(十三)

 拝啓

 はじめての一人暮らしはいかがでありましょう。ちゃんとご飯を食べていますか。風邪をひいていませんか。学生は学問がだいじですが、まずは何より元気な体があってこそ。インスタント食品ばかりではだめです。面倒くさがらずに自炊をして、規則ただしく過ごすように心がけてください。下着を毎日きれいにしておくことも忘れずに。もしも急に病院へ運ばれて、死んだときに汚くしていたら恥ずかしいですから。

 それにしても壮二が東京へ行ってから、少しだけさびしい毎日になりました。家にはおじいちゃんと猫二匹と犬とインコしかいませんので、夜はとても静かです。今にして思えば壮二がいたころ、三人で晩御飯をたべたり、テレビをみたり、話をしていたときが一番幸せだったのだなと思います。

 じつは最近、おばあちゃんは壮二に負けじと勉強をはじめました。市が開いているカルチャーセンターで和歌の教室を受講しています。そういえばこんな歌もあったなと、女学校のころを懐かしく思いだしながら、この歳になってあらためて気づかされることもあったりして、とても楽しいです。

 夏休みになったら帰ってきますか。おじいちゃんも帰ってきてくれるかなと言っていますよ。壮二にとってのふるさとは、ここしかないのですから、ぜひ真剣に考えておいてください。

 さてはてそれにしても、お手紙なんて久しぶりに書きました。手元がよく見えませんし、古い書き方しか知りませんから、読みにくかったでしょうか。少し恥ずかしいです。

 では、お体に気をつけて。色々とたいへんでしょうけれど、大学の勉強をがんばってください。

                 敬具

平成七年五月十六日

                栗田響子

栗田壮二様


  ※ ※ ※


「あれ、壮ちゃん。またおばあちゃんからの手紙を読んで泣いてるの。きっとおじいちゃんとおばあちゃんはお墓のなかで笑ってるよ」


 いつの間にか妻の裕絵ひろえが側に立って、僕の横顔をのぞきこんでいた。呆れ顔で、かうように笑っている。僕は垂れ流していた涙を拭いつつ、少し苛立ちを覚えた。


「そんな風に見るなよ。しょうがないだろ。そういう内容の手紙なんだから」

「そうだよね。それ、何年前の手紙だっけ」

「うん、二十二年まえ――かな。大学一年のころにもらったやつ」


 僕は便箋に刻まれた複雑な折り目にしたがい、元通りに折りたたむ。


「壮ちゃんはおじいちゃんとおばあちゃんが大好きだったもんね」

「まァ、ね。実質、俺はあの二人に育てられたようなもんだし」

「そっか……」


 墓地を巡回してきた裕絵は、思い出したように向こう側を指さした。


「あれ、あそこがおばあちゃんの実家のお墓だっけ。大きいね。壮ちゃんちの四倍はあるじゃん」

「だってあそこは昔、村一番の大地主だったから。おばあちゃんはそこのお嬢様で、女学校まで行ってたし。あの時代、女学校は女子の大学みたいなもんだから、お金がないと行けなかったんだよ」

「へぇ、そうなんだ。確かにおばあちゃんは品がよかったよね。年のわりに若くて、可愛らしい人だったし。亡くなる一週間前にお見舞いに行ったときなんてさ、ベットの上に正座してすまして出迎えてくれたから吃驚したよ」

「そうだったね……。そういう意地というか、とても気が強い人だったから。つらいことがあったら流されてはいけない、ナニクソと踏ん張らないといけない、とかよく言われたっけ」

「あんな優しそうなおばあちゃんが言うと、別な意味で迫力があるね」

「そう、そうなんだよ」


 祖母は二年前、祖父は七年前に病気で亡くなった。二人ともずいぶん頑張ってくれたけれど、とうとう命を使いきって寿命を迎えてしまった。今は仲良くそろって、栗田家の墓に入っている。ちょくちょく喧嘩もしていたから、あの世でもそうやって過ごしているのだろう。

 線香を焚きながら、裕絵が言う。


「――でも凄いよね」

「なにが」

「前に聞いた話。おばあちゃんのこと。よくさ、生きているか死んでいるかもわからない人を待っていられたものだよね」

「あァ、そうだよね。たしかに凄いと思う」

「何年だっけ」

「五年」

「うわァ、五年も。二十歳前後の五年は長い」

「だよね……」


 そうだ。

 祖母はなかなか満州から戻ってこない許婚の祖父を、出征から五年も待ち続けていたのだ。しかも、栗田の両親――僕から見れば曽祖父と曾祖母の面倒を見ながらという状況下で。

