(四)

 昭和十七年、春先。

 陸軍幼年学校において三年間の課程を終えようとしていた僕は、予科士官学校へすすむよりも兵科を志願した。つまり、幹部候補となる道ではなく、階級は低くとも実務への赴任をえらんだ。

 理由はいくつかある。

 ひとつ。昨今、大陸の戦線はますます熾烈をきわめ、かたや外交対立をふかめた米英にたいし日本は宣戦を布告した。目下総力をあげて決戦へ臨もうというときに、士官階級という私的な出世欲のため暢気に机上の学問に執心するのは、いくら幼年学校生とはいえ帝国陸軍の飯を食んできた日本男子の心がけとして正当か否か。

 夜な夜な同級生たちと口角泡を飛ばし、議論をかさねた結果、僕は否と評価した。

 それでも幹部を志したいなら、まずもって御国がいくさに勝ってこその話であり、その道の先で世情が落ちつけば、あらためて思う存分士官学校で学ぶこともできよう。

 現時点の未熟な僕が、御国のため何ができるのかと自問自答すれば、それは兵不足に喘いでいるとも噂される前線に加わることであろう。この決心に辿りついた晩、僕は興奮して眠ることができないままでいて、ぴりりと冷たく澄んだ空気のなか朝日に向かって合掌し、天地神明と先祖に誓いをたてた。

 理由ふたつ目。何よりもいま兵科を志願すれば、もれなく満州行きを確約されるというのがとても魅力的に映った。赴任先は、新京に本部をかまえる関東軍。当初数ヶ月のあいだは実地訓練を兼ね、砲兵として務める。そののちは、本隊付きで通信関係の任務に就く予定だ。

 陸軍の末端と中枢に身を置いて実際を学び、かつ御国のため働くこともできるというのだから、この上なくありがたい話。とうとう僕は、栄えある帝国陸軍の兵となり、戦へ参じることになる。満州関連の書籍を読みあさり、まだ見ぬ新京のモダンな街並みを瞼の裏に思い描いては、ただただ胸躍る日々を送っていた。

 もちろん故郷の両親にもこの内定を知らせたが、二三日もして「キンキンカエラレタシ」との電報が届いた。

 わが父は、士官学校へ進むものとすっかり思いこんでいただろう。相談もなく勝手に進路を決めたので、吃驚させてしまっただろうか。しかしまさかこの御国の非常時、愛国心がつよい父にかぎって「なぜ独断で決めたのか」と怒鳴りつけてくることはあるまい。むしろ「よくやった」と褒め讃えてくれるはず。そう信じて疑わなかった。

 さて次の休日。僕は凱旋するような心持ちで、生まれ育った故郷の村へ意気揚々と帰ったものである――が、父がこっそりと水面下で画策していた奇襲作戦により、こっぴどく叩きのめされることになる。それはさながら、天変地異のようにまったく予測できなかった事態、あるいは今生を一変させうる大事件ともいえた。

 縁談だ。

 

「いえ、ちょっと待ってください、お父さん。僕はこれから満州へ赴任する身。少なくともこの先三年間は、本国へ帰ってこられなくなるのですよ」

「それがどうした」

「ですから、あまりにもお相手の方がお気の毒ではないかと言っているのです」

「ふうむ、そうかの。戦地へ赴くまえに軍人が嫁迎えをするのは、この村でも前からよくあったこと。何か、とりたててめずらしいというわけでもあるまい」


 父はきわめて涼しい顔で盃を口へ運びつつ、当たりまえのように淡々と言ってのけた。

 我が親ながら、何たる憎たらしき顔。

 聞けば母によるところ、今日は朝飯から酒をやりつづけて僕の帰りを待っていたらしい。昔から顔色ひとつ変えず、ざるのように何日でも飲んでいられる人だ。


「それにそもそもどこの誰なのですか、そのお相手とは」


 両親はたがいの顔を見ると、口をにして笑みをおさえている。

 僕はとても嫌な予感をおぼえた。二人そろってそういう顔をするとき、だいたいおかしなことを企んでいるのが常である。生まれてこのかた、子をやってきた長年の勘だ。


「ははァ、わかりましたよ。どうせ俄かに決めたことですから、もらい手がなく行き遅れた女子か、わけあって出戻りした年増――どうですか、図星でしょう」

「だとしたら、どうする」

「即刻、解消願います。まだ今なら、本人がその気にならなかったとか何とでも理由がつく筈です」

「ほう、そうきたか」


 父は盃をちびりと舐め、ジロリとこちらを見てからニヤリと薄気味悪いふくみ笑いを口元に浮かべた。


「いいのか。本当に解消してしまっても」

「はいはい、ぜひともすっぱりさっぱり、金輪際なかったことにしてやってください」


 僕は抑えきれない苛立ちを収めようとして、父の膝元にあった徳利をわしづかみに奪いとり、手酌で注いでから盃を一気に飲みほす。故郷の米と水でつくった酒というものは、何らひっかかりもなくスッと血に沁みてゆくから不思議だ。


「――おう、いよいよお前も飲めるようになったか」

「それは時々、友人たちや先輩がたと飲むこともありましたから」


 目を細め、父は何度か無言でうなずき、一人うれしそうに微笑んだあと、こんどはわざとらしく嘆息して頭を横に振る。


「それにしても、やれやれ、かわいそうに。壮一郎が嫌ったと聞けば、さぞや先方はがっかりされるに違いないがなァ」

「未だ身をたてていない青二才との縁組が破談になったとしても、よかったと思いこそすれ、いちいち気にする人などいるものですか」


 父が空になった盃をズイと突きだしてきたので、僕は徳利の首を両手でかたむけ、酌をしてやる。

 酒を受けながら、さらに問うてきた。


「どうだ、知りたいだろう」

「いいえ、結構です」

「もしも知ったらお前は、水面に顔をだす鯉のように口をパクパクとさせて驚くだろうよ」

「だから誰なのですか」

「うむ、実はお相手とはな――」


 僕は思わず肩に力がはいる。半身となって耳に意識を集中させた。

 さっきから父はこのやりとりを楽しんでいるのか、ひどくもったいをつけた口調でつづける。


「お前の嫁となる、お人はな――」

「あァ、もう面倒くさい。早く言ってくださいよ」

「ほうら、やっぱり知りたいのではないか。最初から素直にそう言えばよかったのだ。――いいか、聞いて驚け。なんとお相手は、菅花家の響子さんだ」

「え……」


 予想になかった名前。

 完全に虚を突かれた。

 だが待て、そんな馬鹿な話があるものか。向こうとこちらとでは、家の釣りあいがまるで取れていない。


「この後におよんで嘘はやめてください、嘘は。一体全体、晴れの門出がきまった息子をからかうために、わざわざ呼び戻したのですか」


 ところが父は、ゆっくりと首を横に振る。


「いいや。まこともまこと、正真正銘、響子さんを嫁としてこの家に迎える。明日はさっそく結納だから、軍服を清めておけ」


 たまらず、救いをもとめて母の顔をみれば、コクリと縦にうなずく。

 いとも簡単に裏が取れてしまった。

 畢竟、真だと証明されたことになる。


「き……ゆゆゆ、え……」


 父は、僕のわかりやすい反応がとても気にいった様子でいる。こちらを指さして「それみたことか、鯉のような顔になった」と大笑いし、「な、絶対に壮一郎は驚くと言っただろう」と母の膝をたたき、得意げ至極だった。

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