(七)

 じつのところ、さっきから私は困ったことになっていた。

 結納の儀が終わり、すこし気が緩んだことにくわえ、いつになく帯をきつく締められていたから身動きひとつとられない時間がつづいてきた。畳の長辺一枚ぶん、およそ一間の距離をあけて正面にすわる壮一郎さんとの話題をさがすうち、足指先の感覚がなくなるほどにしびれていた。

 それが気になり集中力がとぎれそうにもなったが、とはいえこんな日は一生に一度きりの機会。しかも明日にも彼は仙台の宿舎へ戻ることになっている。もうこれ以上、たがいを知る貴重な時間を空転さすほうが重罪にちがいないと自分に言いきかせ、ついに私は思いきってうち明けた。


「あの……」

「はいッ」

「足を――」

「はい」

「足をくずしませんか」

「え……足を、ですか」


 みるみる全身の血が頭へさかのぼってカァッとほてる感覚があった。

 きっといまの私の顔は、庭先に咲く梅花のごとく真っ赤に変色しているはずだが、そんな私をまっすぐに見て、彼は「あッ」と意味をさとってくれた。


「これはいけない、すっかり気がつきませんで。そうですね、結納は済んだのですから楽にしてお話をしましょう。正直なところ、私も足がひどくしびれておりました。ほら、こうして小さくずらしてみたり、親指を重ね合わせたりごまかしてきたのですが。ではお言葉に甘え、少々失礼いたします――うっ」


 彼は涼しそうにしていた顔をにわかにゆがめる。足を慎重にぎこちなく伸ばしながら、まるで熱い一番湯にでも入るようなようすで「くぅ」と可愛らしい声をもらすと、手で足指をつまみ「うおっ」とうずくまって唸った。


「大丈夫ですか」

「気をつけてください。これはずいぶん手強い。堰をきったように一気にきますから。ここまで足がしびれたのは、私もはじめてかも知れません」

「はいッ――」


 苦しい訓練をくぐりぬけてきた壮一郎さんが、そう言うのだからよっぽどのこと。

 私も覚悟をきめてゆっくりと腰を浮かせてから、じわじわと足指先を横にながす。やはり、彼が先に味わったぐうの音もでない苦痛を追体験することになり、「くう」と情けない声をもらした。

 まさしく熱い湯船にうっかり浸かったときのよう。ひどい顔をしているのは間違いない。今さらのように「いけない」とわれに返り、おそるおそる彼の顔をたしかめたら、吃驚したようすでこちらを注目していた。

 いきなり変な顔を披露することになろうとは、なんとも恥ずかしい。今すぐ畳みに穴をほってかくれたい、もはやお嫁にもいけない、いやこれから行くのだったと思いだす。

 すると俯く私の正面から、クスクスと音がしたあと、ひかえめに破顔一笑する声がしたのでハッと見あげる。

 白い歯がチラチラと光っていた。


「たがいに、地の顔をだしてしまいましたね。ハハハ。そろそろよそゆきの顔はここまでにして、お話をしましょう」

「そうですね、フフフ」


 二人とも、先刻までの緊張感からやっと開放されて、しばし年相応の顔で笑いあえた。

 つぎに話の口火をきってくれたのは彼のほうだったが、私にとっては意外な一言でもあった。


「二年ぶりですね」

「は、はい」


 彼は覚えていた。

 偶然、私とともに一本の桜の木を愛でたあの日のことを。すっかり忘れてしまっているだろうと思っていたので、それだけで舞い上がってしまった私は、つい話を先走ってしまう。


「あの、食べものは何がお好きですか」


 前日に何度もやった練習の賜物といえばそうであるが、唐突といえば唐突。とんちんかんな問いかけに彼は「え、食べ物ですか」とキョトン顔で目を丸くさせたのち、天井に目をやり、真剣に考えてから返してくれた。


