ただ恋しきは君の香り

葉城野新八

(一)

 拝啓

 このお手紙が届くころにはきっと、そちらでは厳冬が明け、春まっさかりになっているのでしょう。

 おかわりはございませんか。私は元気に女学校へ通い、壮一郎様の妻として恥ずかしくない婦女となれますよう、勉学につとめております。女学校の先生が満州の桜も美しいと仰っておられました。いつの日か私も、ご一緒に愛でてみたいものです。

 そして次はいよいよ、女学校最後の年となります。悔いが残らぬよう、しっかり学びたいと心に決めております。

 たびたび機会をみつけては、壮一郎様のお宅へお邪魔いたしておりますが、お父様お母様ともにお変わりなく、お健やかであられます。どうぞ万事ご安心のうえ、お国のためご存分にお奮いくださりませ。

 書きたいことは尽きません。どうして葉書というものは、かように小さいものでありましょう。またお便りを申しあげます。

                 敬具

 昭和十八年二月十一日

             菅花響子

栗田壮一郎様



  ※ ※ ※


「栗田、お前また、許婚からの手紙を読んでいるのか」


 はたしていつからそこに居たのか。

 僕の手許にある葉書をしげしげとのぞきこみながら、同室の笹原謙吾が、うしろから突と声をかけてきた。はずかしさと腹立たしさを同時におぼえ、奴の視線から葉書を遠ざける。


「貴様、不意打ちに他人の信書を読むとは卑怯な奴め」

「何を言うか。卑怯者呼ばわりをするとは、断じて聞き捨てがならない。さっきから人が話しかけているというのに、さっぱり気付かなかったのはそっちのほうだ。だから迂闊だったお前さんが悪い」


 ニヤリと笑ってから僕の肩をトンと叩くと、椅子へ座り背伸びをさせる。


「ところで笹原、いつから部屋にいた」

「はて、いつだったか。お前が葉書の匂いを嗅ぐまえぐらいから――」

「や、やめろ」


 笹原は狼狽する僕を見て、こらえきれなくなったように噴きだす。呵呵と腹をかかえて大笑いをしたのち、茶を碗に注ぎ差し出してくれた。


「まァま、ひとつ落ちつけ。知ってのとおり、俺も幼な妻をもらったばかりでここへ来たから、お前の気持ちはよくわかるつもりだ。何をはずかしがる必要があろうか」

「フン、卑怯者の情けはいらん」


 僕は喉につかえた苦々しい心地を、ぬるくて薄い茶で飲みこみ、濁った溜め息を吐いた。

 この笹原という男は、熊本の出身で学校こそ違ったが、同期入隊で同じ年の十八歳。僕が奥州の出身ゆえ、土地によって気風が違うから余計にそう思うのだろうが、うらやましくなるほど明るく朗らか、人づきあいが上手い。

 怖いもの知らずというべきか、あるいは無茶というべきか、隙あらば常に機をうかがうひどい悪戯好きで、嫌いな上官の靴に大きなムカデをしのばせたことすらある。もれなく、同じく靴磨き当番だった僕も、手痛い指導を受けるはめになったのであるが。

 ところが笹原は、なおも愉快げに「おい見たか、あの時の顔。情けない声をだしやがってざまを見ろだ」と言ったもので、僕は「仕方のない奴め。金輪際やるなよ」と呆れて笑った。同僚たちは「よくやった」と手をたたき賞賛してくれたもの。

 笹原は背もたれから身を起こし、めずらしく真面目な顔でたずねてくる。


「栗田、試験のヤマは見えたか」

「おう、先輩方に昨年の傾向をうかがったから、すでに目処がたった」

「流石である。なァ、俺にも教えてくれ」


 そうくるであろうと読んでいた。笹原が真顔になるのは、だいたいこんな時ぐらいだ。


「貴様、自分でやるつもりはないのか」

「水くさいことを言ってくれるな。貴様と俺とは同期の桜。畢竟、共に散るためには、まずもって共に咲かねばならないであろう」

「詭弁屋め」

「ハハハ、そう言わずにどうかたのむ、な」


 笹原は手を合わせて懇願し、人なつっこい顔で笑う。見捨てるには忍びなく、放置できなくなる顔だ。

 まるで僕は、ばくち打ちの夫をゆるしてしまう奥方のような気分すら覚えたものだが、数日かけてまとめてあった予想問題集の帳面を「次回はちゃんと自分でやるんだぞ」と放り投げてやった。


「おお、ありがたや、お代官様、栗田様。どれどれ――ほう、なるほど。これが来るか。そうかァ」


 僕はあきれて苦笑まじりに小さな溜め息をつき、窓の外でそよそよと淡くゆれる桜の花を見やった。

 満開――

 ひらりちらりと、毎秒幾寸かで漂う花びらが、窓を通りすぎてゆく。最近は強い風が吹いていなかったから、まだまだ楽しめるだろう。

 あの人――響子がいる故郷の桜は、もう散ったころであろうか。

 手紙では元気だと書いてくれているけれど、それは本当だろうか。一昨年末に米英と開戦して以来、本国では食料や物資が急激な不足傾向にあるとも聞く。

 響子は、お腹をすかせていないだろうか。また熱をだしてはいないだろうか。お金にこまっているようなことはないだろうか――考え出すととまらなくなってしまうから、自らの思考に一区切りを打つ。

 父が買ってくれた重厚な漢和辞典の表紙裏に、彼女からの手紙を戻し、ふたたび昇進試験の勉強へ没頭した。

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