第16話 尾上馨、男になる
登紀子から渡されたメモのとおり、鎌倉にある小さな療養所に燈子は身を寄せていた。
到着するや否や、老齢の退役軍医を部屋の壁に押しやる勢いで、尾上が燈子の現状把握をしようと躍起になった。
俺は必死で何とかなだめて、大人しく説明を受けることとなったものの尾上の短気をなだめきるのは無理な話だった。
すべての物資が不足する中、軍人以外を治療する手立てなどあるわけがなかったのだから、医師の説明は冒頭3分で物の見事に尾上にぶった切られた。
「埒が明かん。 要するに治療する気がないのだろう?」
「違います。 戦時下であっては物資も薬剤も不足します。 そんな中、どこの病院施設であれ、どれだけ民間人の治療したくともその手立てがないと言うているのです。」
丸眼鏡の70過ぎの医者は必死に説明しようとするがもう尾上には届きはしなかった。
「同じことだ。」
尾上は口出し赦さぬという体で一刀両断だ。
「できないは、せんということと同意だ。 言い訳にいちいち耳を貸す暇はない。」
もうこれ以上の時間は無駄にできないと、尾上が椅子を立った。
「少佐、せめて穏やかな場所で最期をとはお考えにならないか?」
「最期だと? 貴様は勝負もせんくせにごちゃごちゃと! もう十分だ。 連れて帰る。」
尾上はその老医に一瞥をくれ、廊下にでると大声で燈子の名を呼びはじめた。
「燈子! どこだ?」
尾上ときたら、燈子がからむと常軌を逸する動きを簡単にしてしまう。
おおよそ高級将校のする行いではないと尾上に声をかけるも、聞く耳を持たずだ。
何かが動いたような小さな物音がすぐ近くの病室から聞こえた。
尾上は迷わずその部屋を選び、扉をノックもせずに押し開ける。
質素なつくりの寝台の上に燈子の姿はない。
尾上は開かれた窓から吹き込む風に揺れるカーテンに目をやり、そのすぐ下に何かを見つけ、深く息を吸い込んだ。
「お前は阿呆か!」
通常の尾上からは考えられないくらいの感情むき出しの怒鳴り声だった。
怒鳴られた方の燈子は蒼い顔をしたまま唇をかんで尾上を見ない。
燈子は痛々しいほどに弱り切っており、口角にわずかな血の汚れとその手に握られた手ぬぐいには赤くにじんだ跡がある。
「こっちをみろ!」
感情を読み取るのが本当に難しい尾上が、顔を真っ赤にして怒鳴り続ける。
燈子は小さく首を振る。絶対に見たくないというように首を振るのだ。
「こっちをみやがれ!」
尾上の激昂ぶりは、慌てて駆け付けてきていた理子がすくんで動けなくなるほどだった。
「燈子!」
絶対に尾上を見ようとしないその様子に尾上の怒りは臨界点をむかえた。
今にも燈子につかみかかる勢いの尾上の前に、俺は何とか身体を入れ込んだ。
「少佐、怯えさせるのが目的ではありません!」
「そんなことはわかってんだ!」
尾上は俺の身体を押しのけると、燈子の前に片膝をついて、ほんの少し身をかがめた。
「こっちを見ろ、燈子!」
何とか冷静になろうと試みているような声色だったが、まだ尾上自身、コントロールできていそうになかった。
「見ろと言ってるんだ。」
尾上はうつむいた燈子の顎に手をかけて、その視線をもちあげた。
泣くまいと必死に引き結んだ燈子の唇が震えてくる。
尾上は言葉はなかったが、燈子の頬をそっと撫でた。
燈子の目からこらえきれなくなった大粒の涙がこぼれ落ちる。
その涙を尾上が無言でゆっくりと指先でぬぐいとっていく。
尾上はゆっくりと燈子に何か言うことはないのかと小さな声で聞いた。
「ごめん……なさい。」
燈子の震える声が尾上の耳にようやく届いた。
尾上は『それで良いんだ。』と静かにうなずいた後、彼の方がさらに泣きそうな顔をして、力いっぱい抱きしめた。
尾上は燈子の髪をゆったりとなでて、彼なりの一生懸命を伝え、なんとかして落ち着かせようとする。いや、自分が落ち着きたかったのか、尾上は『もう大丈夫だ。』と繰り返していた。
「尾上さん……。」
本当は逢いたかったのだというように尾上の肩にもたれて燈子は全身で泣いていた。