「玉子焼きでしょうか」

「でッ……では、味付けはしょっぱいほうがよいですか、それとも甘いほうですか」

「甘いほうが好きです。それがあればご飯が何杯でもいけます」

「まァ、それは得意ですッ」


 いったい全体、会話の前後関係と間がおかしい。自覚はあっても、どうにもならなかったので、これで押し通すことにした。


「学問はどうですか。何がお好きですか」

「数学や物理が好きです。とくに電気や機械は面白くて、満州では通信士になる予定でもあります。はいかがですか」


 はじめて名を呼ばれた。

 しかも聞きのがしてしまいそうなほど自然に。

 胸を一直線に矢で射抜かれた思いがしたけれど、懸命にたてなおした。


「私は国語です。特に和歌や短歌、詩を読むのが好きです」

「それはそれは、素敵ですね」


 私の話をいちいち真面目にとりあってくれるのが嬉しくて、不思議な感覚もしたが、絶対にたずねなくてはならないと準備していたことを思いだして声にする。気がつけば、普通に声がでるようにもなっていた。


「あの、私はおさない頃から体がよわいのですが、大丈夫でしょうか。ご迷惑ではありませんか」


 間に髪をいれず彼が朗らかに答える。


「病気で怖いのは発見が遅れることです。元気にしていた人がポックリと逝き、いつも医者にかかっている人のほうが元気で長生きをするのもよくあること。ですから、むしろ安心ではないでしょうか」

「…………」


 ずっと引け目に感じてきた私にとって、とても意外な言葉だった。心から重石がひとつ、いとも簡単に取られてしまったので、つい不躾なことまでたずねてしまう。


「さきほどは過分な御結納金までいただき、栗田家の皆さまにとても申しわけなくて――」

「それだけ栗田の者たちは、菅花家から嫁迎えすることを有り難く受けとめているということです。くれぐれもそこはお構いなきよう」

「ありがとうございます……」


 まだ何もできない私に、一千三百円は多すぎる。「壮一郎さんご自身は、この縁談話を聞いたとき、どう思われましたか」と訊ねてみたかったが、失礼であるし怖かったので、懸命に飲みこんで話題をかえる。

 

「動物はお好きですか」

「ええ、それはもちろん。昔から犬と鶏、牛と馬を飼っています。菅花家では何がいますか」

「おなじく馬と鶏がいますが、私は小鳥を飼っています。ご覧になりますか」

「へぇ、小鳥ですか。はい、ぜひ見てみたいです」


 しびれの影響が残っていて何歩かよろめいたが、私は自分の部屋から鳥かごを運んできて壮一郎さんに見せた。

 彼は顔をちかづけ、指をさしだしながら鳥に話しかけてくれている。その姿を見たとき、なぜかこの人とならうまくやっていけるような気がした。

 そうこうしているうち、あっというまに一時間が過ぎた。

 早久がやってきて「おふるめも賑やかになってきましたので、そろそろ顔見せを」とのことだったので二人そろって応接間へ向かう。うしろから見た壮一郎さんの両肩は高く、やっぱり広い。

 応接間の皆はすでに顔を赤くさせていて、村長が、「あらあら、きたな。美男子と美人で、おひなさまみたいな二人だ」と茶々をいれてくる。隣にいた奥さまが、「本当に。私の若いころみたい」と言えば、「それはお前、あまりにも二人に失礼だろ」とけんかをはじめてしまった。何度か言いあったのち、夫妻は「しまった」という顔にかわり、村長が「こうして遠慮もなく言い合えることこそが、夫婦円満の秘訣。身をもって手本を示したまでのこと」と言えば、一堂が笑う。

 壮一郎さんと私は、双方の各先輩夫婦に酌をしながら挨拶してまわった。

 隣で卒なく話をする彼の横顔を見ているうち、ついさっきまで他人だったというのに、まるですでに二人が、夫婦になったかのような錯覚すら覚えたのだから不思議なもの。

 とてもあたたかくて、うららかな春先の午後だった。

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