36:俺と彼女と握りしめ合う手
敦子と水着を買いに行った帰りだった。
電車の中でとりとめのない話をしていた。買った水着のこととか。隅田川の花火を見に行ったときの話とか。バイトの話とか。夏休みの宿題の話とか。少しだけ、将来の話とか──。
「高校生で海にいくのもこれが最後かもね」
なんて敦子が言うものだから私は目を丸くした。
「どうしたの? 急に」
「だってさー」
ドア横の手すりにもたれ掛かりながら、敦子は電車の窓の外から流れていく東京の町並みに視線を向ける。
「来年は私たち受験生なワケじゃん? 流石に遊んでる余裕ないと思うし」
「そうかなぁ……?」
「そうだと思うよ? よくわかんないけどさ。でもそしたらさ──」
窓の外は既に夕暮れも深くなり、遠くの入道雲が緋色に染まっていた。それを眺めながら、私に視線向けず敦子は言う。
「私たちもきっと離ればなれだよねー。やばくなーい?」
「────」
きっとそれは何気ない言葉だったのだと思う。彼女にとっては世間話のひとつで、一時間後には忘れているような話。
「──そっか、そうだよね」
でも、私はなぜかその話にショックを受けていた。それが悟られないように私は精一杯笑って答える。
「敦子。もしかして寂しいのー?」
「んなわけないっしょー」
おどけながら言う私に視線を向けながら、敦子は同じように笑った。
「たださー、同じ大学同じ学部なんてことないだろうし、卒業後はみんなバラバラなんだろうなーって思っちゃってさ」
「大丈夫! 私たちズッ友だよ」
「やかましいわ。あとそれ死語だから」
二人して笑いあう。
敦子はどう思っているかわからないけれど、私は胸に芽生えた小さな不安をごまかすように。
敦子とは高校に入ってからの友達だ。一緒に買い物いったり、遊んだりはするけれど、親友と呼べる友達というわけでもない。
卒業してそれぞれ別の道に進んだら、次第に連絡を取らなくなる仲かもしれないし、案外長く続く仲かもしれない。
でも確かなことは、この関係はきっと永遠ではなくて──いつか終わりが来るということ。
「お、着いた着いた」
いつの間にか電車は敦子の到着駅についていた。
「じゃあね響花。明後日遅れんなよー?」
「敦子こそ寝坊しないでね」
他の降りる客に紛れて敦子が電車を降りていく。
私の到着駅はもう少し先だ。
電車のドアが閉じ、敦子がいた場所に陣取りながら窓の外を──夕焼けの町並みを眺める。
夏の夕暮れはなにか不思議だ。祭の後のような一抹の寂しさを感じる。私の心に生まれた寂しさも、たぶんこんな景色だからだ。
離ればなれ、か。
別れはいつかやって来ることも、そういうものが突然来ることも、私は両親の死から知っている。
私と光太郎さんはいったい何時まで一緒にいられるのだろう。
それは遠い未来なのかもしれないし、割りと近い未来なのかもしれない。
でもそれは多分、いつかはやって来るんだ。
小さい頃はなんだか色んなものに囲まれていたような気がするのに。いつの間にかみんな離れていってしまう気がする。
ふと、自分の手のひらを見つめる。
小さな手だと、我ながらに思う。
こんな小さな手のひらじゃ、色んなものがすり抜けていくような、そんな錯覚を覚える。
…………小さく、私はため息をついた。
こんな顔、光太郎さんには見せられないよね。
何をブルーになっているのか。
それはきっと、こんな夏の夕暮れのせいだと私は思った。
◇ ◇ ◇
「おやすみ」
「ああ、おやすみ」
今日も一緒のベッドで私と光太郎さんは横になる。いつも一緒に寝ているけれど、手を出されないのが不思議だ。
私って魅力ないのかな……。
きっとそんなはずはないと思っていたが、だんだん自信がなくなってくる。
じっと見つめていると、光太郎さんが視線に気がついたのか、つむっていた目を開いて私を見た。
「なんだよ」
「ううん」
私は苦笑する。
「光ちゃんは光ちゃんだなって」
「なんだ、それ」
光太郎さんも私に合わせて苦笑いを返す。
シングルベッドで二人で寝ているものだから、どうしても向かい合う形で寝ることが多い。
そうしていると自然と手と手が近くなる。
光が落とされ、暗い部屋のなか、暗闇に慣れてきた私の目がその手をとらえる。
「……寝ないのか?」
「……うん」
なんだかまだ眠る気になれない。
「光ちゃんは寝ないの? 明日も仕事でしょ?」
「まだ寝る気になれなくてな」
「光ちゃんもなんだ」
「も、って響花もかよ」
光太郎さんは天井に視線を向けると、
「起きるか?」
と聞いてきた。それに私は「ううん」とわずかに首を振って答える。
