01:俺と彼女の最初の夜
「はあ?」
最初何を言われているのかわからなかった。そもそも状況すらよく飲み込めていない。
俺はフラフラと踏切内に入ろうとして……この少女に止められた、ようだ。そこまでは良い。
だが泊めてだと?
「──嫌だ」
彼女の言葉を認識すると同時に俺はにべもなく告げて、少女の手を極力優しく振りほどく。
呆気に取られる少女を横目に俺は歩を進める。
「ちょ、ちょっとちょっと!」
ちょうど踏切を越えたところで少女が回り込んできた。
「可愛いJKからのお誘いだよ? 据え膳食わぬは男の恥だよ?」
俺は冷めた目付きで目の前の少女を見る。
「ね! おじさん! サービスするからさっ!」
「……サービスって、何のサービスだよ」
「え? ええっと……」
そう言うと少女は夜でもわかるくらいに真っ赤になって目を逸らした。
俺は首に手をやりため息をつく。
「悪いことは言わないから、家に帰りな」
努めて諭すように優しい口調で言い放ち、俺は彼女の横を通り抜けた。
一人になってしまえば目の前はいつもの、見慣れた景色だ。
その夜道を歩きながら、ふと思い返す。
そういえば俺は彼女に助けられたのだろうか。それとも助けられてしまったのだろうか。どのみち俺の自殺は未遂に終わってしまったし、もう一度同じことをしようとも思わなかった。そう考えると助けられたのだろうなと思う。一応礼ぐらいは言っておくべきだったかなと、俺は来た道を振り返った。
「…………」
ブレザー姿の誰かが曲がり角の陰に隠れたのが見えた。
……まさか、付いてきてるのか?
見間違いだと思い──いや思い込み、俺は再び歩き出す。
気を付けて耳をすませば、自分の靴音とは別の靴音が後ろから聞こえてくる。
明らかに付けられている。
俺は真っ暗な空を見上げ、諦めるように息を一つ吐く。
振り返ればやはりあの黒髪の女子高生が後ろにいた。俺が振り返ったことに気づき慌てて周りを見渡して、電柱の陰に隠れようとする。今更遅い。
「もうバレてるから。出てきなよ」
そう言うと少女は顔を綻ばせて近寄ってきた。
街灯の下。少女の姿が浮かび上がる。俺の目線の高さぐらいの身長……150cmぐらいだろうか。昨日も見た紺のブレザーに、白いブラウスと襟元に引っかかっているだけのチェックのリボン。ひざ上20cm程ののグレー色のプリーツスカートとそこから覗く細い足、黒のハイソックスにブラウンのローファー。肩まで伸びた黒色の髪は夜だというのに街灯の灯を反射し、艶やかだとわかる。淡いピンクの唇はリップを塗っているのだろうし、血色とは違うほんのり桜色の頬は薄く化粧をしているのだろう。パっと見は知らないおっさんに声をかけることもなさそうな清楚そうな子だ。
だが、好奇心旺盛そうな大きな瞳が清楚そうな印象を払拭させ、その瞳だけで溌溂さを醸し出している。
昨日踏切を越えようとした少女の姿とはかけ離れた印象だった。
「……帰れって言っただろ?」
窘めるように言うと、少女は視線を逸らし唇を尖らせる。
「だって終電なくなっちゃったし」
「そこら辺のホテルかネカフェにでも泊まればいいだろ」
「……あー、えっと……お金なくなっちゃって」
少し迷うように淀みながら、彼女はそんなことを言う。
「……つまり、お金が欲しい、と」
「あー、まあ、そんなとこ?」
これはつまり、パパ活って奴か?
