第3話 脱北者

 中国東北部の延辺朝鮮族自治州は、北朝鮮と国境を接しており、朝鮮族が多く住む。多くの脱北者が最初にたどり着く場所でもあり、今も推定30万人の脱北民が隠れ住んでいると言われている。

 北朝鮮の北部では、中国から闇市場を通じて海外の文化や食料が入って来る。もちろん、これらの取引は重罪に値する。脱北を手助けするブローカーも暗躍しており、母スヨンもこのブローカーを通じて脱出したのだった。

 ブローカーが用意した15平米ほどの部屋で、ソンミンは昼夜閉じこもって過ごした。世界が変わった。平壌では広々としたリビング、寝室、キッチンのある家に住み、家具や調度品が置かれていたが、この中国の家には家具も何も無く、隙間風が入り毛布を被って震えた。


「母さん、お父さんはここへ迎えに来るの?」

 ソンミンが尋ねると、母は首を横に振った。

「お父さんはね、粛清されたのよ」

「しゅくせいって何?」

「遠くへ連れて行かれたのよ。外国のニュースを見ていたってだけで、スパイだと言われたの。だからもう会えないの」

 父に二度と会えないことを察したソンミンは泣いた。しかし母は彼女の口にタオルを当て、声を静めるように言った。


 母は朝から夜遅くまで働きに出た。ソンミンが最初にしたことは、中国語を覚えることだった。

 国連の難民条約第33条では「難民を生命や自由が脅威にさらされるおそれのある国へ帰還させてはならない」としているものの、中国は北朝鮮と同盟関係にあるため脱北者を難民と認めず不法入国者として扱い、潜伏者を摘発すれば北朝鮮へ強制送還している。強制送還された脱北者は収容所へ送られ、拷問など人道とはかけ離れた扱いを受ける。最悪の場合処刑される。

 脱北者だとバレないよう中国人の振りをするために、ソンミンは必死で中国語を学んだ。

 母娘が新たな生活を始めた延吉市では、通りに沢山の人と車が行き交い、大小様々な店の看板が所狭しと並ぶ。夜はネオンが輝き、とても眩しく賑やかだ。今まで知っていた世界とは全く違った。

 母が働くレストランへ連れていってもらう事もあった。店にあるテレビでは、南朝鮮のドラマや音楽を放送していた。ほとんど同じ言葉を話す人々が、見たこともない服や髪型で歌い、指導者を称えるのではない様々なストーリーを演じるのを見て、度肝を抜かれた。

 今まで知っていた世界では、流れる曲の種類は数えるほどしかなく、内容は決まって偉大な指導者を称える歌だった。

 文字通り世界が色付いた。実際、北では人々は灰色や茶色の服しか着ず、髪を染めることは許されず、化粧もしないしピアスなどのアクセサリーも身に付けてはならない。

 奇抜なメイクの女性がお腹の出た服を着て踊り、長い茶髪のハンサムな俳優が国の指導者ではなく一人の女性への愛を語るのを見て、世界が華やかに色付いた。

 ソンミンと母スヨンは、邪悪な敵国であったはずの南朝鮮へ恋い焦がれた。

「ソンミン、いつか南へ行こうね」

「うん、絶対に行こう。行けばあのジュンサンに会えるんでしょ?」

「もちろんよ。でもそれだけじゃないわ。南へ行けば私達は自由になれるのよ」

「自由って何?」

「そうね……。こうして隠れなくてもいいということよ。ひどい目に遭わされたり、殺されなくていいということよ」

「あたしたちは自由じゃないの?」

「そうよ」

 韓国政府は脱北者を希望すれば原則として全員受け入れる方針を取っており、脱北者定着支援法によって保護している。しかし脱北者にとって中国から韓国への道のりは長く、まず東南アジアなど脱北者を強制送還しない国を目指し、現地の韓国大使館に助けを求めることになる。

 中国からの脱出は難しく、もし検問で怪しまれれば捕まって強制送還される。脱北者の韓国への渡航を支援する団体も存在するが、多くはその金もツテも無く、中国に留まらざるを得ない。

「絶対に南へ連れていってあげる。そのためにお金を貯めるから、もう少し待っててね」


 スヨンは昼間レストランで働き、夜は売春をして働いた。それでも母娘を匿っているブローカーに金を支払うと、二人分の食料を賄う僅かな現金しか手元に残らない。彼らの保護が無ければ強制送還が待っているため、最低賃金以下の生活に甘んじるしかなかった。それに、幼いソンミンに手出しをされることだけは絶対に阻止したかった。

 強制送還の恐怖に怯えながら、延吉市での母娘の生活は続いた。


 延吉市へ来てから四年が過ぎた。

 ある春の日、住んでいたアパートの一室でスヨンは死んだ。病を患っていたが、正式な身分がないため病院へ行くこともできなかった。十歳のソンミンは冷たくなった母の体を前にどうすることも出来ず、呆然としていた。もはや彼女を守る人は誰もなく、一人では何もできない。

 アパートに遺体を置いておくわけにはいかなかった。二人を匿っていたブローカーに母のことを話すと、彼らは憐んで遺体を運ぶのを手伝ってくれた。

 二人の男が母の遺体を車へ乗せ、山へ運んだ。葬式などできるはずがない。誰もいない山奥で遺体を燃やした。そこで母が死んでから初めて泣いた。肉親もなく夢も希望もなくなった今、もはや何のために生きていけばいいのか分からなかった。この国で身分のないソンミンは、存在していないも同じだ。

 灰と骨を小さなポーチに詰め、山を降りた。それから先は、ブローカーに言われるがままに行動した。持てる限りの荷物をまとめ、アパートを出た。車に乗せられ、見知らぬ男達に引き合わされた。

「2万元だ。確認してくれ」

 見知らぬ男はブローカーに金を渡した。

「ソンミン、君は今日からこの人達と行くんだ。君の新しい保護者だ。元気でな」

 ソンミンは2万元(約30万円)で売られた。脱北者の多くがこうして人身売買の被害者になる。

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