尾上は何度も『わかってる。』と答えてやる。
「あの手紙、捨てて良いんだな?」
燈子ははっとしたように顔をあげると、しばらくして眉根を寄せた。
「お前はわかってない。 俺が何が必要で、何が不必要か。」
尾上は燈子の頬にもう一度手を伸ばすと、困ったように笑った。
燈子はその言葉の意味がわからないのか首を傾げた。
「燈子、お前、尾上になれ。」
尾上は自分が着ていた軍服の上着をぬぐとそれで手早く燈子をくるりとつつんだ。
「少佐、何を言ってるの? 私は……。」
「もう決めた。」
「ちょっと待って! 貴方にはちゃんとした方じゃなきゃ。」
「子供なんてもんはな、今世で駄目なら来世まで待ってやる!」
だからもう反抗するなと尾上は燈子を腕の中にすっぽりと迎え入れた。
「今世でだめなら……来世?」
呆気にとられたように目を見開いて、少ししてから燈子はようやく微笑んだ。
尾上の顔を見上げて、肩を震わせて泣きながらなのに、世界で一番幸せそうだ。
「楽しみは持ち越したって問題ないだろう?」
「私は来世も貴方で苦労しないといけないの?」
「なんだそりゃ。 お前が俺を追っかけ倒した結果だろうが? 自業自得だ。」
「こんな私が……そばに居ても良いって言うの?」
「こんな面倒で失くしたら困るもんを今更手放すか、阿呆。」
尾上は燈子を落ち着かせるように、優しく笑った。
強烈な愛の告白を目にした俺と理子は二人してただただ圧倒されていた。
胸の奥が熱くなって、俺は理子と二人して泣いてしまった。
何をしたってこの二人はこうなることが決まっていたのだろうとしか思えないなと、理子と顔を見合わせて、最後の最後には苦笑いだ。
「さて、帰るぞ。 俺は忙しいんだ。」
ここからが尾上らしいというか、もう腹心としては申し訳ない限りだった。
抱き上げるでもなく、米袋よろしく燈子を肩にかけるようにして立ち上がった。
いくらなんでも人さらいのように燈子を連れていくのはどうだろうかと俺は止めようとしたがもう無駄だった。
尾上はさっさと燈子を担いだままで療養所を出ていく。
その米袋のように担がれている当の燈子が何故か笑っていた。
燈子の笑い声に尾上は不服そうに眉を顰めたが、何だか楽しそうだ。
「笑っている場合か、この阿呆が。」
「だって……あまりに夢がないもの。 私は荷物ですか? このひどい扱い。」
「俺の目の届くところに置いておいてやる、ありがたく思え。」
尾上のこの言葉に燈子はまた涙をこぼした。
肩にかけたままの尾上にはその表情はみえていないだろうが、燈子は穏やかな表情を浮かべ、この上なく幸せそうだ。
この二人のやり取りをみていた理子が俺にぽつりとつぶやいた。
「破れ鍋に綴蓋というか……運命の組み合わせって本当にあるんですね。」
確かにと同意する他なかった。おっしゃる通り、運命の組み合わせだと思う。
「この戦時中に世界で一番幸せな女性は姉さんの気がする。」
「それは違うな。 一番幸せな男は尾上少佐だよ。」
俺の顔を驚いたように見上げた理子は首を傾げた。
何かおかしなことを言っただろうかと俺も首をかしげるしかなかった。
早くしろと尾上に呼びつけられ、俺は車の扉を開けに走る。
理子が背後で何か言っていた気はしたものの、それを確認することのできないまま、鎌倉を離れる準備を一気に整える。
吐く息が白く、身体を芯から冷やしてしまうような海風が吹き付けてくる。
ふと目をやるとあわただしく準備せざるを得なかった理子の表情には疲れがにじみ出ている上にその唇の色がかわってしまっていた。
「これ、羽織って! 君もたまには自分のことをちゃんとしないと。」
俺は自分の上着を理子に強引に着させると、助手席に彼女をそのまま押し込んだ。
この戦時中に燈子の看病をしながら仕事をするなんてたくましいにもほどがあるが、実のところ線の細さは理子もそう変わらない。
理子は何も言わない。
だが、本当はぶっ倒れる一歩手前の気がした。
「眠ってて大丈夫だから。」
理子は小さくうなずくと、安心したように目を閉じた。
看病疲れと気を張りつづけていた理子は横須賀へ戻るまで目を覚ますことはなかった。
