第2話 完璧な世界
ソンミンは二十二年前、平壌で生まれた。そこは世界の中心で、世界の全てがあった。
父は政府関係の仕事をして、母は縫製工場で働いていた。母はよくキムチやビビンバを作ってくれた。
平壌の中心部は美しく整備され、広々とした芝生にコンクリートのマンションがそびえ立つ。青やオレンジのパステルカラーに彩られた建物はどれも概ね均一な形で、ソンミンもその一角に住んでいた。
大通りの近代的なビルの中にはスーパーや薬局などのテナントが入り、街の至るところには偉大な指導者の大きなフレスコ画が飾られている。街を歩く人は皆灰色や茶色の洋服を着ていた。男性は髪を短く刈り上げ、女性はいくつかの決められた髪型の中から選んだヘアスタイルを楽しんでいた。
休日には両親と共に市内の
偉大な指導者のおかげで全てが満ち足り、何不自由なく暮らしていた。市民に求められるのは、良き労働者であることだけだった。
平壌を一歩出れば、餓死者の痩せ細った遺体が路上のあちこちに転がっていた。ソンミン自身も空腹を感じることが度々あった。そして五歳の頃、一度母にこう尋ねた。
「ねえ母さん、どうして将軍はもっと沢山食べ物をくれないのかしら? そうすれば道端のあの人達も、もっとお腹いっぱいになって幸せなんじゃないかしら」
すると母スヨンは、険しい顔でソンミンを諭した。
「ソンミン、私達は十分満ち足りてるわ。将軍はいつも私達のことを思ってくださる。私達は世界で一番幸せな国に住んでいるのよ」
その言葉とは裏腹に、母の顔は何かに怯えているようだった。子供心に、母の言葉と表情の差に違和感を持ったが、ソンミンは納得した。母はこう続けた。
「いいね、将軍に疑問を持ってはいけないよ。決して口に出してはいけない。鳥やネズミが聞いてるからね。将軍はいつも皆のことを見てるのよ。貴方の考えていることも全部分かるのよ」
ソンミンが母から教わったのは、自分の意見を持ってはいけないということ、そして偉大な将軍を信じ敬愛することだった。
街頭テレビジョンやラジオで繰り返し何度も流れている曲はすぐに覚え、口ずさむようになった。
「嵐に立ちはだかり
私たちに信念をくれた金正日同志
あなたが無ければ私たちも無く
あなたがいなければ祖国も無い!
未来と希望を授けてくれる
私たちの運命、金正日同志
あなたが無ければ私たちも無く
あなたがいなければ祖国も無い!
世界が何百回変わったとしても
人民はあなたを信じる、金正日同志
あなたが無ければ私たちも無く
あなたがいなければ祖国も無い!」
学校へ行くようになってからも教わることは、素晴らしい祖国への愛、素晴らしい指導者への愛、それに、敵国である南朝鮮やアメリカ、日本がいかに邪悪であるかだった。ソンミンを含む生徒達は、同じ制服を着て同じ髪型をし、同じ標語を繰り返した。
年に一度、可愛いチマチョゴリを着せてもらって祭りに行くのが楽しみだった。4月15日、それは日本による占領に抵抗した偉大な建国の父・金日成の誕生日で、国を挙げての祭典が開かれる。マンスダ丘にある偉大な父のブロンズ像を両親と共に訪れ、挨拶をした。
路上では人々が餓死していたし、時折誰かの公開処刑が行われていた。敵国の音楽やテレビを視聴したり、国外逃亡を試みるなど祖国を裏切る行為をすれば収容施設へ送られる。こうして重罪人を裁いてくれるからこそ、人民は安心して暮らすことができる。
祖国は全てが完璧で、満ち足りていた。そこには世界の全てがあった。
六歳の冬、突然父が家に帰って来なくなった。もう何日も姿を見ていない。
ある日学校から帰ると、リビングで母が泣いていた。
「お母さん、どうしたの?」
「……お父さんがね」
「お父さん、どうしたの? どうして帰って来ないの?」
「何でもないわ」
母は言い淀んだ。涙を浮かべながらソンミンの頭を撫でて、微笑んだ。ソンミンは何度か父に会いたいとせがんだが、二度と父の姿を見ることは無かった。
数日経ったある日、母は小さな鞄一つに身の回りの荷物を入るだけ詰めて、ソンミンを連れ出し車に乗った。車には見知らぬ男がいた。とても長い時間、車に揺られたのを覚えている。誰も無言だった。車は北へ北へと向かった。
真夜中に車を降りると、目の前に川が流れていた。中国との国境を隔てる
母に手を引かれて歩きながら、川の対岸が眩しく光っていることに気が付いた。それは街明かりだった。ふと振り返れば、自分達の来た方向は真っ暗だった。そこにも街があるにも関わらず。
川を渡る母の形相は、今までに見たことがないほど恐ろしかった。いかに緊迫した状況にいるのか、子供のソンミンにも伝わった。ここを越えるのは祖国を裏切ることであり、国境警備兵に見つかればその場で射殺される。母が何故このような、最も恥ずべき裏切りとされてきた行為に出たのか分からない。母と自分は重罪人になってしまったのだと思った。
川の中腹は凍結しておらず、母はソンミンをおぶって腰まで水に浸かり歩いた。母の身体は寒さに震え息は荒く、今にも川の流れに負けて倒れそうだった。しかし母は決して足を止めなかった。
母スヨンは運命に打ち勝って、豆満江の対岸へ辿り着いた。ボロボロのアパートの小さな一室で、二人の新たな人生が始まった。
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