第5話 北と南を分ける線

 裏社会の情報に精通するその上司は、ヨーロッパを拠点に脱北者の支援をする人物にコネを持っていた。その人物を紹介され、そのまま韓国大使館へ行き亡命を申請した。

 ソンミンは上司に別れを告げ、南へ旅立った。

「ボス、貴方って本当に素敵ですね。ジュンサンみたい。あたし一生忘れません」

「ジュンサン?」

「ふふっ、母さんとあたしが憧れてたドラマの人ですよ」


 韓国に入国した脱北者は最初の十二週間、定着支援施設へ入る。ここで教わるのはクレジットカードの使い方や地下鉄の乗り方といった、生活に適応するための知識だ。更に住居の支援、自立のための一時金を受けられる。

 その後は韓国籍者として社会へ出て、韓国人の中へ溶け込んで生きることとなる。ソンミンは生まれて初めて自分のパスポートを持った。

 上司から、南へ行った後の人生は自分で決めろと言われた。幸いテコンドーのインストラクターの仕事を得て、ソウルで働いている。これから勉強をして学校というものに通ってみるのもいいかも知れない。今はこの先の人生を自分で選ぶことができる。


 北に生まれ、中国、ヨーロッパを経て南へ辿り着いた。ここへ来るまでの日々は、とても人間的とは言えなかった。些細な理由で上に殺された父、葬儀もなく人知れず死んだ母、身売りされ望まない仕事をした自分。

 今も何十万人もの同胞を強制収容所に入れ殺害している金一族はもちろん憎い。しかし一番憎いのは、北緯38度で北と南を分けるこの線だ。

 朝鮮半島は1910年から1945年まで日本の占領下にあった。第二次世界大戦で日本が降伏すると、戦勝国であるソ連とアメリカが38度線を境に北と南を分割統治することになる。一時的な分割のはずだったが、直後に冷戦が勃発。ソ連とアメリカはそれぞれの政策方針に沿う指導者を支援した。1948年、北にソ連の支援する金日成が、南にアメリカの支援する李承晩が、政権を樹立した。

 1950年に朝鮮戦争が勃発。1953年の停戦と同時期に非武装地帯DMZが設置され、数百万人の家族が北と南で生き別れた。東西ドイツは冷戦の終結と同時に統一したが、朝鮮半島は70年以上経った今も統一に至っていない。


 ソンミンと観光客達は、DMZから700メートル余りの場所にある韓国最北端の駅、都羅山トラサン駅へやって来た。ガラス張りの開放的なプラットフォームには、平壌行きと書かれている。反対方向はソウル行きだ。

 若い男性のガイドが駅の解説をする。

「この駅は2002年にオープンしました。もし南北の統一が実現すれば、この線路は中国やヨーロッパとも繋がるアジア横断鉄道になります。線路は既に北と繋がっていますが、今はまだ使われることはなく、統一を願う象徴的な存在です」

「どうして路線を開通できないのかしら?」

 ソンミンはガイドに尋ねた。

「北は我々を敵とみなしていて、人や情報が出入りすることを恐れています。鉄道の開通には、南北の統一しかないでしょうね」

「貴方は北をどう思ってるの?」

「僕たちは同じ民族です。だから、どうして我々が離れ離れにならなくてはいけないのか、ましてや敵対しなくてはいけないのか分かりません。とても悲しいです」

 ガイドは遠くを仰ぎ見ながら、寂しげな声でそう答えた。

 南には、北の人々を同胞だと言い平和的な統一を望む人がいる。南朝鮮が敵国だと教えられていた頃は、南の人がそのように考えているなど想像もできなかった。

 ガイドはふと何かに気付いたようにソンミンの顔を見つめ、遠慮がちに切り出した。

「貴方は、もしかして……」

 ソンミンの言葉のアクセントから、彼女が北の出身であることを察したのだろう。長年の分断により、北と南では同じだった言葉も文化も少しずつ異なってきた。

 ソンミンは笑顔で濁した。

 ホームへ降り立つと、草木の匂いが穏やかな風に乗ってやって来る。深呼吸して美味しい空気を吸い込んだ。ここはDMZの内側。70年も人の立ち入りがなかったDMZは、貴重な動植物の楽園になった。駅舎はいつ来るか分からない開通の時を待って静かに佇んでいる。

 線路の脇の草むらに、母の灰を撒いた。この線路の先は故郷へ繋がっている。ソンミンは母に語りかける。


 ーー待ってて、母さん。いつか平壌とソウルを結ぶ列車が、北の人と南の人を乗せて自由に行き来するようになるから。そうすれば列車に乗って父さんにも会いに行けるわ。きっといつか、必ず。

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列車は38度線を超えて Mystérieux Boy @mysterieux_boy

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