(五)

 それは突然に決まった。

 もちろん私の同意など、あろうはずもなく。

 とある休日、自分の部屋で本を読んでいたところ、早久がやってきて「旦那様からおだいじなお話があるそうです」と呼びだされた。すぐにお座敷へむかってゆくと、そこには父ばかりでなく母や道子姉さま夫妻もいて、どこか沈痛な面持ちにもみえ、そわそわした雰囲気が室内にただよっている。

 誰か近しい親せきの病気もしくは不幸でもあったのだろうか。腕組みして座る父の正面へまわりこみ、言葉を待った。


「――響子」

「はい」

「年ごろになってきたことだし、いよいよどうかと思うのだが」

「何のことでしょう」

「いや、あのな、あの――」


 ずいぶんと言いにくそうにしている父の横で、母が憂鬱げに小さく溜め息をついている。これはよっぽどなことが起こったのであろうと私は身構えた。


「縁談が決まったのだ」

「えんだん……あら、どなたのですか」


 言いよどむ父と、他人ごとと思いこんで無邪気にたずねる私。二人のやりとりを見て憐れに思ったのか、途中から母が話に加わり、きっぱりとつないだ。


「ほかでもありません。あなたの縁談が決まったのですよ、響子」

「え、私の――ですか。えんだん、縁談……」


 晴天の霹靂とはまさしくこのこと。

 私はポカンと天井を仰ぐ。

 勝手にぬけでた意識がフワフワぐるぐると遊泳していたので、「待ちなさい、呆気にとられている場合ではない。おたずねすべきことは山ほどある」と呼びもどした。

 いまだ他人ごとのような心地のまま、思いついたことから訊ねてみる。


「あの、それでお母さま。私はどちらへ行けば……」

「栗田さんのところです。ほら、壮一郎さんというご長男がいらしたでしょう」

「え、栗田さん――栗田、壮一郎さんなのですか」


 まったく予想外の名まえ。

 びっくりしている私に、母はわざと気づかぬふりをして、この話の核心ともいえるたいせつなことを説明した。


「じつはね、壮一郎さんはこんど陸軍幼年学校をご卒業なされ、満州へ赴任なさるのだとか。だからまことに急ですが、その前に結納だけでもしておいたほうがいいということになりましたの」

「満州、結納……」

「おいやですか」

「いえ、いやもなにも私には……」


 べつに壮一郎さんが嫌だとか、嫁入りさきがきまって嬉しいというわけでもない。私はまだそうした実感にいたっていないだけだ。とりあえず口が心と頭を置きざりにして、復唱をやりたがったまでのこと。「いけない、なにかを考えなくては」と再始動を試みるのであるが、頭のなかがギィギィときしみを上げ、いまだ追いつけずにいた。

 それにしてもなぜいきなり決まったのか。

 疑問には思ったものの、でもなんとなく、村内にある地主家同士の縁談、先方は栗田家――という話の欠片を梯子にしてよじ登ってみると、その先にぼんやりとした視界がひらけてくる。

 いわゆる、家計の問題だ。

 ここ数年、わが家の帳簿は朱に染まっている。

 なぜかといえば、論を待たない。日本が米英から貿易制限をうけて以来、世間は急激な不景気にみまわれた。当然のなりゆきとして、わが家だけが例外でいられるはずもなく、あらためて誰かが口に出さなくとも台所事情がひっぱくしていることは何となく心得ていた。

 父だって何もしていなかったわけではない。あの手この手を尽くしている。たとえば昨年、先祖代々の土地を十町歩ほども売りわたした。

 だが今どき、働き手となる男子が戦争へとられて農村から減りつつあるというのに、広い農地を得てよろこぶような人も少ない。よって、大金をはらってまでして土地を買いたがる人などいない。

