第2話 サボテン
朝、オフィスルームのドアを開けた。
わたしが開けるとドアの向こう側に背の高い男性社員も今ドアを開けようとしていたところで、わたしに開けられたドアを左手の手を伸ばして支え直していた。
「おはようございます。」
わたしが挨拶すると目が合い、
「おはよう。」
と応えてくれた。
長い腕を伸ばして扉を支えわたしとすれ違いざまに扉の隙間を通り過ぎて行った。扉に絡められたがっしりとした指は、左の薬指は…、“指輪”がなかった。
コロナウィルスが流行っていて、他の部署の人の多くはテレワークになったが、わたしの所属している部署は仕事の関係上テレワークは導入できず通勤していた。デスクとデスクの間に透明のモザイクのかかった仕切りを置いて飛沫感染を予防し接触を出来ないようにしてあった。仕切りから今朝すれ違った男性社員さんがぼやけて見えた。終始パソコンに向かっているようだった。最初のパソコンの設定以来、直接一緒に仕事をすることはなくただ席が向かい合っているだけだ。
でも最初に親切にしてもらった嬉しさを忘れられない。隣の席に来てパソコンを設定してくれたが、その時、大柄の身体が接近し過ぎないようにわたしを丁寧に避けて接してくれた紳士さも胸をついた。
まるで、初めて男の人と接するような無垢な気持ちでその社員さんと対面するわたしの目は、必ず左の薬指を眺めずにはいられなかった。
他の何人もの男性社員さんの左の薬指から、シルバーやゴールドに光る指輪を見つけていた。でもその社員さんは指輪はない。
(指輪をしない、素朴な性格なのかな?)
結婚してないかもしれない、なんて期待する方が変だった。
年齢はおよそ30代半ばくらいで、仕事もできるし家庭を持ってない方が不自然だ。
熱くなる心とは反対にクールに現実を直視する目を保っていたわたしは、今日、秘密を持った。
それは漏れ聞こえてきた仕事の休み時間の和やかな会話。
「河原、そのマスク、手作りなの?」
他の社員さんが河原と呼ばれた例の男性社員さんに尋ねた。
「嫁さんがさ。裁縫なんて普段しないのに、急に作ってくれて。」
「コロナウィルス流行ってるからね。心配してるんじゃない?」
「はは…。」
河原社員さんは照れたような声で笑った。
「息子もさ、恥ずかしいって言いながら使ってるよ。」
「いいね。仲がいい家族だね。…」
予想した通り河原社員さんは、既婚者だった。
わたしは少しだけ想像してしまっていた。オフィスの人影で好きだと言われ背中を抱きしめられ見つめ合う彼とわたしの妄想…。
そんなことは淡い叶わない夢で、わたしは、本気で恋をするつもりはなかった。
初めての障害者雇用で、勤務は定年まで続けられるかもしれない。障害者であるわたしを配慮してくれる温かい職場でそんな浮ついたことを…。心慰み程度に思うだけでただ働けるだけで有難かった。
わたしが少し切ない恋心を抱いてたことは永遠の秘め事となった。
夕方、今日も特に問題なく退勤した。今日はまぁまぁの忙しさで仕事の合間に5分、10分くらい暇だったが、退勤まで色々と事務補助と雑用の仕事をした。
家の玄関には赤い緋色のサボテンが置いてあった。
手のひらサイズの小さなサボテンで緋色のサボテンの下に緑色の柱上のサボテンが接ぎ木されていた。
2週間くらい前に、米津玄師さんの『Lemon』を購入した。その時に一緒に買ったサボテンだった。
『Lemon』とは大切な人について歌っている歌らしい。わたしにはこの歌詞のように思いを募らせる情人なんていない。でも大事な人が欲しい。人に愛情を持ちたい。だから『Lemon』と一緒にサボテンを買った。
何かを大事にする心を持てるように…。
お母さんにあげようかと思ったが…、とりわけ興味をもってもらえなくて、結局なんとなく玄関に置いて毎日眺めている。毎日、土を触ってみてお水を欲しがってないか確認する。
心に『Lemon』という音楽と、可愛がるべき大事なものが一つ増えた。
「振られちゃったよ…。」
サボテンも見つめ言う。
うん、と頷いたような気がした。
(米津玄師さんの音楽でも聴こうか…。)
わたしを愛してくれる人がいなくて、そんなわたしは時々お気に入りの音楽だって色を失う。
何も見えなくなった時、少しだけ手入れが必要なサボテンのことを顧みることで自分の存在意義や、出会えた音楽を愛してた記憶など…を思い出せるようにしたい。
好きだと思うのは案外簡単かもしれない。どこにも魅力的なものは溢れている。だけど、自分を強く持って自分を磨いて大事に思い続けることはわたしには大変だった。
その度に多くのものを手放してきた。でも、そんなことは少なくしたい。
これから辞めないで続けていく仕事場で、恋情ではなくて人と人との繋がりという暖かな心を通わせた人間関係を築いていきたい。どんな形であっても愛情を与えられる人になりたい。恩返しがしたい。
目を伏せたら温かい雫が零れた。
統合失調症という病気を自分で受け入れて、障害者雇用で就職して…、始まったばかりに先の道筋を作っていく。
気が遠くなりそうだけど、できたら、嬉しいね、楽しみだね…。
横を振り返る。わたしが見つけられるのは、かつて生きていた兄だっただろう。
それも、もう忘れてもよくなっていくのかもしれない。
ポストへ手紙を取りに行こうと玄関を開けると、ふわりとぬるい夏の空気を感じた。
「ばいばいー!」
「ばいばーいっ!」
近所の子供たちは、遊んでた時の弾んだ声のまま今日の終わりの挨拶をしていた。
わたしは、幼い頃の夢や希望は褪せてしまった。
だけど幸せを掴むための招待状は、きっとわたしの手元にも届く、と信じていたい。
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