(九)

 彼女が勧めてくれた座布団のうえに正座し、落ち着かない心地のまま六畳ほどの部屋を見渡す。二つの書棚にたくさんの本が置かれてあり、小さな図書館のようになっていた。

 茶を運んできてくれた彼女が気恥ずかしそうに言う。


「片付いていなくて恥ずかしいです」

「いえ、そんな。しげしげと見てしまい申し訳ありません。本をたくさんお持ちなのですね。たいしたものです」

「幼いころから家のなかで過ごすことが多かったですから。――あの、お夜食をご用意しておきましたが、召し上がりますか」

「これは、ありがたい。おふるめでは緊張してしまい、箸が進みませんでしたから」

「あら、まったくそのようには見えませんでした。壮一郎さんも緊張をなさるのですね」

「はい、それは当然に」


 差し出された盆のうえには、可愛らしい結び飯が三つ、あとは漬物と形のよい玉子焼きが乗っている。それらを見るやいなや、僕は腹が急に空いてきたので遠慮なしに「いただきます」と頬張った。

 彼女が首を小さく傾げて僕の顔を下からうかがう。


「いかがですか」

「いやァ、うまいです。とても。玉子焼きも甘くて私好み。いくつでも食べられそうなほどで」

「まァ、それはよかった。お茶もどうぞ」

「はい、すいません」


 ふと茶碗を持つ白い指先が、覚束ない電灯のなか浮きたって見えた。風呂上りなのだろう。花のような石鹸の甘い香りがして、こちらを見なさいと僕を揺さぶる。ついに僕は、この部屋へ踏み入れてから見ないようにしてきた彼女の姿を視界にとらえた。

 浴衣の上に一枚をはおっていて、髪を片方にたばねて垂らしている。露になった耳と首筋には桜色がほんのりと滲んでいた。

 しっとりと潤んで底知れぬ深みを帯びた円らな瞳。

 なまめかしいのともまた違う。春先の若芽のごとき女子が、その身から発する一瞬のそれを何と呼んだらよいのか思考をぐるぐるとめぐらせたが、ついぞ僕の辞書ではわからなかった。

 いけない。うっかり何秒も凝視してしまったと自覚する。彼女が僕の視線をさとったのは明らかで、浴衣の襟元を直すしぐさをした。

 僕は恥ずかしさを誤魔化すため、「熱いですよ」と注意をうながしてくれる彼女の言葉に構わず、勢いよく茶を飲み干した。

 それから二人で、色々なことを話した。まず互いの幼少の頃からにはじまり、尋常小学校、高等小学校、女学校、陸軍幼年学校について紹介しあう。

 驚いたことに菅花家ではすでに写真を何枚も撮影していたので、彼女の赤ん坊時代から拝見することができた。現存する僕の写真はせいぜい四、五枚であろうか。何年か会えなくなるから写真がほしいと言ってくれたので、先日卒業記念に撮影したものを焼き増しして送ることにした。

 あとは彼女の持病についても聞いた。そうした病気があるのだと初めて知ったが、甲状腺機能が不安定であるのだという。もう慣れっこだと言うものの、時として発熱し、倦怠感、寒気、憂鬱な気持ちの波がやってくるそうだ。現在の医学では対処療法で対応するしか手はなく、これまで多様な薬を試し、今も朝晩に飲んでいる。

 彼女曰く「一生つきあうことになる病気だと言われています」とのこと。さらに「先々ご迷惑をおかけすることになりましたら、どうぞ離縁なさっていただいても結構ですから」と身を強ばらせて言ったので、僕は「なんの、私の母だって田畑仕事をしていませんから、ご安心ください」となだめた。

 時計を見ればすでに夜の十一時を過ぎている。

 きっといつも眠っている時間に違いなかったので、僕は慌てて「体が冷えることになると大変です」と布団へ入るよう勧めた。

 俄かに彼女は頬と耳を真っ赤にさせ、コクリと無言で頷き、しなやかな衣音だけをたてて素直に布団へ潜る。おそらく彼女には、僕が要望してきたように聞こえたのかも知れない。