 何より、今はどこの家でも同じくたいへんで、お金がない。

 先日、二番目三番目のお姉さまたちの嫁ぎ先でも家計が苦しくなり、お舅さんに頼まれたのだろう、お金の融通を頼みにきた。それは何らめずらしいことでもなく、こうしたときにこそたがいを助けるため、相応の家格同士で縁組をしてきたのだ――が、本来ならば助けてほしいのはこちらの方だった。

 なのにやさしい父は、娘たちの面目と幸せにかけて、「いつか余裕ができたときに返してくれたらよい」と持たせてやったもの。結果、わが家はますます苦しくなった。

 かたや栗田家。いつだったか早久が言っていたが、あちらはわが家の親戚たちのように事業へ手をのばさず、代々土地を広げてこなかった経緯もあり、「栗田さんのところは蓄えがあるとのもっぱらの噂です」とのこと。

 ゆえにおそらくお金の工面を相談するため、父は栗田家へ行ったのだろう。

 そういえば都合よく両家には、年の近い男子と女子もいる。栗田さんはできた人だから、あえて詳らかに話さずとも事情を察し、魚心に水心で応じたに違いない。きっと、通常よりも多めの結納金を包んでくれるのだろう。

 しかし、そこまで話がすすんでいるのであれば、私には否が応もない。

 どこか遠くへ身売り奉公するようなことにでもなって、一家が離散するより遥かにましだ。決して話を大袈裟に膨らませているわけではない。実際に女学校の学生のなかからそうした人が出て、泣く泣く中退してもいる。

 あとは私が病弱の身であるから、なるべく近い嫁ぎ先のほうがよいというのはその通りでもある。村内ならいつでも顔を見られるし、長く寝こんでご迷惑をかけるようにでもなれば、引きとってくることもできる。

 さっきから皆の視線が、じっと考えごとをしている私の顔へ注がれていた。

 私は鼻息を荒げ、深呼吸をひとつさす。

 返すべき答えはただひとつ――

 と肚をくくり、指先をそろえ、深く頭をさげた。


「栗田家ならば、ご家族との折り合いや行く末になんら心配がございません。お父さま、お母さま、体が弱い私に色々とご配慮をいただき、誠にありがとうございます。つつしんで、良縁をお受けいたしたいと存じます」


 父はやっと頬をゆるめ、愁眉を開き、安堵した表情にかわってくれた。そういえば少しやつれてもいる。ここ数ヶ月ものあいだ、ずっとお金の心配ばかりしてきたのだから無理もないこと。

 お母さまと道子姉さまは「近くに姉妹が一人でもいてくれたら心づよいわ。もしも響子が遠くへお嫁にいってしまったらどうしようと、内心とても心細く思っていたの」と手をとりあい心から喜んでくれている。

 これでいい、これでよいのだ。

 ところで急に、ふと、桜の木の下で見た壮一郎さんのたたずまいを思いだす。

 もうかれこれ、二年ちかくもまえのこと。あの時は、まだあどけない少年の表情をどこかに残していたが、今はどのような青年に変わっておられるのだろう。

 また一方、二年経った私をみて、彼は何と思うのだろう。

 私の胸中には、縁談がどうこうよりも、名の知れない不思議な好奇心がわいていた。

 ともあれ、周りも私も十五のころとは違う。今度こそきちんとした会話のやりとりをしたいところ。

 学校の教科では何がお得意かしら。

 お好きな食べ物は何でしょう。

 何をなさっているときが、一番楽しいのかしら。

 あとはどうして、急に満州へいくことになったのだろう――

 明日はかならず二人きりでのこされ、歓談する時間がもたれるはずだ。はたしてそのとき、何についてお話をしたものか。ご飯を食べていても、お風呂へはいっていても、頭のなかは四六時中そればかり。気がつくと、うっかり何度か繰りかえしている項目もある。

 そこで私はノートの紙を一枚ちぎり、夜になって床に就くまで、あれやこれやと暗誦しいしい書き連ねていた。

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