならば、尾上はもっと悩んだかもしれないなと思う。

 だけど、尾上は燈子しか見えていない。

これが運命という奴だ。

 出会いを重ねる度に、その願いを知り、痛みも知っていく。

 それが愛しいものであればあるほどに、重なっていく想いはもう止められはしない。

 そして、恐れは消え、手を伸ばすだけ。

それを俺はようやく知った。



Love is the condition in which the happiness of another person is essential to your own.

            Robert A. Heinlein (ロバート・A・ハインライン) 

【愛というのは、自分以外の誰かの幸福が、自分自身の幸福にとって絶対に必要な状態をいうのである。】


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る