第7話 綺麗ごとだけでは生きてけないし、もう既に遅い。
花の金曜日、一仕事終えた達成感と解放感をほんのり心に満たして帰宅した。
帰宅後、自宅の階段を上ったとき、屋上の窓から金色の日差しが漏れていて、行く先の階段を静かに照らしているような気がした。
梅雨明けしない今日は雲。でも重くどんよりしていて今にも夕立ちが降りそうだった。
雨雲の間からそっと太陽が覗いたのだろうか…。
二階は家族でほとんど私しか使用してないので、静寂が保たれていて、置かれた家具や荷物は、帰って来た部屋主を優しく待っていた。
わたしは部屋に戻り、荷物を置き、部屋の回りをぐるっと見渡してからカーテンを閉じた。
そして、隣の部屋のランドリールームへ行き
除湿器のかかり具合をみて、部屋干しの洗濯物を確認した。
除湿器を移動させ、踵を返してドアを開けたとき、
カタリ、音が聞こえた気がした。
屋上窓から不思議と溢れる光が鳴いたようなそんな感じだった。
神様に導かれるような透明な心持ちで屋上へ続く階段を上った。
窓から漏れる光の中で、ふわりと柔らかい髪の毛のようなものが揺れた…。
日に透かされ黒だっただろう髪の毛はこげ茶色に輝いていた。
下をみると徐々に髪の毛は頭の形に覆われ
流れるように肩が浮き上がり、腰、そして二本の足が伸びた。
後ろ向きなままで、背丈がわたしより少し高めの男が、姿を現したのだ。
うすら光のなかでそれはぼやけていて
そして夢の中にいるようだった。
男は、くるっと振り返り
「ゃぁ」
と聞こえるか聞こえないかの声で囁いた。
古びたアルバムの写真のままの、少しはにかんだ、それでいてバツの悪そうな笑顔を男はした。
写真通りのものがデジタルに少し改良されているだけの顔。
もう、アルバムのままの顔しか思い浮かばないと…軽く呻く…が違う。
今日、男を眺めながらそんなことは考えたくはなかった。
急に激しい雨音がしてハッとした。
案の定、大粒の夕立だ。
「また喧嘩したんだって?親と。」
雨音に気を取られることもなく男は聞いた。
ザアザア、ダンダンと降り注ぐ雨の
わたしは横を向いて言い返した。
「あら、紫陽花の育て方の事とか、
家事のこととか?」
男は少し優しく苦笑いした。
「…でも、庭の花はわたしが全く無関心でも咲いているわ。
…夕食もいつもできてる…。」
「心と心の
月菜は特に10代後半から20歳過ぎまではフリースクールの寮にいたから、
余計親と価値観合わない事あるだろうね。」
男はそう言って窓を眺めた。
外では大粒の雨が窓を濡らし流れていた。
「…それから、恋愛失敗した?」
横顔のままでそう問いかけた男は、息を呑むように雨のその後の動向を見張っていた。
ベランダに溜まった雨は、排水溝に吸い込まれ
雨に打たれ葉にいっぱいの雫で覆われた木々、植物は重だるそうに立っていて、鬱蒼とした顔を見せていた。
庭で咲いていた花は雫をゆっくりと飲み込み、晴れの日を夢見る少女のような可憐さを覗かせていた。
「ぁ。知ってた?通信制の大学生の時に出会った?彼の事?
それなら、携帯ダメにしてそのままよ。」
「訪ねにもいかなかったんだ、東京までそう遠くもないのに。」
そう言った男は、いまだ横を向いたまま窓を眺め、軽く口に左手をかざし指先一つ一つを弾かせて雨の音を数えているようだった。
「わたし、世界一の方向音痴だから新しいお店の場所もわからかったの。
それにその頃はフリースクールの寮にいて忙しく
そうそう外出、遠出なんてできなかったわ。」
さっきまで雨を眺めていた男は、突然わたしの方に振り向いた。
顔に片手をかざして。指の隙間からキリッとした切れ長の双眼が光った。
「
わたしは思わず
今思えば、カッコつけてる。
自信満々で自分の考えが絶対で、他者の意見をあまり受け入れないその姿が、人生に迷い
「…あの人に
優しい現実的で閉鎖的でなく社交的な彼に頼ろうと思わなかったの。」
わたしは堪らなくなって両手に握りこぶしをつくり地団駄を踏んだ。
「だって!!!」
そしてハアハアと呼吸が荒くなった。
「…!堪らなかったの、わたしが不登校児だっていう経歴も、
彼にはわたし以上に綺麗な女友達や同僚がたくさんいて、
余計わたしが惨めなのが浮き彫りになるのも…。」
固く結んだ握り拳が重力に耐えかねたように床に向かってぶらんとしな垂れ、同時に頭の重さも堪えられなくなって身体を腰から床の方へ曲げた。
「ふぅ」
男は機能してないはずの肺で呼吸した。
「まぁどうせ、一週間しか付き合ってない。
普通に別れたかもしれないね。
…でも友達くらいにはなれたかもさ。」
男はすっと右手を斜め前方、空を目がけて伸ばした。
人差し指と親指を立てて、ピストルのような形で。
そして雨間を割らんかのように。
「
くすっとわたしは笑った。
書店で購入早々車の中で読み開くお兄ちゃんは面白かった。
そんな夢中にさせる漫画にさえその余白に落書きしてしまう当時のわたしに怖いものなんてなく、ただ兄に対する甘えと信頼だけだった。
突如、男は目線をサラリとわたしに向き直った。右手が開かれ手のひらから、6寸くらいの縦長の長方形のものが出てきた。
青い横ラインが入った8センチCDのジャケット。
『ふわふわ ふるる』tohko……さん
それは昔のある日、オーディオの背中と壁の間に落ちていた。
わたしは初めてそのCDを見つけてこれは何かと兄に聞いた。
兄はただ、
「それ、歌ってよ。」
と短く答えただけだった。
開いてみれば中学生だったわたしには大人のラブソング。
「お兄ちゃん、も、恋してたんだっけ?」
わたしは改めてそれがお兄ちゃんだと認めてみた。そう呼んだ。
お兄ちゃんと呼ばれた男は黙り、静かに窓辺に『ふわふわ ふるる』を置いた。
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