「大丈夫ですか?」
大切そうに、燈子を抱きしめたままの尾上に目をやると、尾上は『戦況について何も言うんじゃないぞ。』と俺に目でそっと伝えてきた。
「今のところは問題ない。」
俺は了承の意を返すしかできなかった。
そして、横須賀海軍病院へ尾上は燈子を連れ帰り、できる限りの治療をするように命じた。
それは『俺の嫁を殺してみやがれ、わかっているな?』という脅しのかかった命令。
このことは一気に隊内に広がり、尾上は方々に呼ばれて、結婚の真偽を問われているようだったが屁とも思わぬ顔をして日常に戻っていた。
燈子の容態は波があるまま、しかしながら一時は回復したのかと見紛うほどに元気になることもあった。
周囲がもう大丈夫なんじゃないかと誤解してしまうほどに燈子は死の足音を必死にはねつけて生きていた。
戦況の悪化さえなかったのなら、尾上はきっと燈子と盛大な祝言でもあげていたことだろうが、世の流れはそれを許さなかった。
せめてもの結婚祝いだと今橋は尾上の乗機した紫電改が飛ぶ姿を燈子にみせてやれと、許可を出してくれた。
昭和19年春に、今橋に連れられ駐機場へ初めて足を踏み入れた燈子は間近でみる紫電改にそっと手を伸ばして触れ笑っていた。
愛おしそうに、ゆっくりと機体をなでる姿に、飛行機馬鹿すぎると夫の尾上が困ったように笑ってみていた。
尾上が舞い上がると、それはそれは嬉しそうに空を見上げた燈子の姿に、隊の男たちはひと時でも戦争を忘れたと口々に話していた。
空はもう美しいだけではないのに、空へあがることがもう苦しみでしかないのに、降機してきた尾上にこう言ったそうだ。
『あなたの飛び方はすごく楽しそう。 空が大好きってよくわかる。』
酒の入った尾上は、俺の嫁さんはそういう女なんだと嬉しそうに笑ったかと思えば、静かに泣いた。
※
1944年昭和19年、よくやく紫電改が形になり、量産が指示された。
しかし、レイテ沖海戦で日本軍が敗走。
本土において東京が空襲を受けるほどに追い詰められていた。
そして、この冬、俺や燈子、理子の故郷を襲う東南海大震災が起こる。
理子は燈子の世話のために難を逃れたが、俺たちの家族の安否が不明だった。
力になるべき男が徴兵され、被災地には高齢者と女子どもしかいない。
いてもたってもおられない様子で、何とか神戸へ戻ろうとしていた理子を引き留めることにした。
「どうしてとめるのよ!」
「あちらへ飛ぶことがあれば必ず調べさせるから、今は行くべきではない。 情報統制されているんだ。 ここにいなけりゃ本来なら君も知りえなかった情報だ。 この地震があったことなんて現地の人間でしかわからんようになってる。 危ないから、行っては駄目だ。」
「川村さんの家族だって!」
「わかってるよ、そんなことは! でも、少なくとも民間人の君よりは俺の方が調べられることは多いんだ。 それに、本土にこれだけの空襲が来るんだぞ? 女一人でどうしたって神戸へたどり着けやしないぞ?」
理子は指の色が変わるほどに力を込めて、俺の袖口をつかんだ。
「でも!」
「大丈夫だから、今は任せてくれないか?」
本当はとんでもない大惨事になっていることはもうわかっていた。
神戸は中心からは離れていたものの、その大地震の余波は確実に関西を襲っていた。
自然災害で死ぬのも、この戦争で死ぬのももはやそんなに変わらないくらいの被害だときいていた。
軍ですら錯綜する情報を緻密に整理していかねばならないくらいの打撃だったのだ。
「何かわかれば知らせるから、落ち着こう。」
俺は平然と大噓をついた。
それも表情一つ変えずにだ。
目の前にいて手の届く範囲の人間だけ護ることで精一杯だと割り切ったのだ。
理子を燈子の元へ戻すと、どうやらしばらく背後で聞いていたらしい尾上が呆れたような声を上げた。
「嘘がうまいな、お前。」
「全くですよ、嫌になる。 お戻りなら、声をかけていただきたかったです。」
尾上は俺の肩をぽんぽんと叩くと小さく息を吐いた。
