スピカを探してー海鷲の初恋ー
ちい
第1話 老いた海鷲
視界には白とベージュ基調の床と壁はぬくもりというよりも機能的なイメージで、さらに座ることができればよいだろうという無機質なソファーベンチが並ぶ。
空調は暑くもなく寒くもない。季節を忘れさせるほどに快適な管理だ。
時々鼻腔をかすめるのは消毒液の匂いと新鮮とは言えない作り物の空気。
雑多な物音に呼び出しのアナウンスが混ざる。
中二階があるような近代的な高い吹き抜けを要するだだっ広いロビーの片隅にいると思わず人間観察してしまう癖がある。
見渡すと年寄りばかりでもないらしく、小さな子供を抱えた母親やお腹の大きな妊婦もちらほらいる。
「これだけの人間がおるのに。」
もはや映画館に匹敵するサイズのテレビ画面では北朝鮮のミサイル発射の速報が流れているのに誰も足を止めない。それどころか、チャンネルを阪神巨人戦に切り替えてしまう働き盛りであろう男性がいる。
「気にはならんのか……。」
俺はこの国に起きていることなのにどうして、と胸に針を突き刺されたような痛みを覚え、小さく声を上げそうになった。
ささくれだった唇をわずかに噛んで、近頃よく味わう特にうまくもない血の味にうんざりする。
会計を待っているただそれだけの時間のはずなのに、エントランスから次々と人を飲み込んでいくこの大学病院の地上1階から早く逃げ出したくなった。
「騒々しい。」
突如聞こえた甲高い女性の声にわずかに振りかえると、嘆息してしまう。
周囲を気にすることなく元気いっぱいの声で話しながら、エレベーターホールへ向かっていく姿をみると、そばにいないのにどきつい香水の匂いが漂ってきそうだ。
見舞客のはずの彼女らが持っていたものに常識や品格を求めるなと言い聞かせてみるが舌打ちと一緒に愚痴がこぼれおちた。
「今どきの若い奴は……。」
「確実に言うと思った。」
車椅子に座っている俺の愚痴に重なるようにまだ若い声が降ってくる。
「気に入らなかったんでしょう?」
すぐそばにいたひ孫が片眉だけもちあげて笑っていた。どうやら見抜かれていたらしい。
「病院へ大声で話しながら来るもんじゃない。 品がないんだ。 それに鉢植えは入院している人に贈るものではない。 身体が弱ってる人にあんな洋菓子なんてありえん。 本当に見舞うつもりがあるのか? でしょう?」
全く似ている気はしないが口真似をしているつもりのひ孫はいひひひと笑っている。
厳格な父を経て、祖父を経て、曽祖父になったつもりだったが、このひ孫にだけはいつも負ける。
屈託なく笑っている表情が何とも愛おしく思えて、ついうっかりつられて笑ってしまうのだ。
「まったく似とらんわ。」
「そう? ばっちりだと思うけれど?」
「どこがだ。」
「そう言いながら笑ってるじゃんか。」
笑っていると正面から指摘され、今度はこちらが片眉をあげる番だった。
考えてみたら、このひ孫が生まれた時から何かがおかしかった。
息子は可愛かったし、孫もそれなりに可愛かった。だが、多くいる孫やひ孫の中でもこの子が生まれた時にだけ憑き物が落ちたような気持になったのだ。
直感が特に優れているわけではない。でも、このひ孫のために長生きをさせられたのだと妙に納得してしまった。
『還ってきたのかもしれないわね。』
10年ほど前に亡くなった妻がこのひ孫を見てもらしていた一言を思い出した。
何が、とはお互いに口にはしなかったが、それが一番的確な言葉のように思う。
年を取った老夫婦の魂にしかわからないだろうちょっとしたメルヘンチックな感覚だ。
同じものを見て、同じように納得した変わり者の俺たち夫婦というだけのことだ。
だから、というわけではないのだが、とにかくこのひ孫にはそろって甘かった。
怖いじいちゃんで有名な俺にひたすらなつく変わり者として育った愛するひ孫には徹底的に弱音がこぼれ落ちる。
「日本は駄目になったな。」
息子にだって愚痴をこぼしたことなどなかったのに、一も二もなく素直になる。
孫育てという言葉があるらしいが、ひ孫の曽祖父育てだと妻にはよく言われたものだ。
「駄目かな? そうでもないと思うよ。」
はははと軽快に笑いながら、20歳の誕生日を迎えたばかりの若造が俺を諭すように顔を覗き込んでくる。
それは凪いでいる水面のように静かなくせに、強い信念のにじみ出るような目でまっすぐに物を伝えようとしてくる。
「じいちゃんたちが護った日本は死んでない。 これで良いんだよ。」
握られた指先から一気にこの子の炎が俺の身体の中になだれ込んでくる。
「暢気に人が生きられる姿ってさ、ある意味でこの国の勝利だよ。」
ひ孫の言葉が何度も何度も頭の中で繰り返される。
『この国の勝利』
このひ孫、この状況を勝利という。
国民全員が国体を考え、国の危機を考え、他国からの干渉を恐れ生きていた時代が生んだ結果が敗戦だ。日本はその負の遺産を抱えた敗戦国家のはずだ。
