(十四)

 僕は、やっと帰ってきた。

 博多港で復員船から降り、熊本の笹原家を経由して、船と電車と徒歩をつないで故郷まできた。

 かれこれもう五年ぶりになる。

 敗戦の影響で村が荒廃していたらどうしようか、響子にもしものことがあったらどうしようか――などなど、おそるおそる歩みを進めてきたが、どうやら僕の杞憂であったようだ。

 可笑しいほどに、何も変わっていない。

 まるで僕と響子の結納をした、あの日のまま。

 土手には草の新芽がびっしりと生え、水を張った水田から芳醇な土の匂いがする。

 腕が鳴る。

 さっそく明日から農作業をやりたいところではあるが、この痩せこけた体では無理だろうか。

 でも、やらねばならぬ。

 なぜならば、僕は嫁を迎えるのであるから。

 今年も道端に立つあの桜が咲いている。

 相変わらず黒々とした太い幹と淡い桜色の対比がみごとだ。何と鮮やかで、儚くて、それでいて肉厚で、力強いのだろう。

 あ、あれは――

 桜の木の下に立っているのは、もしや、響子ではないのか。

 そうだ間違いない、あれは響子だ。

 どうした僕の足よ、走れないほどに弱ってしまったか。

 行くのだ、あそこへ。

 世界で唯一の、甘い香りを漂わすあの人の許へ。

 やっと帰ってきたのだ。

 僕はついに帰ってきた。

 もう絶対に、二度とここを離れまい。

 誰が何と言おうとも、断じて金輪際、彼女の傍から離れまい。

 そして僕たちは、今生が続くかぎり、何十年――否、とこしえにここに在る。

 ああ、何と美しい姿なのか。

 僕の妻は、何と美しい人であるのか。



【ただ恋しきは君の香り――了】

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ただ恋しきは君の香り 葉城野新八 @sangaimatsuyoshinao

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