「わかっているだろうが、この情勢でなかなか個々の民間人の安否確認などできんぞ。」
「百も承知ですよ。 それでも、少なくとも一人の人間の命の安全は確保できますから。」
「……お前のそういうところ見習いたいよ。」
「少佐には必要のない才能ですよ。」
尾上は嘘が下手だ。
神風特攻を食い止めるどころか推奨している軍部の風潮の真っ只中にあって、尾上は尾上なりに抵抗しては踏みつぶされる毎日なのだ。
少佐の尾上が易々と殴られるほどの相手に喧嘩を売ったらしい跡が口元に残っていた。
「それ、何をしたんですか?」
「うちの飛行班長達を数名ずつ各地の特攻の指揮官として送り込めと言われて、おとといきやがれと言った結果だ。 今橋の親父、止めやがって……。」
「はぁ!? あんた、中将以上に喧嘩売ったんですか?」
「おう、元帥に直接、納得いかんことを認められんと言ったら、すぐにそばにいた今橋の親父に殴られて引きずり出された。」
唖然としてしまう。命知らずも甚だしい。
真実、馬鹿なんじゃないのかと俺は閉口せざるをえない。
故に、今橋はこの尾上という馬鹿たれを護るために殴り、引きずり出したのだろう。
「梅木がとられた。 ……結局、殴られ損だ。」
尾上は徹底的な敗北を喫した後のように目を伏せる。
「特攻の命令を出すんだぞ? 梅木が。」
その声がわずかに震えている。
大の男が悔しさにこらえきれないのだ。
「あいつの性格だ、特攻を指揮するだけで済むかどうか……。 釘を刺して出そうとは思うが、俺の手を離れたらもう止められんからな。 護れんかった俺の罪だ。」
「それで、殴られるとわかっていて喧嘩売ったんですか?」
「文句の一つも言いたいだろうが! どいつもこいつも、可愛い横須賀航空隊の部下たちだ。 特攻を指揮するために育てた覚えはない。 だがな……俺に力がなかった。 情けなない。 ……で、ついに明日から正式に航空参謀だとよ。 お前と小泉は参謀補佐で残した。 それで手打ちだ。 すまんがお前も飲み込め。」
俺と小泉を残すために尾上は逃げ回っていた航空参謀を拝命することとなったらしい。
尾上が空に上がらない道をついに選ばされたのだ。
移動も誰かの後席でもう操縦桿を握れない日々に身をやつすのだ。
「しかも、明日、海軍中佐に押し上げられるらしい。 これで、燈子をさらに一人にせざるを得なくなるわけだ……。」
尾上が飛行隊にこだわっていた理由の一端は燈子だ。
しかし、さすがの尾上といえどももはや抗えない状況となっていた。
尾上は辛そうに笑って、ふっと息を吐いた。
そして、何事もなかったかのように燈子のもとへ顔を見せに行った。
病室からは笑い声が聞こえる。
悔しまぎれに、面白おかしく殴られた話でもしているのだろう。
『梅木がとられた。』
尾上の悲痛なこの一言が蘇り、俺は悔しさに拳で壁を殴りつけた。
いけすかない先輩だが、それでも愛すべき仲間だ。
「なんでだよ……。」
俺はしゃがみこんで、声を殺して唸るしかできない。
空に憧れて生きてきた。それがどうだ。今、空に上がれば死ぬのだ。
「泣いたらいいのに。」
尾上と入れ替わりで出てきた理子が自然に横に来て、背中なんかを撫でるから、俺は不覚にも女の前で泣いてしまった。
「優しくするな。」
「あなたがしんどそうなのは私がしんどいだけです。 私とあなたは同志でしょう?」
「もっと可愛げのあることを言えや。」
「これが限界や。」
理子はそっぽむいたまま、俺の背をさすりつづけてくれていた。
気が付いたら俺のすぐそばにはこの理子がいることが当たり前のようになっていておかしかった。
救われるとはこういうことを言うのだなと思った。
神様は意地悪ではないようだとようやく笑うことができた。
It is love, not reason, that is stronger than death.
Thomas Mann (トーマス・マン)
【死より強いもの、それは理性ではなくて、愛である。】
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