 僕も大学へ進んだ直後、遠距離恋愛をしたことがあったけれど、当時の彼女とは一ヶ月ももたなかった。いわゆる囚人のジレンマのような状態に陥ったゆえだが、五年なんて、到底想像がつかない。時代は違っても若者の時間と感覚は、いつもだいたい同じものである筈だ。

 とりわけ大変だったのが曽祖父で、ひどいアルコール中毒になってしまった。終戦後にGHQの農地解放政策と極端なインフレで資産のほとんどを失ったことに加え、息子二人をひとつの戦争で失ったかもしれない不安にやられて、元来の酒好きが災いした。質の悪いどぶろくをたらふく飲み続けたため、視力を失いかけるほどに至る。

 祖母から当時の話を聞かされたものだが、曾祖父は家の奥から「響子さん、どぶろく、どぶろくがない」と言いながら手探りで這いでてきて、排泄物を布団に漏らすし、対応に苦労したらしい。今で言うところの介護を結婚前からしていたことになる。僕も曽祖父や祖父と同様に酒が好きであるから、「お酒には気をつけなさい」と言い含められたものだが、血は争えないでいる。彼らがそうであったように、深酒による失敗談も多い。

 さておき結局、戦争へ行った兄弟二人は帰ってきた。それから晴れて祖父と祖母は夫婦となったわけだが、栗田家も菅花家もかつて先祖代々何百年もかけて開墾してきた土地の大半を失ってしまったので、スタートはひどく貧乏なものだった。祖父は夜明け前に起きてから夕暮れまで、毎日休みなく農業に勤しむのを常としていた。誰かが勤怠を管理しているわけでもないというのに、今にして思えば凄いこと。

 ちなみに夕方の晩酌も欠かさなかった。本当に至極美味しそうに飲んでいて、僕が飲むようになったら嬉々として酌をしてくれたものだ。

 裕絵にこの話をするのは何度目か知れないが、さっきからいちいち頷きながら聞いてくれている。


「私のおじいちゃんも戦争に行ってきたけれど、わりとゆるい所へ行ってて、すんなりと帰ってこられたらしいよ。壮ちゃんのおじいちゃんはどうだったの」

「うん、どうだろう。おじいちゃんは詳しく教えてくれなかったからさ。亡くなってからおばあちゃんがポロポロと教えてくれたけど、結構たいへんだったみたいよ。辛い思い出ってさ、思い出したくないじゃん。だからあまり突っこんでは訊けなかったけど」


 祖父は晩酌しながら、軍隊の思い出話をするのが常だった。だけど内容はいつも同じ話。どこまでも辞書を持ちこんで勉強をしていたこととか、戦争であれ会社であれ人付き合いは重要だと力説していた。それはまるで、学生が東京の大学にでも行ってきたかのような調子で、ごくごく楽しそうに、青春の思い出の一ページとして。

 だが祖父の話には、絶対に踏みこめない領域があり、僕が一番聞きたかった戦闘についてはひと言も教えてくれなかった。

 いつだったか幼い僕は、無邪気に「おじいちゃんは人を殺したことはあるの」と訊ねたことがある。すると祖父は、急に顔色がかわって無口になってしまった。すかさず近くにいた祖母が、


「おじいちゃんはいっぱい勉強をして、本部付けで後ろのほうにいたから、戦らしい戦をしないで安全なところにいたの。だから帰ってこられたんだよ」


と横から割りこんできて、拍子抜けをした僕は「なァんだ、そうだったんだ」と少しばかり祖父を小馬鹿にする気分になったりもした。

 ところが、実際はまったく違っていた。

 祖父の死後に祖母がやっと重い口調でポツリポツリと明かしてくれたことだが、祖父は終戦後も戦闘をしつつ大陸を動いていた。八月十五日は記念されるような終戦の日ではなかったのだ。

 また祖父は口惜しげにこうも言っていた。


「今のお前たちの学校の先生は、自分の目でみたこともないくせに、すべて日本が悪かったと教えているが、そんなことはない。何もかも今とは違う。自分たちで守らないと、国がなくなってしまう時代だったんだ。戦に敗けたから、本国にいた人たちがそう言うようになってしまったんだけれど――」