「暢気に暮らしていいよ、護るからって頑張ってくれる存在が鉄壁のガードをしている成果だと思う。 そこんところはじいちゃんたちの矜持でしょうが!」
爽快なほどに綺麗に一本背負いされたような気持になる。
「心意気が仕事じゃないの?」
心意気が仕事。支える物は矜持だけ。たしかにそれだけが動力源だった。
こんな若造に諭されることになるとはと思いながらも頬が緩んで仕方がない。
どうやらきっちりと俺のDNAが根付いているようだ。
指先でとんとんとひ孫の腕をつつくと、首をかしげてゆっくりとこっちをみた。
「お前、諦めんと防衛省めざさんか? 防衛技官でも構わんだろうが?」
表情に影が落ちるのがわかっているのに、つい口惜しくてやってしまう一言だ。
ひ孫は身体を病んでいる。完治にどれほどの時間を要するのかもわかっている。
それでも、この子のような人間が組織にいたのならと思うダメOB。
心底、そう思ってしまうから余計な一言を止められない。
「……考えてみるよ、いつか。」
本心では何と言われようと面白いことなどないだろうに健気に笑っている。
「すまん。 じいちゃんが諦められんだけだな。」
「じいちゃんぐらいは惜しんでくれないと困るよ。 ありがとう。」
柔らかく細い毛質のせいか少し色が薄く見える髪を後頭部高く結って、やや色のない肌色をして笑う。この子の母親が少しでも顔色が良くなるようにと、嫌がる本人をおさえつけて引いた赤のリップが哀しく映える。
「戦闘機にのらんでも、空はお前を拒んだりせん。 女だてらに戦闘機乗りを目指したお前の心意気をバカにする空の神なんておらんからな。 悔しさは俺がもっていってやるから。」
できることなら、全ての病をこの俺が引き受けてやりたかった。
心配いらないよと俺の肩に手を置いてくるひ孫。その根の強さを知ってはいるが、それでもこの子の心はそれほどに強くはない。
「人生、どこで大逆転があるかわからんぞ? お前にとってのこの敗北は大きな勝利のための涙だと思え。」
「なにそれ。 まるで上官と下士官じゃん。 じいちゃんは軍人成分100%すぎる。」
「……軍人成分? それこそ、なんじゃそりゃ。」
「嫌いじゃないよ、空将補殿。 あ、元空将補か!」
「余計な一言だ。」
航空自衛隊元空将補。
肩書を思い出すと背筋がしゃんとするような気がするが、その肩書で死ぬよりはこのひ孫のひいじいちゃんとして死ぬ方が俺にはあっていると思う。
そんな可愛らしいことを考えるほどに老いた。
若い時の無茶は還暦を超えた頃からじわじわと身体に現れ始めたが、医者にこまやかなテコ入れをされた結果、しぶとく90歳だ。
長く生きるのもひと苦労という奴だ。
「ところで、帰ったら何したいの?」
そう聞かれ、俺の答えは遠回りすることもなく一言だ。
「畳で死にたい。」
「阿保か……。」
心底呆れたような声をあげたひ孫の肩越しに見慣れた顔がひょいとこちらを覗き見る。
会計が済んだらしいひ孫の母親、いやうちの孫娘殿が戻ってきたらしい。
「何の話?」
妻の若い頃にそっくりの顔をしているだけあって、威圧感たっぷりだ。
「二人とも、何の話ししてたの?」
気が短いところも同じかと俺は軽く舌を出した。
すぐ横でひ孫様がこらえきれず笑い出している。
余計にご機嫌斜めになる孫娘殿のこめかみに筋が浮き出てきそうだ。
「ようやく娑婆にもどれるって話だ。」
「娑婆だなんて! おじいちゃん、泰子が口真似するからやめてもらえない?」
「うるさい。 泰子、出せ!」
ひ孫の泰子が苦笑いをしながら俺の車椅子を押す。
うちの孫娘殿は口うるさくてかなわんので、こうやっていつも泰子と逃げてばかりだ。
ロビーからエントランスを抜けると一気に外気がせめ立ててくる。
座ったままでいると地上に近いこともあり余計に8月の暑さを肌に感じる。
さらに独特の雨の匂いが鼻腔をみたすのと同時に生暖かい湿気のある空気が足元から漂ってくる。
本当にここは日本なのかと疑いたくなるような熱気はほんの少し前にスコールのような雨に鎮圧されたように思っていた。
甘かったなと独り言ちてしまうほど、熱しきられたアスファルトがやや冷えた程度で天然のミストサウナ状態となっていた。
「もうすぐ8月15日だね。」
泰子はまぶしそうに空を見上げている。
その横顔をみていると俺は若かりし日を一瞬で思い出す。
泰子のように若かった自分が向き合った戦後はまだ終わってはいない。
そんな気がしていた。
In three words I can sum up everything I′ve learned about life: it goes on.
Robert Frost (ロバート・フロスト)
【人生で学んだ全てを私は3語でまとめられる。 人生は何があっても続く、ということだ。】
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