第8話 綺麗ごとでない統合失調症の恋愛の抄録
兄が誰と恋したかなんて聞いてない。
恋愛の話はさすがにしない兄妹だった。
だけど統合失調症になった兄は、精神的な苦しみに悶え
女の子に電話をしてしまう。
「付き合って」
と。
それがしつこくて問題となった。学校の先生が家に来て電話の録音テープを見せ、厳重指導があった。
統合失調症になった兄は、理性を失っていたのだろう。
心の預け場所や心の癒しを欲していたんだろう。
注意と指導の後は、兄は電話はしなくなった。
その後、兄は統合失調症の薬の副作用による悪性症候群で入院し、亡くなった。
兄が亡くなる前、入院する前に、兄は好きだった女の子に最後に電話したらしい。という噂を母から聞いた。
葬儀の香典記録には静かにその女の子の名前があった。
統合失調症になったからこんな迷惑で不器用な恋愛をしたのかはわからないが、兄は不運な人生だったかなと思ってしまう。
オーディオの背中に隠すように置かれていた『ふわふわ ふるる』のCDにどんな思いを寄せていたかなんて今ももう分からない。
どんな風に人に恋い焦がれたかも知れない。
わたしは窓辺に置いてあったそのCDをそっと拾い上げた。
「月菜は心の苦しさのままに誘われれば男の子についていってしまう
弱さがあるだろ。この間もネットで男の子とやり取りしてた。
だけど、落ち着いて考えた方がいいよ。
それに、恋人欲しさに、
自分の思いとか言えずに後々になって喧嘩になったりするんだろ。
隠し事をするより、懸命に自分を伝えて、
お互いに寄り添い合おうとするのがいい。
きっとそうだ。」
わたしを心配しているらしい真実は弱くて駄目な兄を、わたしは金色のベールで包み込んでみた。
愛情はどんなにカッコがつかなくたって人に捧げることができる。ダメでも捧ぐ努力は出来るだろうし無駄にはならないだろう。
思い出によって醜態さえ
「恋、
人の優しさ…
…僕はできなかった。
月菜は大事にしなよ。」
男は再び背を向けた。
すーっと身体に空気が入り込んだように身体が透け始めた。
CDを握りしめていたらしいわたしは、背中に向かって叫んだ。
兄の声音を真似て。
「残酷すぎるよね。
全てが過ぎてしまったから、
だから、お互い会話することも目を合わせることも
辞めよう、だなんて。
生きる権利を失うこともね。」
男は振り向かない。ただ雨間から差す仄かな光と戯れるようにその場にいた。
「わたし。
兄のことを忘れなくていい。忘れてもいい。
死んだことを受け入れられなくてもいい。
わたしは信じてる。
わたしが辛くて無気力になって何も出来なくなって
生きて関わっている大事な人たちや死者への弔いさえも忘れることがあっても
いつか、また、元気になって
皆を気遣い、そして兄や先祖の為に祈りを捧げられるうようになることを…。」
自分で何を言ってるのか分からなくなりそうだった。とにかく何かを何か決意を聞いて欲しかったし宣言したかった。
「わたしは、人を大事に思うようになったし、
その人を心に留め置きたくて、
心の場所を今空けているところなの。
喧嘩してしまう父母の弱さも自分の気性の荒さまでも、
わたし一人では受け入れられないよ。
難しいよ。
だけど、大事な誰かを持ちたい。
誰かを愛し、
そして愛されることを期待したい。
そうして、大事な人を迎えるために、
少しずつ自分を削って
自分をまぁるくしていく。そうしていける。
側に置けなかった死という名をかざした仏壇
を、もう一度見つめ直して
磨いたりお墓参りしたするね。
大事な人、その人を迎えるためにもう一度
やり直すから。
悪かった、ごめんね。
死んでしまって、
お兄ちゃんを優しくできなかった。
これからは、もっとお兄ちゃんや
先祖様の身の回りも
綺麗にするように心がけてみるから…。」
『幸せになってね。』
私が言いかけた言葉と男の声が重なった。男はやっぱり振り向かなかった。
だが、代わりにこう一言付け足した。
「…お兄ちゃんのためじゃないよ?
愛する人を迎えたいから?」
男はわたしの口ぶりを真似て面白おかしく言った。
男の背中は笑っているようだった。
いつの間にか雨は弱くなり、雲間からの今日一日の最後の光が強く差し込み始めた。
雨音が小さくなったのに気を取られてわたしは兄が消えていたのに気づかなかった。
部屋へ戻りCDケースを探れば手のひらからいつの間にやら消失していたCD、
クールな面立ちのtohkoさんを見つけた。
『ふわふわ ふるる』の文字の下の青いラインをなぞるようにこれから続く未来を想像してみた。
『どうしたら 気持ちよく
あなたを受け入れられるの?
どうしても 抱きよせられ
もっともっと 近づきたい』
『ふわふわ ふるる』 tohkoさん歌
こんな気持ち、20年くらい前のわたしにはなかった。
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