(十)

 産声をあげてから十七年しか経っていない私のみじかき今生に、突としておとずれた結納という名の慌ただしい一日。短距離走のようにドンと号砲が鳴って、あれよあれよというまにおわった。仙台へ戻る壮一郎さんを見送ったあとは、まるで夢まぼろしでも見ていたかのように、それまで過ごしてきた日常へと戻る。

 だがやはりどうにも、婚約をしたという実感がいまだ胸のなかに収まりきらず、自分のこととして実感がわかない。

 これまでどおり女学校の席で授業をうけ、休み時間に友人たちとおしゃべりをする時間があり、かたやこれから外国と戦をするため、外地へ赴任する将来の夫をもったということ。両者の隔たりがあまりにも大きすぎて、今や私の心身は二つの世界をせわしなくいったり来たりしている。

 婚約について、友人たちにはうち明けられないままでいる。ひとたび話せば、きっとみんながむらがってきて「どんな人かしら」「何をなさっている人」、あとは無邪気に「結納の夜はどのように過ごしたの」とねほりはほり尋問されるに違いないからで、だけど彼女らの好奇心を満たせるほど、突然押しよせてきた現実を私は咀嚼しきれていない。

 あの夜。

 うつらうつらとした意識をさまようなか、初めて男の人から手をふれられ、初めてみずから男の人の手にふれた。私の手では収まりきらないほど大きくて、たくましい骨太の指。夜明けが近づくにつれ、私は途中からやや大胆にもなってきて、彼が眠っていることを確かめてから思いきって太い腕のうえに頭をのせてみたところ、トクントクンと力強く波うつ鼓動を感じた。

 てっきり、あの夜にそうなるものだと身構えていたから、じつはあらかじめ早久に要領をわざわざ聞いていたというのに、ちょっとばかり拍子ぬけもした。

 私に女としての色気が足りていなかったからか、田舎くさい小娘めと嫌われたのであろうか、はたまたまさか別に意中の人がいたのではないか――などなど、とりとめもなく勝手なことを考えてみたが、二三日したら徐々に落ちついてきて、やっと彼の思慮ぶかい意図に気づいた。

 ああ、彼は、女学生である私の立場をおもんぱかってくれたのだと。そしてまた一方、命の危険がともなうお仕事へ、これから出向かれるのだということも。

 どうして満州への赴任を志願なされたのか、ついぞたずねられずにいたが、話しているうちになんとなく覚ることができた。そもそも結納をむかえる以前の私は、あまりにも暢気がすぎた。自分のことばかりに精一杯で、世の中のことを知らなさすぎたのだ。

 彼と出会ってから、私の視界と世界観は大きくかわった。その目をもってあらためて新聞をながめ、ラジオに耳を傾けてみれば、自分たちが生きている当世は決してそんなに先進的でもなく、愛にあふれた薔薇色の世界などでもないと容易に知れる。むしろどちらかといえば、いまは神様がお隠れになった時代なのかも知れない。

 つい先日まで、勇ましく戦で散華したどこかの若者や、事件の犠牲となった何百何千人の記事を読むたび、講談の英雄譚や体育大会の結果を知る心地で遠い物語のようにどこかで思っていた。

 でも今はちがう。

 いまは休み時間のたび、飽きもせずキャッキャとさわぐ同級生たちのほうが遠い存在で、わが夫となる彼の現実のほうが近く感じられるのだから、つくづく女とは不思議なものだと思う。先週までたがいのことをよく知らなかったというのに、一晩語らってともに過ごしただけで、彼がこの世のすべてのように思えてしまう。

 一秒一分一日が過ぎるたび、彼といた時間が遠ざかってゆく。するとますます、顔を見たくなってしまう。六日後、彼はいよいよ満州へ発つことになる。次に会えるのは、少なくとも二、三年先になるだろうと言っていた。

 会いたい――

 せめてもう一度だけ。

 ただただ会いたい。


 ※ ※ ※


 六日後。

 またしても急遽きまったことながら、なんと、もう一度会えることになった。汽車待ちをする出発前の三十分から一時間弱ではあるけれど、仙台駅での面会が家族にかぎって許されたと、栗田家へ速達郵便のしらせが彼から届いたのだ。栗田のお父さまより「行きますか」と確認があったので、すかさず「かならず行きますッ」と即答した。

 当日の夜あけまえ、朝いちばんの汽車にのり、栗田のご両親とともに仙台へむかう。列車のなかはたいへんな混雑であったが、お父さまがなんとか二つの空席を確保して、私とお母さまを座らせてくれた。

 道中あらためて知ったことであるが、おふたりとも気持ちのお優しい方で常に私の身を心配してくださり、なるほど壮一郎さんの控えめでありながら先まわりをしてくれる気質の源泉は、こちらであったのかと思う。

