(六)
結納の日。
今日はお日柄もよく、どこからともなく鶯のなき声がして、春先らしいやわらかな陽ざしが庭にたまっている。
つまるところ、どうやら縁談について何も知らなかったのは本人ばかりだったようで、結納を略式で済ますと言いながら、すでにほとんどの段取りがついていた。
私は朝はやくに起きて身だしなみを整え、鮮やかな赤の振袖で着飾る。お母さまと早久が二人がかりで着付けてくれた。これは菅花の乙女たちが、ここ一番の場面において着てきた振袖。いつからあったのかは知れないが、少なくとも百年以上まえの逸品であろうという。
三人の姉さまたちも、これで結納の儀式へのぞんだ。幼いころ、道子姉さまの艶やかな姿を見て以来、「いずれ私もあれを着てお嫁に行くのだ」とずっとあこがれてきたもの。
自然と背筋がのびて腰が入り、身と心が引き締まる。
「お母さま、帯がすこしきついわ」
「何を言いますか、今日ぐらい我慢をなさい。結納や
「そうでしょうか」
「そうなのです。あとはこれからお嫁入りをするまえに、その強情っぱりをあらためなさい。あちらのお宅にご迷惑がかかりますから」
「はい、気をつけます……」
末っ子育ちゆえだろう、私はややわがままな気質であるとも自覚している。早久が脇からそっと「女は年をかさねれば、年々かわるものですよ」と慰めてくれた。
腰をおろして休む時間もない。
仲人を引きうけてくださった村長夫妻がまずやってきた。紋付に羽織袴、いつになく張りきっているようす。村長はひょうきんな人柄で、村じゅうから人望のある人だが、菅花の遠縁でもある。
ほどなくして、栗田家の皆さまが到着なされたので、家族は玄関先へ勢ぞろいして出迎える。栗田家のご両親、栗田家お母さまのご実家のお兄さま、そしてもちろん――壮一郎さんも。
二年ぶりの再会になる。
目元まで深くかぶった軍帽。
ほこりや皺がひとつもない端然とした軍服。
春陽を反射して真っ白に輝く手袋。
黒艶をたたえた革靴。
あとは相かわらず、逞しくてすらりとした長身。
さっきまで、自分でも意外なほど静寂としていた私の胸中に、小さなさざなみがたつ。まるでつばめが、急旋回して水面をふっとかすめて行ったかのよう。みるみる波紋の振幅が大きくなってゆく自覚もあった。これはいけない――
菅花家の者たちと順ぐりに挨拶を終えた壮一郎さんは、真剣なまなざしをこちらへ差しむけると、右向け右をして一歩二歩とせまってきた。さすがは陸軍幼年学校仕込みと感心せずにはいられない直線的かつ鋭角的なととのった所作。
そういえば顔もととのっている。
以前よりも。
鼻すじがすっと高くなり、あごの起伏が骨太になったような気もする。「そのお佇まい、やはり士官学校へ進むべきだったのではないか、いやそうしたらこの話はなかったはずだ――」などなど、あさってのことを考えているうち、とうとう手をのばせば触れるぐらいの距離にはいった。
彼はかたい一礼をさせたのち、つきささりそうなほど、黒々と輝く澄んだ瞳で私をまっすぐ見つめる。
「お久しぶりです。お健やかそうでなにより。此の度はとても急なことにて、さぞや驚かれたことでしょう。それもこれもすでに私の赴任が決まっているため。報国の志をたてたとはいえ、私の一存によって皆様へかようなご迷惑をおかけするとは思いも及ばず、大変申し訳なく存じます」
「いいえ、そのような」
「まずは本日、どうぞよろしくお願いします」
ふたたび彼が頭を下げたので、私もあわてて応じる。「言葉を、なにか言葉を返さなければ」と念じたが、またしても頭が空転して声が喉元につかえてしまい、
「こちらこそ……」
と、かすれ声で中途半端な返事をするのが精一杯だった。
「では皆様、どうぞ座敷のほうへ」
父の案内に導かれた一堂は、結納の場となる座敷へぞろぞろと移り、あらためて正式に対面した。
菅花家側は両親、義兄、母方の叔父が隣席する。
床の間には鶴と亀が戯れるさまを描いた掛け軸が吊るされ、また室内ではお香も焚かれて、いつもとは違う清かな雰囲気をかもしだしていた。
着座するなり、道子姉さまと早久が運んできた桜湯でのどをうるおす。皆は庭で咲いたかわいらしい梅花を風流に愛でていたが、私にそんな余裕があろうはずもなかった。
鼻腔に広がる桜の香りとほのかな塩味が、先刻の失敗から身によどむ後悔の念をすすいでくれる心地がする。あとは自然と二年前の場面がよみがえってきて、正面で桜湯を飲む壮一郎さんを周りから悟られないよう隠れ見た。
この間に父と壮一郎さんのお父さまは、「たがいに村内のことをよく知っていますので、いまさらではありますが」と気恥ずかしそうにしながら、三代前までの家系を記した親族書を交換した。やはり、二人だけはよく準備ができている。
場の空気が少しほどけてきた頃、村長が「ではそろそろ――」と声をかければ、皆がうなずいて威儀をただす。
村長は朗々とした声で、
「これより、栗田家と菅花家の結納の儀をとりおこないます」
と宣言した。
すぐに村長の近くへ、父とお父さまが膝をよせる。これより式次は、三者の間で進行することになる。
まず初めに、栗田さんのお父さまが背筋をのばし、結納品の目録をゆっくりと読みあげた――が、私をひどく驚かせた項目があった。それは金包、いわゆる結納金のことであるが、その額面、なんと「一千三百円」。
いまどき、せいぜい百円から二百円が常識的な相場とされ、姉さまがたの時だって四百円か五百円だった。なのに、末娘の私に一千三百円。ほどほどの家が建ってしまうほどの大金だ。
一瞬、意識がとおのいて、私はくらりと眩暈を覚える。「わが家からの半返しはどうなるのだろう」と要らぬ心配もしたが、すでにそのあたりについては父とお父さまの間で決めてあるのだろう。
ふと気がつけば目録の読みあげはとうに終わり、父がお父さまへ受書をわたしていた。中央上座の村長が、満足げな顔で二度三度うなずく。
「これにより、栗田家菅花家の婚約がととのいました。ご両家の皆さま、御目出度う御座います」
両家一堂、「ありがとうございます」と神妙に小さくつぶやきながら、仲人夫妻へ頭をさげたのち、こんどは互いに「どうぞこれから、よろしくお願いします」「こちらこそどうぞお世話になります」と男同士、女同士であいさつを交わす。
すかさず道子姉さまが静かに入室してきて、父の耳もとに「応接間におふるめのご用意ができております」と伝える。
「では皆さま、おかげさまで今日はとても目出度い日になりました。ささやかばかりではありますが、おふるめのご用意が整っておりますので、応接間へご移動ください」
父のひと声をうけた一堂は、潮が引くように賑やかに去っていく。やっぱり当然のように、私と壮一郎さんを残して。
早久がお茶を運んできてくれたので、私はお盆ごと引きうけてお茶をだした。
ところで彼は、私とちがい始終おちつきはらっていた。さすが軍隊できたえられた人は、普通の安穏とした暮らしをおくる同じ年ごろの男子とは違うと感心したもの。
静かに黙って茶を飲む二人。
ケキョケキョ、ホーケキョ――と、まるで「ほらほら、はやく何か気のきいたことを話しなさい」と私をからかうかのごとく、うぐいすが早口に啼いていた。
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