(八)
結納がはじまる前のこと。
彼女を見た瞬間、僕は目の置き場にこまった。
二年という歳月が、可憐な少女をやたらと艶やかな女性へ変身させていたからだ。
いくら僕が田舎育ちとはいえ、先輩がたや友人らと仙台の遊郭街で飲んだことぐらい人並みにあるから、彼女の容姿と身にまとう空気が如何ほどの位かは分かる。
未だ見たことがないほどの突出ぶりだ。
季節をむかえた花は、長い時をかけてため込んだ生命力をぱっと開く。だから桜のように盛大に咲く花も、すみれのようにささやかに咲く花もそれぞれ無比に美しい。
花が咲けば、それを愛でる人のみならず、鳥や虫までもが近くへ引き寄せられる。彼女の前に立った僕の心情を表すなら、まさしくそんな感じだった。
斜めに燦燦とさしこむ春陽。
それを受ける瞳の色は澄んだ茶色。
肌は雑身なき眩しいぐらいの白色。
長い髪は傷ひとつなき純然たる黒色。
唇は果実の如く瑞々しい艶紅色。
威厳をそなえた鮮やかな赤の着物が、菅花響子という存在をより一層雄弁に語る。
真正面で見るにつけ、外国人の血を引いているというのは、やはり本当のことなのだろうとますます確信させられる。
それにしても、結納が終わったあとで彼女も言っていたが、驚かされたのは結納金の額面だ。まさか一千三百円とは。果たして我が家のどこにそんな大金があったのだろうかと二重の驚きでもあったが、と同時に、いまひとつ見えていなかったこの縁談の意味合いに合点が行く。
土台、聞いたときからおかしいと思っていたのだ。
両家が当地に根付き、おそらく三百年から五百年は軽く経っている筈だが、歴史的な田舎なりの家格が暗黙の了解として根底にあったから、両家は縁組を持ったことがなかったと聞いている。
それにも拘わらず、降って湧いたこの話。
菅花家と親戚家の財政が芳しくないというのは、何年も前から噂されてきた。つまり、栗田家がお金を融通してやる代わり、格式ある菅花家の姫様を嫁に迎えるということになる。まるで安土桃山の世と時代を錯誤したような話であるが、あえて穿った言いまわしをするならば、我が家は彼女を質にとるということにもなる。蓋し、そのように噂する人もどこかでいるに違いない。
では僕自身、正直どう思っているのかといえば、それは嬉しくないはずがない。男子として誇らしくもある。あそこまで艶やか、かつ教養を備えた女子は、半径三百キロ以内にいないであろうと思う。
さりとて、彼女に負い目を感じさせたり、要らぬ気づかいをさせぬよう気をつけねばなるまい。寧ろ何かと不安要素が多いのはこちらのほう。
まず何につけても家屋が、菅花家とくらべ格段におんぼろだ。冬場はたてつけが悪い戸の隙間から冷たい風が入るうえに、畳敷きの部屋は少なく、しんしんと底冷えがする。さらに床板が腐っていて、踏み抜けたことすらある。
もしも彼女が、家の粗末さが祟り病気にでもなれば一大事。満州へ赴任したのちは、ゆめゆめ無駄づかいをせずにお金を貯めよう。任期を終えて戻ったら、嫁迎え前に家を改築しようと心ひそかに決意した。
おふるめの間は、右隣にある彼女のやわらかな気配を感じつつ、始終そんなことを考えていた。
※ ※ ※
菅花家で催されたおふるめが、滞りなく終わった。夕方からは場所を移し、我が家でおふるめの続きをやる。
いずれのご面々も普段はしっかりとした人たちであるが、今日ばかりはしたたかに酔い、よろけてひっくり返る人さえある。これはとても珍しいことであるが、その気持ちもよくわかる。
重い世情だ。
米英と開戦して以来、当初は作戦成功を歓喜する空気が巷にも流れていたが、裏腹に不景気がみるみる酷くなってきて、しだいに重い足かせをつけながら歩む日々へ沈んだ。かつてはこの片田舎でさえ大正デモクラシーの南風が吹き抜けていたものだが、いつしかそれも止まりつつある。
経済と文化と国威の発展において、国際関係がますます重要度を増す昨今、個人の力ではいかんともしがたい課題難題が増えてきた。実体なき鬱屈とした不満ないし重圧が、国民個々の心へ降り積もっているのだろう。かたや活字に載らない悲劇も列島各地で年々増えている。
だからこそ僕は、士官学校へ進むより兵科を選択した。自分の手がとどく範囲のなかにより最適な選択肢があるならば、やらぬ後悔よりもやった反省を後からしたい。義を見てせざるは勇なきなり――だ。
さてところで、彼女をはじめ菅花家の婦人がたは、ここでお役御免となる。
栗田家へ向かうご機嫌の一行を総出で見送ってくれたのであるが、その時、気配なく早久さんが近寄ってきて「今晩は裏口をあけておきます。響子さんのお支度もございますから九時ごろにいらしてください」と、そっと告げられた。僕は戸惑いつつ、「はい、承りました」と返しておく。
その夜。
僕は酒をほとんど飲まないようにして過ごした。
それから頃合を見て、おふるめからこっそり抜け出す。母が沸かしてくれていた風呂を手早く浴びたのち、ふたたび菅花家へつづく夜道をたどる。
なぜだろう。酒に酔っているわけでもないのに、現実味のないフワフワとした心地がする。満月が照らす足元をいちいち確かめ確かめ、一歩一歩踏みしめた。
まるで十歩も歩いていない気分でいたが、ふと気がつけば、すでに菅花家の前まで来ていた。早久さんの言葉を思い出して裏口へまわりこんでみると、確かに裏門口が開いている。
深呼吸をひとつ。
足音を潜め、裏庭へ踏み入れてみる。
当然に陸軍幼年学校で夜間の戦闘訓練も経験済みであるが、まったく勝手が違っていた。まさか匍匐前進をするわけにも行かず、初めての経験に身が強ばる。
影から影を渡り歩くうち、離れのボンヤリとした灯りが目についたので、すがる思いで何も考えずに戸口を叩こうとした――が、
「壮一郎さん、壮一郎さん。そこは違います。こちらです」
と寸前で彼女の声がした。
まさしく夜闇に響く鈴音のような救いの声。
僕は釣り上げられた魚のように、声がした方へひたすら向かっていく。
彼女は顔だけを出して、ヒラヒラと手招きをさす。
なぜか僕の顔を見てクスクスと可愛らしく笑っている。
「あれは早久が暮らしている離れです。間違っていたら大変なところでした」
「な、なんと……それは虎口でした」
「さァ、どうぞ。夜道でお体が冷えたことでしょう。早くおあがりください」
「――はい、では失礼いたします」
小さな縁側から彼女の部屋へ踏み入れた途端、生まれてこのかた嗅いだこともない甘い香りがふわっと鼻腔を撫でた。と同時に、鼓動が一段増しに強く、はやくなる実感が伴う。
もう嫁へ行ったが、僕には姉がいる。男兄弟だけで育った人とくらべれば、女子の部屋への立ち入りに免疫があるほうだと想像していたが、そんなことはまったく関係なかった。
さらに部屋の中央にはなんと、少し大きめの布団がすでに一組。当たり前のように敷かれてある。
それが視界にはいった瞬間、僕の鼓動は三段増しではやくなり、このまま卒中でもおこして倒れるのではないかというほど、トントントクトクとこめかみを脈が叩いた。
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