(十二)

 敗戦後も僕は、親友の笹原謙吾と行動を共にしていた。

 奴は肥後もっこすの一本芯がとおった気質であるから、何ら迷うことなく同志らの呼びかけに呼応したもの。

 ところが笹原は、引揚者の行列に同行する道中でおこった小さな戦闘において、運悪く腹に流れ弾を受けてしまった。うしろでバタリと倒れる音がしたので、僕は慌てて引き返して身をかかえると、呆れたことに奴は泣き言を漏らすどころか「いかん、俺は貴様とちがって足がのろまだな」とおどけてみせたので、つくづく剛毅者だと唸らされた。

 幸い弾は体を抜けていた。これならばなんとか持つかもしれないと思い、できるかぎりの応急処置をほどこした。同志たちと交代で彼の身を背負い行軍したのであるが、いかんせん、この状況下では治療を求める先がない。

 十日も経ったころ、笹原が僕の耳元で、力のない声音でボソリと言った。


「――栗田、今、夢をみていた」

「相変わらずふざけた奴め。貴様、人の背中をゆりかごと勘違いしているのではないか。実はもう歩けるのだろう」

「ハハ……いや、どうやらそれは、無理なようだ。世話をかけてしまい、まことにすまない」


 日に日に笹原の体は軽くなってきている。首に回した腕の力も弱い。うっかりすると後ろへひっくり返ってしまうので、誰かの支えが必要になっていた。

 残念ながらもう、笹原は駄目かも知れないと僕は悟る。


「教えてくれ笹原。いったいどんな夢を見ていたのだ。どうせ貴様のことだから、ご妻女とちちくりあう夢だろう」

「フフ、いいや。母の背に揺られる夢。幼いころ見た、わが故郷の景色。なつかしくて、美しい夕日だった」

「そう、か……」


 笹原が母親のことを話すのはめずらしいことだ。これがはじめてのことかも知れない。


「栗田は奥州の山奥育ちだから、西の海へ沈んでゆく夕日を、まだみたことがないだろう」

「ああ、満州へ赴任するときに船から見たが、そういえば陸からはなかったな」

「なァ……もしも俺がこのまま横死することになり、貴様が本国へ帰ることができたなら、どうか俺を、俺の魂を、故郷まで連れて行ってくれないか」

「よせ、弱気は禁物だ。肥後もっこすの心意気はどこへいった、そんなものか」


 誰かが弱音を吐いた時、その者を思えばこそ、心を鬼にして叱咤しなければならない。さもなくば倒れ、眠るように死んでしまうからだ。人の心身とは不思議なもので、外傷や病気による体の機能停止だけでなく、心が体を止めてしまうこともあるのだ。実際にそうして死んでいった者が何人かある。

 はたして僕の声が耳に届いているのかいないのか、笹原はおかまいなしに念仏のごとく一人で続けた。


「あとは妻の妙子たえこには、こう伝えてくれ。離縁して別な家へ嫁ぎ、子をいっぱいつくり、幸せに暮らして欲しいと。もう俺への義理だてはいらない。せっかくこの時代を生き延びた命だ、先だけを考えろ。父と母には、家を途絶えさせてしまい申し訳ないと、お詫びをしてくれ」


 わかる。その気持ちは俺にも痛いほどわかる。だがもし僕が「承った」と言えば、笹原は安心をして途絶えてしまうに違いない。


「おい、いい加減にしろ。なぜ俺が真逆の熊本くんだりまで行って、貴様の代わりに詫びなければならないのだ。断固として断る。一緒に帰ろう、な、俺と一緒に帰ろう。必ずや共に本国へ帰り、いつか肥後の美味い酒を馳走してくれると言っていたではないか」


 笹原は呻くようなか細い声で応じる。もう息すら満足にできていないのだろう。


「いいや、もう、駄目だろう。近ごろは、意識が遠い。これでは皆の足手まといでしかない」

「そんな傷、唾をつければ治る。しかと気を張るのだ」

「ハハハ……栗田にしては、随分なことを言ってくれる。他人ごとだと思いやがって、この野郎。――それにしても、こんなひどい場所であったけれど、貴様と出会えてよかった。本当によかった。でなければ昇進試験は通れなかったからな、ハハ……」

「ふざけるな。この後におよび、そんなことを言いやがって貴様は」


 その翌日のことだった。

 笹原は、自害した。やりかねないと思って皆と用心していたが、僕が水を汲みに行って目を離した隙に、遠くからタンと音が鳴った。

 すでにピストルをこめかみに置く体力すら残っていなかったのだろう。寝転んだまま銃口をくわえ、足指を引き金にかけていた。

 僕は自分に呆れた。大切な朋が憐れな姿で亡くなったというのに、涙が出てこなかったからだ。とうとうそこまでの獣に堕ちたのかとも落胆したが、肉塊になってしまった笹原と、立ってそれを見ている僕の境界線はきわめて曖昧だ。僕だって、いつ死ぬとも知れない。


「馬鹿め。俺などあてにならないというのに、どうしてあんなことを。死人が死人に依頼をしても、そんな約束、果せるものか……」


 笹原の体には寄せ書き入りの日の丸が巻いてあった。

 身から流れでた血で真っ赤に染まっている。

 最後に残った命で、みごとに染めあげた国旗。

 あえて言ってくれなくともわかる。「これを俺だと思って連れていってくれ」というのだろう。

 その国旗を形見として持参することにした。いつか本当に帰国できたなら、僕は真っ先に熊本へ向かいご両親と奥方へ、笹原謙吾という男子のまっすぐな最期について伝えなければならない。『ふるさと』を口ずさみながら笹原の亡骸を埋葬し、僕は真っ赤な国旗を身にきつく巻きつけた。

