(三)
広い背を見おくりながら、早久がしみじみと言った。
「ほんとうにご立派になられて」
「早久はあのお方を知っているのですか」
「おや、お忘れですか。響子さんも小さいころ何度か一緒に遊んだこともありましたよ。ほら、栗田さんの家のご長男で、壮一郎さんです」
「栗田、壮一郎――さん」
そうか、あの人が壮一郎さんであったかと、やっと私はさとった。
栗田家は菅花家と同じく、この村内で古くからある本家筋の地主家。私の家とは対角線の反対がわにある。両家はとくに不仲であるというわけでもなく、私が病弱でずっとこもりがちに過ごしてきたから、会った機会が少ないため記憶になかったのだろう。
壮一郎さんという人は、私よりも一学年上で、小さなころから近隣で少し名の知れた人だった。
なぜかといえば、足がとても速かったからだ。
選抜選手として郡部の陸上競技会へ出場。みごと一等賞になり、さらに県大会へ出場して三等賞の好成績をのこした。地主の子にありがちな偉ぶったところがまるでなく、小作人の畑しごとを利発に手伝ったりするとも聞く。
たしか高等小学校の時ぶんには、同様に体格が大きい弟とともに、近隣を荒らしまわる追いはぎをこらしめたことがあった。
とうぜんに年ごろの女子たちの間では、評判にあがる男子の一人として、しばしば頬を赤くして噂をされてもいた。私は蚊帳のそとから、いつも教室のすみで本を開きながら、盛りあがる彼女らを遠巻きに眺めているほうだった。
そういえば、仙台の陸軍幼年学校へ進んだと父が話していたのを思い出す。進学を祝うために開かれた壮行会には、人が村じゅうから集まり、万歳三唱で送りだしたという。
彼の颯爽としたうしろ姿を見おくった私は、まだ初恋というものを知らなかったので、このときにとりたててなにか甘い恋心をいだいたというわけでもなく、「音にきく栗田壮一郎さんとは、ああした人となりであったのか」と再認識をえたぐらいのつもりでいた。
※ ※ ※
あの時、田舎に不釣り合いな彼女の垢ぬけた容姿を、僕ははじめて真正面からとらえたことになる。
内心、動悸のたかまりを押さえこむのに始終必死でいて、まちがいなく頬と耳は、熱を帯びたように紅潮していたにちがいない。
おそらく可憐という言葉は、彼女のような人のためにあるのだろう。
艶やかな着物と袴、長い髪をまとめた赤いリボン。背丈は五尺あるかないかといったところで身がやや小柄ではあるけれど、それがなおさら、触れたら花びらをはらりと落としてしまいそうな儚い花の佇まいを連想させる。女子に不慣れな僕を動揺さすには、十分すぎる存在感に思えた。
それから道を歩きながら、「なるほど、あの話は本当なのかもしれない――」と一人で唸る。何のことかといえば、彼女の父の出生にまつわる真偽不明の数奇な噂のこと。
まずそもそも、菅花家という家はこの村のなかで一番古い家柄だ。すでに彼女の父で二十八代目を数え、八十町歩の土地を所有する大地主でもある。江戸時代まで永代の肝入を勤め、名字帯刀を許されていたとも祖母から聞いた。
対して僕の家も地主家ではあるけれど、父は貧乏地主だと自嘲するのが常である。せいぜい三十五町歩もあればよいといったところだから、両家の開きは大きい。我が家の建物は、江戸時代初期から増築を重ねた古ぼけたもので、建て替える余裕などない。ちなみに父の代で十六代目となるが、十二代も違えば軽く二百年以上を超す歴史の違いがあることを示す。
だから不文律の感覚として、家格はあちらが二段か三段も上だ。わかりやすく戦国時代にたとえるなら、あちらは千石の知行地を領する重臣家、こちらは三から四百石程度の侍大将といったところか。
過去の歴史ばかりでもなく、菅花家では、すでに帝都の大学へ二人ほど子息を送りだしている。僕も大学への憧れはあったが、家にそんなお金は到底ないので、費用がかからない陸軍幼年学校へ進んだ。
さておき、彼女の父の出生について、まことしやかにこんな噂があった。
彼女の祖母は、結婚せずにいつの間にか身籠り、男の子を産んだのだという――
しかも生まれてきた子は、肌がとても色白で、髪の毛が限りなく茶色だった。すくすくと成長して年齢を重ねるうちに髪の毛は黒くなり、肌の色もついてきたが、顔立ちが異人のようだったので、周りから「ガイジン」とからかわれることもあった。
しかし聖母マリアでもあるまいし、心当たりがなかったというわけでもない。
実は、子が生まれる前年、近隣の教会へきていた外国人神父が帰国した。そう、その間にできた子だったのではないかと、誰も面とむかってこそ言わないが、静かに騒がれたそうだ。
僕の家がごくごく保守的な家風で代々曹洞宗を重んじてきたのにたいし、菅花家は昔から先進的な気風をそなえ、明治期の早いころからクリスチャンだった。
もはやあきらかに、状況証拠はそろっている。
でも僕は、とてもロマンチックな話であると思う。
異国から日本まではるばるやってきた外国人と、片田舎の豪農家に生まれた姫君の恋。神に仕える者としてのお役目、たがいの葛藤が当然あって、若い彼女は彼について行くことを望んだであろうか。
だが、それは叶わなかった。
二人を憐れに思し召した神は、無情にも引き裂くかわり、恋の印をあたえる。
彼女は生まれてきた子を抱いたとき、成長を見守りながら髪をなでるたび、彼の面影がみえる顔を愛でつつ何と思ったであろうか。時に子の顔を彼に見せてあげたいと思えば、もちろん淋しくなっただろうし、と同時に温かな幸福もおぼえたはずだ。
貴方の香りが、傍らにあったことを屹度わすれまい――と。
やがてその子は成人し、しっかり者の嫁を迎え、四人の娘が生まれる。いずれも色白で見目麗しく、各同学年の男子たちはこぞって娘たちへ憧れたもの。長女の道子さんは婿を迎えて、次女と三女は周辺にある同家格の地主家や商家に嫁いだ。
そして四姉妹の末っ子が、さきほど桜の木の下で会した響子という娘である。彼女は幼少から病弱であったというが学問を好み、女学校へ進んだと聞いたときには、女子ながら見上げた心がけだと感心もした。
さりとて僕は、心底驚かずにいられない。百聞は一見にしかずというが、まさしく然様であると思う。
まさかあんなに可憐な女子が、こんな片田舎の故郷にあったとは。
高等小学校の時分、年の近い男子どもが興奮気味に話していたものだが、今さらながらその理由に深く共感を覚えつつ、僕はひさびさの家路をたどった。
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