 いざ仙台駅へ到着してみると、これから戦地へ赴く兵隊と見送りの家族でごったがえしていた。まっすぐに歩けない。二、三歩進むたび対向する人と肩がぶつかってしまう。三人ともここまでひどい人混みは初めての経験だったから、はぐれないようかたく手を結んでやっと改札をぬける。

 その先にあるのも人人また人。はたしてうまく壮一郎さんとおちあえるのだろうか、「このまま会えずに出発時刻になってしまったらたいへん」と不安をつのらせていた。

 ところが指定された待ち合わせの場所に立っていたら、彼は周りよりも頭ひとつぶんだけ抜きでているので、すぐに見つけられた。にわかに鈴と胸が高鳴り、「お父さまお母さま、いましたッ」と指をさす。さっきまで心にたちこめていた鈍色の暗雲が嘘のようにぱっと吹きとんだ。

 彼は見るからに重そうな大きな荷物を背負っているというのに、表情はどこか希望にあふれて明るい。すでに心は満州へでもいっているのであろうか。

 結納の日以来、せつせつと再会をねがっていた私の気持ちを知りもせず、少し腹だたしくもあったが、お父さまやお母さまよりもまっさきにこちらへやって来て「どこも人が多くて大変だったでしょう。お疲れではないですか」と気づかってくれたので、そんなことはすぐに忘れた。

 それから四人は駅の待合室へうつり、他愛のない話をする。つぎからつぎへと、みんなが思い思いに言いたいことを話すので、何についてどう話したのか定かではない。

 たしか私は、


「きっとどこへ出しても恥ずかしくない立派な妻となりますから、必ず私を嫁に迎えてください。何年でもかならずお待ちしております」


などと、あとから振りかえってみれば顔から火を吹いて暴れだしてしまいそうなことを、臆面もなく力説してしまった。そのたびに彼は、私の目をまっすぐ見て「はい、必ず」「私もその積もりです」「お約束いたします」とうなずき、力強く手をにぎってくれた。

 彼は先日約束していた写真を私だけでなく、引き伸ばして立派なアルバムに収め、お父さまとお母さまにも渡す。口が悪いお父さまは、


「ほう、立派な写真だ。これで万が一のときも安心、これを遺影にして盛大な葬式をしてやるから安心せよ」


などと笑えない冗談を言ったので、私とお母さまは思わず、


「晴れの門出になんということを言うのですか」


と二人で真剣に怒った。

 あとは私がつめてきた重箱のお弁当を広げ、四人で食べる。彼は玉子焼きをモリモリと口へはこび、すべてきれいに平らげてくれた。

 まるでどこかの後楽地へきたような気分。もしもこの世に戦なんてものがなくて、彼が兵隊でなければ、こうしてみんなで一緒に花見へでかけたであろうか、毎朝お膳をならべて朝餉を食べたであろうかと、かぎりなく妄想にちかい願望を想う。周りは同じようにお弁当を囲む人ばかりでとても騒がしかったけれど、とにかくあたたかくて、たのしくて、後にも先にも思い出ぶかいひとときだった。

 おそるおそる、ちらりと時計を見ると、あっというまに四十五分が過ぎてしまっている。上役の人が待合室へやってきて、


「そろそろ、各自出発の準備をするように」


と言い残して行く。その方の傍には、おそらく奥さまと十歳にも満たない男の子と女の子が、目を真っ赤にして父の顔を見あげていた。

 駅構内では人がとても多いから、家族はホームまで出て見送ることができない。それにあまりまとわりつくと彼の恥になってしまうから、自制も必要だ。

 私は道中で食べられるように用意してきたお弁当二食と、お気にいりの和歌をしのばせた八幡さまと妙見さまのお守りをわたし、


「古今東西の神さまへ壮一郎さんの武運長久を毎朝毎晩お祈りしています」


と伝えたのち、みんなそろって万歳三唱をして晴れやかに送りだす。

 涙はながすまい。

 なのにそう思えば思うほど、涙があふれ出そうになる。

 なにくそ、決してメソメソと泣くものか。

 戦地で彼が思いだす私の顔は、いつも笑顔でなければならない。そうでなければ後顧の憂いが生じ、そのお志とご覚悟を惑わしてしまう。


 万歳、万歳、万歳――

 万歳、万歳、万歳――


 大声をだすのは得意なほうでもないのだけれど、いずれの家のご妻女にも負けぬよう、この時ばかりは喉が張り裂けんばかりに声を張りあげ、両手をめいっぱい高くかかげる。

 彼は踵を鳴らし背すじを品とのばして、かたい敬礼をさす。涼やかに「では、いってまいります」と白い歯を光らせ微笑んでから、大きな体をひらりとひるがえし、隊列のなかへ颯爽と戻っていった。

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