 しかしそれから数ヶ月もして、弾薬がほとんど尽きてしまってからの僕らは、実に情けないものだった。

 途中で落伍して、どこかへ遁走する者も何人かでたし、片田舎に暮らす支那人に迷惑をかける者まで出てくる。些細なことでせっかく生き残った日本人同士で口論し、殴り合い、体力を無駄に浪費してしまうこともしばしば。

 まるで餓えた野犬の群のよう。この様相を目の当たりにしていない笹原が、むしろ羨ましいと思えてしまうほどだった。

 満足に食料を確保できない僕らの体は、みるみる痩せてゆき、地上をあてもなくさまよう餓鬼か亡者みたいになった。食べられる何かを求めて這いつくばり、敵前から一目散に逃亡する日々を送る。靴の底が抜けてしまい裸足で歩く者、なけなしの服を食料と交換して裸で歩く者もある。

 帝国陸軍兵士の誇りもどこへやら。ひどく情けない姿であるが、当然補給のあてなどなく、どうすることもできなかった。

 ある時、水を飲もうとのぞきこんだ井戸の水面に、見知らぬ男の顔が映っていたので、尻餅をついて驚いてしまったことがある。おそるおそるあらためてみると、骸骨のごとく頬は削げ落ち、目をくぼみ、ところどころ髪が抜け落ちている。

 ほかでもない、変わりはてた自分の姿だった。

 気がつけば胸に肋骨が何本も浮いていて、皮膚は栄養失調でひどくただれ、手首をつかんでみれば骨と皮しかない。困ったことに時折、自分でも意味不明なことを呟いている。

 もう駄目だ。

 こんな畜生は己ではない。

 己であってはならない。

 僕は自決用に、ピストルの弾を一つ残してあった。ひどく落胆してすべてがどうでもよくなり、一度だけ、こめかみに銃口を当てたことがある。

 この世は無間地獄。

 最早どこに、こんな禽獣の帰る場所があるというのだろうか。

 うつらうつらと耗弱した意識のなか、即刻逃れたい一心でやった。だいたい人の思考とは、十分な栄養を摂取できなくなるとまともでいられなくなるもの。武人としての矜持もへったくれもなかった。

 おそらくあの時、僕の耳元にはおぞましき姿をした死神がへばりつき、「やれ、やるのだ。何を恐れているのか。ほら、ひとさし指を丸めて引金を引くだけだ。やってみせろ」と嬉々としてけしかけていたのかも知れない。

 だが、ふと――

 僕は呆と見あげた澄んだ青空のなかに、響子の顔を思い出した。

 せめてもう一度だけ、

 響子からの手紙が読みたい気分になる。

 死ぬのはそれからにしよう、読まなければ悔いになる。それからでも遅くないと思った。

 とりつかれたように荷物の中をまさぐり、父から貰った辞書をとりだして開いた。

 なかにあるのは、三年のあいだに送られてきた十数枚の葉書。

 よかった、辞書も葉書もまったく汚れていない。

 僕はなにか読み漏らしていたことはなかっただろうかと、一字一句、ゆっくりと丁寧に読みすすめた。まるで初めて読むかのような心地すら覚え、頬をだらしなく緩めながら。

 すべて読み終えてから、彼女がくれた二つのお守りを手にとる。

 鼻に押し付け、匂いをかいでみる。

 もちろん彼女の残り香などとうに失われているのであるが、あの懐かしい甘い香りが脳裏と鼻腔によみがえる。

 あの結納のあとに過ごした一夜は、僕にとって人生最良の時。


「あれ……これは」


 今まで何度も手にしていた筈だった。なのにはじめて気づいたが、妙見様のお守りの中に何かが入っているではないか。

 上手く動かない指先を不器用に使い、巾着袋をあけてのぞいてみる。

 中には、小さく折りたたまれた和紙が入っていた。


「何だろうか」


 当世の女子たちがよくやる複雑な折りたたみ方がなされていたので、破らぬよう、用心してゆっくりと広げてみる。

 するとそこには、淀みないやわらかな筆致をもって文字が書かれてあった。

 間違いなく彼女が書いたもの。

 これは、和歌だ。


 君とこそ

  春来ることも待たれしか

 梅も桜も

  たれとかは見む


 読んだ途端――

 紙を持つ指が震えた。

 目からボロボロと、大粒の涙がこぼれる。

 もう一度、こんどは立ち上がり、声にだして朗々と読んでみる。周りにいた者たちは、いよいよコイツも気が触れてしまったかと、遠巻きに憐れみの目を向けていた。

 なんとしたことか。一体どうしたことだろう。

 不思議だ。

 もうすっかり枯渇していたとばかり思っていたのに、まだ己の体に、涙はおろか和歌を読んで泣けるだけの感情が残っているではないか。

 まだ僕は人でいられる。人として生きてゆけるのだ。

 彼女がいるかぎり。

 僕はその場にうずくまり四年分、いやもしかすると一生分も、人目をはばからず慟哭した。とうとう年長の同志が心配をして僕に声をかけてくる。


「おい、気でも触れたか。しっかりせい。まだ何とかなるぞ」

「いいえ、私は正気。大丈夫でありますッ」

「お、おう。そうか。そうであるならばよいが……」


 正気も正気であるのだけれど、響子のことを想う狂人に違いない。

 一切の衆生が流転するこの広大な三界において、彼女は唯一の存在。

 なんたる幸運。

 僕はなんという果報者であるのか。

 今生においてたまたま、気の遠くなるような天文学的な確率を手繰りよせ、響子と出会うことができたのだ。


 ただ――

 ただ恋しきは君の香り。


「僕は何としてでもあの人の許へ帰りたい。屹度必ず、生きて帰るのだ――」


 僕は天を睨み、全身全霊を震わせ、そう叫んだ。

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