「このままでいいよ。むしろこのままがいい」
「……そうか」
光太郎さんは顔を戻し私に再び視線を戻した。
「…………」
なんだか見つめられるのが恥ずかしくなって、私は視線から逃れるように光太郎さんの手をとる。
「光ちゃんの手、大きいね」
「普通だろ。男の手なんてみんなこんなもんだ」
「えー? そっかなー?」
光太郎さんの半開きの手を広げて私の手を重ねる。
「お、ひと関節ぐらい違う」
「響花の手は……細いな」
「そう? 普通だと思うけど」
重なった手から光太郎さんの温もりを感じる。
少しごつごつとした男の人らしい指に絡めるように、私はその手を握った。
いわゆる恋人繋ぎというやつだ。
「響花……?」
「えへへ」
目を丸くする光太郎さんに私ははにかんだ笑みを向ける。
ためらいがちに光太郎さんの指が閉じられ、きゅっと私の指の間に挟まっていく。
決して力強くはない握り方だ。まるで力を込めるのを恐れるような、壊れ物を扱うかのような優しい握り方。その手から伝わってくる不器用な感情に、私は目を細める。
だから、私は彼の手を強く握りしめた。
※ ※ ※
小さな手だと俺は思った。
強く握ってしまえば折れてしまいそうな、そんな危うさを感じる。
それとは別に、女の子特有のふわりとした柔らかさに、なんだかむず痒さを感じる。
そしてもうひとつ感じるのは──安心感だった。
その感覚は今までの俺には無く、不思議なものだった。
「なんだか、こうして握りしめてると安心するね」
響花も同じことを考えていたのか、はにかみながらもそう口にする。
「……ああ」
短い返事の代わりに、少しだけ強く彼女の手を握りしめた。
少し恥ずかしげに笑う彼女に、俺もなるべく優しい視線を返す。
自分ではよく分からないが、俺は今、せめて笑えているだろうか。彼女のようにとはいかないまでも、多少は険が取れるぐらいには。
思えばこうやって誰かに優しい視線を向けることなど、俺にはあっただろうか。
あったかもしれないし、もしかしたら生まれてはじめてかもしれない。そんな事を考えるくらいには、昔のことだったように思う。
手を握りあって見つめ合うこの雰囲気は、ともすればむず痒いほど気恥ずかしいものであったかもしれないが、なんだか心地よさすら感じていた。
いい雰囲気なのではないかと思う。
このまま──このまま、告白してしまってもいいのではないかと思うくらいに。
俺たちの関係をもう一歩踏み込んだものに、今なら出来るのではないかと思えた。
「きょう──」
だから俺はその名を呼ぼうとして────
「────」
その目から、ゆっくりと流れ落ちる雫を──涙を見て、言葉を止めた。
────違う。
「あれ……?」
俺の驚く目を見てから、響花はようやく自分が泣いていることに気がついたのか、自分の目元をぬぐって不思議そうな顔をした。
しかしそれでもポロリ、ポロリと彼女の目から涙は止めどなく流れ落ちていく。
「あれ? おかしいな。別に悲しくなんてないのに……」
彼女はちょっと困ったように笑いながらその涙を拭う。
嗚咽をあげるでもない、静かな、静かな涙だった。
「なんで私、泣いて──」
その彼女の顔を隠すように俺はその頭を自らの胸に抱えた。
「光太郎さん……?」
「泣きたいときは、泣けばいい。こんなおっさんの胸でよければいくらでも貸すから……嫌か?」
「ううん……」
顔を隠すように響花は、俺の胸に更に顔を押し付ける。
その黒く柔らかな髪を撫でながら思う。
違う、と。
告白とか、想いを伝えるとか、それは違うのではないかと、彼女の涙を見たときに思った。
多分それだけではダメなのだ。
なんというか、恋人などというあやふやな関係ではその涙は止められないのではないだろうか。
力強く握られた手から、そんな事を感じる。
誰もが、今この時が永遠に続かないことを知っている。
彼女自身、きっと家族を失うことで永遠なんてないことをわかっている。
俺たちの関係が、いつ終わるかもわからないあやふやなものだと気づいている。
握り合う手の安心感の裏側に、失うことの怖さがあることを無自覚に悟ったのではないかと、あの涙を見て思う。
その不安を拭うために俺はどうすればいいのか。
「……すぅ」
……いつの間にか、響花は寝てしまったようだ。涙のあとが残る顔は、今は安らかな寝顔になっている。
その寝顔を見ながら考える。
俺は彼女に何をしてあげられるのだろう。
俺にできることは──。
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