 布団の外で横になった僕を見て、彼女は吐息混じりにかすれ声で問う。女性の声にならない吐息の音とは、男子にとってやたらと魅力的で破戒的なものだ。

 僕の胸中に潜む動物的な衝動が唸り声をあげたが、有無をいわさず檻のなかへ押しこめて施錠する。


「壮一郎さんはお布団に入らないのですか」

「軍隊では上等な布団で寝るなと日ごろから戒められております。こんな贅沢をしてしまったら、戦で働けなくなってしまいますから」


 もちろん嘘だ。しかし都合よく、彼女は本気で信じこんでくれている。

 それがまたいじらしくもあるのだが。


「これは、気が利かず申し訳ありません。すぐに布団を代えてもらいますから――」

「いいえ、もう遅いですから大丈夫です。このまま休みましょう。今日は朝早くから動いてお疲れではないですか」

「はい――いいえ、今日は朝まで大丈夫です。お話いたしましょう」

「どうぞご無理をなさらず。眠くなったら遠慮なく休んでください」

「ありがとうございます。ではせめて掛け布団だけでもかぶってください。私一人では大きすぎますし、朝はまだ冷え込みますから」

「ありがとうございます」


 彼女は枕を寄せて、遠慮がちに僕の体へ布団をかけてくれる。依然として二人の間には、何とか人一人分の間合いが確保されていた。

 ふたたび二人で囁き声になり、あれやこれやと話をする。家族のこと、仲良くしている女学校の友人の紹介、村内の最近、好きな和歌の話、物理のこと、陸上の思い出、追いはぎを懲らしめた時のこと。

 そして、世の中の動向と二人のこれからについて。

 彼女は僕より先に眠るまいとして努力をしてくれているのがわかった。その気持ちだけでもありがたかったが、しだいに睡魔を押さえこめなくなった彼女は、長い睫毛をゆっくりと動かしたのち、ウトウトと眠りに落ちていった。

 すやすやと静かな寝息をたてている。

 可愛らしい寝顔だ。

 母と姉以外の女性の寝顔を見るのはこれが初めてのこと。

 時計を確かめると深夜の二時半。

 ずいぶん長らく話しこんでしまったものだ。きっと疲れさせてしまっただろう。

 僕は枕元の電灯を消す。

 今宵、この部屋を訪ねてきた本来の用向きは、子作りをすることにあった。満州は比較的平穏であるとはいえ、僕が外地へ赴くとなれば当然に命の危険が伴う。ならば両家の親、とりわけ僕の両親が望むことは子種を残してゆくことになる。

 だがもしもそうなったらどうなるか。彼女は大好きな女学校を辞めなければならなくなるであろうし、慣れない子育てに一人で奮闘することになる。我が家の手前勝手なわがままで、そんな重荷を背負わせては気の毒だ。

 かたや僕だって、万が一ということも可能性として皆無でもない。それは彼女の一生にとって、取り返しのつかない呪縛となってしまう。僕はそんな存在などには絶対になりたくない。

 なぜならば、僕の母がそうした人生を歩んできた女性だったからだ。姉の父と僕の父は違う。急な内臓疾患により若くして亡くなってしまったのだ。ところが栗田家にはまだ男子がいなかったから、別な家から婿養子を迎え、僕と弟が生まれたのである。

 つまり僕と弟は、厳密には栗田の血を引いていないことになるが、昔から子のない家では婿養子と嫁を迎えて家をつなぐ習わしがあったから、明治初期生まれの祖父母にとってみれば違和感のない判断だった。

 祖父母だって母の人格を軽んじていたわけでもない。母も隣村の歴とした地主家の娘でちゃんとした人だったから、「これからもこの家にいてほしい」と頼みこんだ。祖父母は実の我が娘のように可愛がり、鍬すら持たせなかったもの。

 とはいえその時、若かった母はどう思ったであろうか。

 幼いころ、僕は何度か聞いたことがある。

 縫い物の手をふと止め、ボンヤリ遠くを眺めたまま、ポツリと「壮太郎さん――」と前の夫、つまり本来の当主の名を愛おしげに呼ぶ声を。だからこそ僕は、母の一生の意義を崩さないためにも軽率なことはできない。

 菅花家の彼女のおばあさまだってそうだ。僕ははじめて話を聞いたとき、外国人神父が残していった子を育てつつ、どれほどの寂しさを胸にかかえ長い歳月を過ごしたことだろうと思い、母の心情と重ねた。

 ゆえに今日は、彼女の身を抱くことはできない。衝動に流されてはならない。これから先々、何がおこるか知れたものではないのだから。

 彼女が長年見上げてきたであろう天井を見つめ、一人で名を呼んでみる。


「菅花響子さん――栗田、響子さん」


 菅花という姓はどこか優雅な余韻をもっているが、栗田という姓は栗のイガが降ってきそうで情緒がない。何だか彼女に申し訳ない気がした。

 布団のなか、左手で彼女の手を探し、何度か逡巡してから起さないようにつかんでみる。

 小さな手。

 とてもやわらくて、温かな感触。

 これぐらいならば許されるだろうと思ってのことだが、寝込みを奇襲するなど悪い気がしてきたので、除けようとしたところ、彼女はもう片方の手を手の甲に重ねてきた。

 起きているのだろうか、眠っているのだろうか、それはわからない。声にして訊ねようとも思わなかった。

 あと数時間だけ。

 夜が明けるころになったら、菅花家の皆様と顔を合わせぬよう帰らなければならない。

 僕はうつらうつらと現世と夢世の境界を漂いつつ、左手を包んでくれる感触と甘い香りのなかで、ただただ陶酔していた。

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