 終戦から二年近くもたった春のころ、祖父はようやく帰ってきた。かつて筋肉質だった大きな体は、すっかり変わり果てて、痩せ馬のように骨と皮ばかりになっていた。祖母ははじめ、それが祖父だとは分からなかったという。

 目付きや人柄も、以前とは別人のように違ってしまっていた。夜中に夢を見てうなされていることがあって、眠ったまま暴れだしたり、叫んだりすることもあったそうだ。

 僕もいくつか記憶にある。時折、一人でいる祖父がいつになく険しい顔つきとなり、空を見つめ意味不明な独り言を延々とつぶやいていることがあった。ああ、戦争とは、ここまで人の精神に深い爪あとを残すものかと戦慄を覚えたもの。

 生きている間、僕は祖父――栗田壮一郎という人のことをよく理解できていなかった。僕が生まれた時にはすでに静かなおじいちゃんだったから、ずっと田舎で暢気に農業をやってきた世間知らずな人だと思いこんでいる節があった。あまり家にいない僕の父と母は、祖父母のことを心底嫌っていたので、「あの二人はここから出たことがない人だから、世の中のことをわかっていない」と嘲笑していたのを頻繁に聞いたことがある。

 これも勝手な思いこみだ。祖父は、家族の誰も目にしたことがない満州へ行き、大変な思いをしてやっと帰ってきた。祖母は戦後の混乱のなか、ひどい苦労をしながらじっと帰りを待っていた。

 結婚後も山あり谷あり。祖父の弟が事業に手をだして失敗をしてしまい、大きな借金を残したまま自死をした。祖父は親戚縁者に迷惑をかけまいとして、その後処理に奔走したのだという。

 家にヤクザ者の借金とりが押し寄せてきたときのこと。お金をすべて返しても、奴らは調子づいて理不尽なことを言ってきた。おそらく小遣いを稼ごうとしたのだろう。

 だがそれまで大人しく頭を下げていた祖父は、いきなり豹変し、岩のような拳を分厚いテーブルが割れんばかりに叩きつけた。さらに野太い声をもって、


「貴様ら、それは覚悟があってのことかッ」


と家全体が揺れんばかりに怒鳴ったところ、借金とりたちは顔を真っ青にして、すごすごと帰って行った。

 僕も祖父がそうして怒鳴った姿を見たことがある。悪態をつく父に対して「貴様ッ」と怒鳴ったときの目の据わりようと、青白い光を宿した突き刺さるような眼光、迂闊なことを言えなくなる重たい殺気のような迫力は、今も強く印象に残っている。

 だけれども祖父は、祖母にはとても弱かった。心底惚れていたのだ。ある時、祖母が体調を崩して突と倒れたことがあって、家ではどうすることもできなくなり、救急車を呼んで病院へ運ばれたのだけれど、気がつくと脇に立つ祖父の手がブルブルと震えていた。

 かたや祖母も、祖父が大好きだった。祖父が亡くなったあとは、わざわざ布団を仏壇の前に敷く。眠るまえと起きたあと、祖父の遺影が一番最初にみえるようにするためだった。

 祖父はずっと健康な人であったが、ある日突然、末期の肺ガンであると宣告された。肺ガンとは酷く痛むと医者から聞いていたけれど、ついぞ一言も「痛い」と言わなかった。

 最期の様子がどうであったかといえば、介助なしには入浴できない状態になっていたので、祖母が献身的に面倒を見ていた。最期は祖母の膝のうえで、フッと眠るようになくなったそうだ。その時に二人の間でどんな言葉を交わしたのか――それまでは知らないし、訊けない。

 だけど僕も四十歳を過ぎた。

 同じ男子として、今ならわかる。

 祖父がどういう気持ちで戦地から帰り、どういう思いで朝から晩までこの片田舎で働き、どれだけ響子という女性のことを大事に想っていたのかを。

 栗田壮一郎という男子と菅花響子という女性は、一生で一度きりの青春時代に大変な時代を過ごしたけれど、その代わり太い糸の端と端を絶対にほどけないよう固く結んだ。だからこそ、五年という長い歳月を乗り越えられた。

 それは人の一生として、とてもとても、素晴らしいことだと思う。

 二人とも気が強くて、少しわがままで、とても心優しい人たちだった。よく話題がなくならないなと思うほどに、布団へ入ってからも眠る間際まで二人で話しこんでいた。

 僕の祖父と祖母にまつわる話は尽きない。

 ちょっと思い出しただけでも微笑ましいものがたくさんあるが、今日のところは、ここまでにしておきたい。

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