第4話 自由の意味

 列車に乗り込み、男達に言われるがままに身を隠した。長い間揺られ、西へ運ばれた。

 辿り着いたのは東ヨーロッパの見知らぬ国だった。ソンミンは中国人が多く働くパブで働いた。住み込みの寮が用意され、狭い部屋に数人が一緒に住んでいた。寮はいつも誰かに監視されていた。

 客には言葉が通じず、新たに英語と現地の言葉を覚えなくてはいけなかった。パブでは性的な接客を求められた。十歳で男のことなど何も分からない。恋愛というのは、ドラマの中の美しい世界でしか知らなかった。

 恋もしたことがないまま、見知らぬ男とキスをして身体を触られた。ただただ嫌悪感に苛まれ、自分が人間以下の存在に思えた。その生活が二年続いた。



 今までソンミンを囲っていた人々とは全く別の男達が、ある日突然寮へやって来て「君達を解放しに来た」と告げた。ソンミンは大勢のルームメイトと共にどこかへ連れ出された。十二歳の時だった。

 この時彼女は自分の立場を悟って、何も期待せずなすがままだった。また別の誰かに買われただけだ。別の場所で同じことをするか、何処かの嫁になるのだろうと思っていた。


 新しい囲い主は今までの者達と同様、地下で暗躍し金を稼ぐ闇組織だった。しかし彼らは今までと違って性的な接客をさせることはなく、彼女に指一本触れることもなかった。

 仕事は食料の売り子や店舗の清掃などで、十二歳にとっては決して楽ではなかったが、少なくとも見知らぬ男に触られないだけ天国のようだった。新たに当てがわれた住処はやはり狭くて古かったが、監視付きではなく仕事の時間以外は自由に外出できる。少しの小遣いも貰い、欲しい物を買うことができる。年頃の少女らしく好きなファッションやメイクを楽しんだ。韓国系のコミュニティーに出入りし、テコンドーを習った。

 これが自由なのだと思った。新しい雇い主は彼女にとって、自分を解放した英雄だった。いつか母と抱いた南へ行くという夢は、とうに何処かへ消え去っていた。


 ソンミンは組織のために献身的に働き、次第により組織の深部に近い仕事を任されるようになった。十五歳になる頃には、後に上司として慕う有力者の配下のグループで働けるようになった。違法薬物の取引など、危険な仕事も担うようになった。

 上司の男は強く優しく、グループのメンバーを思いやった。彼を尊敬し、付いて行くため必死で仕事に励んだ。

 彼らに比べれば、かつて心から愛した偉大な指導者は一体何だったのだろう。今になって分かることは、彼は核ミサイルの開発や権威を誇示するための施設に資金を注ぎ込み、人民を飢えさせていただけだった。人民を愛しているなんて、真っ赤な嘘だった。なぜ人々が些細な失敗や、外国の情報に接触したというだけで殺されなくてはいけなかったのだろう。

 それでもその世界しか知らずそれが正しいと教えられれば、それがおかしい事だと分からないのだ。



 ソンミンは生活に満足していて、何の不満もなかった。気付けば二十歳になっていた。このまま一生組織と上司のために働くのだと、何の疑いも持たなかった。

 しかし二十歳のある日、上司の男が彼女に告げた一言で、再び世界が変わる。

「ソンミン、お前は韓国へ行け」

 突然だった。意味が分からず、すぐに返答できなかった。

「どうしてですか?」

「お前はここにいるべきじゃなかった。韓国へ行って、自由になるべきだったんだ」

「あたしはもう自由です! もう酷いことをされることはないし、怖くない。それに仕事が好きだし、貴方の下で働けて本当に嬉しいんです。……どうしてそんなことを言うんですか!」

 上司の言葉は、まるで自分が必要ないと言われたような気がしてひどく傷付いた。このまま彼の下にいたい自分の気持ちを必死で訴えた。

 しかし彼はそうではないと言う。彼は大きな手を彼女の肩に置き、しっかりと目を見て言った。

「自由というのは、自分の生き方を自分で決められるということだ」

 ソンミンは納得できなかった。

「お前には正式な身分がない。学校にも行ってない。ここ以外に行ける場所がないから、ここで働いてるだけだ。お前が幸せと感じていようが、今お前に選択肢がないことは事実だ。組織はお前を韓国へ保護してもらうよう手配することもできたが、そうしなかった。労働力として働かせるために」

「嘘です! 貴方達はそんな非道な人達とは違う!」

 確かに前の囲い主はそうだった。監視付きの寮に閉じ込めて、人として最低の仕事をさせられた。しかし今の雇い主は正義の味方で、金儲けのために利用されているのではないと信じていた。

「この仕事は危険で、死ぬこともある。選択肢も与えずそんな仕事をさせていいはずがなかったんだ。お前はこんな仕事に相応しくない。今更ながら、本当にすまない」

 再び世界が崩れる。彼らもまた、ソンミンから搾取していただけだったのだろうか。言われてみればそうだ。彼女は望んで組織に入ったわけではなく、組織を辞めるという選択肢も用意されていないのだから。

「でも、別に行きたくありません。だって南へ行くのはあたしと母さんの、二人の夢だった。でも母さんはもういない。もう行っても意味がないんです。それよりも、ここの方が居場所がある」

「これを覚えてるか?」

 上司は古く汚れたポーチを差し出した。それを見てソンミンは驚いた。中を開けると、確かに自分が詰めた遺灰と遺骨が入っていた。肌身離さず持っていたつもりなのに、いつ無くしてしまったのかも分からず、随分と経つうちに無くしたことすら忘れていた。

「母さんだ……」

「組織の者がお前達の所持品を没収して、そのまま放置して忘れ去られていたんだ。悪かった。連れて行ってやれ」

 母と過ごした時間が蘇った。一緒にテレビを見て笑い、語り合い、南へ行こうと胸をときめかせていたあの頃の記憶が。

「はい……ボス」

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