「なんで俺なんだよ」
「それは────」
少女は俺に一歩近づき見上げてくる。その目には悪戯っぽい色が浮かんでいる。
「だっておじさん真面目そうだし。これでも慎重に選んだんデスよ?」
その目を冷めた瞳で見返しながら俺は内心諦めの息をつく。
こんな所に女の子一人置いておくわけにもいかないし、何より踏切の事を思い返せば彼女は命の恩人なのだろう。多分、一応。
「……一晩だけだぞ」
「やった。ありがとっ!」
そう言うと少女は花開いたかのように笑顔になって見せた。
玄関を開け、明かりを点ける。
「お、お邪魔しまーす」
恐る恐るといったように少女が後ろから入ってきた。
靴を脱ぎ散らかす俺とは対照的に少女は丁寧にも靴を揃えている。それを見てると少女はなんだか照れ臭そうにはにかんで見せた。
「わっ」
キッチンのシンクに溜まった洗い物に少女がちょっと引く。俺はそれを無視して部屋の明かりを点け、ジャケットを脱いでハンガーラックに放り投げた。後ろからついてきた少女が部屋を一望して「うわー」と声を上げている。
……さすがに女の子の前で服を脱ぐのはまずいか。
「男の人の部屋ってこんなんなんだね」
「なんだ。野郎の部屋は初めてか?」
「うん。なんか不思議な匂いがする」
「……素直に臭いって言っていいんだぞ」
「そ、そんなこと言ってないじゃん!」
少女は深呼吸するように息を吸い込む。
「……──うん、私嫌いじゃないよこの匂い」
「……そ」
俺はタオルとパンツと部屋着を持って部屋を出る。
「あれ? どこいくの?」
「風呂」
「あー……うん。そっか。そうだよね」
何故か一人納得しているようだった。
脱衣所のドアを閉め、シャワーを先に出しながら服を脱いで洗濯機に服をひっかけて浴室に入る。少し熱めのシャワーを頭から浴びながらふと思う。女の子とはいえ見ず知らずの人間を家に上げて放置とは、財布盗まれて逃げだされても仕方ない。無警戒にもほどがあるなと自嘲する。
まあその時はその時でいいかと、俺は諦める。そんな気にして当たり前のことが考えるのが面倒くさい程疲れていた。
シャワーを浴び終え、着替えて部屋に戻ると少女は正座をしていたものの、落ち着きなく周りをきょろきょろと見回していた。借りてきた猫にしては騒がしい。その目が俺とかち合い、猫みたいに驚いたようにピクリと動く。
「あ、お、お風呂早かったね」
「ん? そうか?」
とりあえず何か漁られていたわけじゃなさそうで少しほっと胸をなでおろす。
「じゃ、じゃあ……私もお風呂貰うね」
「ああ。あー……ほれ。バスタオル」
「あ、ありがと……」
バスタオルを受け取り、少女は脱衣所に消えていく。
その姿を見送って、クッションを枕代わりにしてベッド横の長座布団に寝転がった。
そこでようやく俺は長い息を吐きだす。
「…………疲れた」
ポツリと呟いた言葉はシャワーの音に紛れて消えていった。
妙なことになったと思う。
独身アラフォー男の部屋に女の子が一人で泊まろうとしている。そんなシチュエーション十年前の俺だったらさぞ胸をときめかせていただろう。
彼女だって子供じゃないのだから男の部屋に泊まりに来るということがどういうことか理解しているだろう。わざわざ挑発じみた言葉までかけてまで男の家に上がり込んできたのだ。狼の口の中に飛び込んできた赤ずきんのようなもので、あとは美味しく頂かれちゃうだけだ。
だが──、
面倒だな……と一番最初に思った。
情事の快楽よりも疲労感が勝り、セックスという行為そのものに面倒臭さを感じている。
甘い言葉をかけて、愛撫して、挿入して、腰を振って? 嫌だ嫌だ、面倒くさい。疲れている上にそんなことしたくない。
苦い笑いが漏れ出る。ついに生物としての本能まで枯れ果ててしまったらしい。
──人として終わっている。
カチャリと脱衣所のドアが開く音がした。
「お、お風呂いただきました……」
瞼の重さを自覚しながら視線を向けるとバスタオル姿の少女がおずおずと部屋に入り俺に近づいてきた。
バスタオルを支える手は震えていて、俺を見る目は怯えと、ほんのちょっとの覚悟が見て取れた。風呂上がりのせいか、それとも恥ずかしいのかバスタオルから覗く白く小さい肩はほんのり桜色に染まり、それ以上に頬は真っ赤に染まっていた。
寝転ぶ俺の横に少女は座る。
「あの、その……優しく、してください…………」
震える手がバスタオルの結び目をほどく。
少女は薄緑色のショーツしか身に付けていなかった。シーリングライトの下に白くて瑞々しい裸体が露わになる。小柄な印象を受ける身長とは裏腹に張りのある乳房はちょっと持て余しそうなほど育っているし、そこから続くくびれとお尻の曲線は少女を女と意識させるには十分だった。
綺麗で可愛らしい体だと思った。
震える肩と恥ずかしそうに伏せる目線を見れば、勇気を出してくれたのだろうということも伝わる。
だが、悪いが──。
俺はため息をつきながら立ち上がり、カーテンレールにひっかけてあるTシャツを手に取り、少女に放り投げた。
「服着ろ。湯冷めするぞ。あともう寝ろ。ベッド使っていいから」
「……え?」
「俺は寝る」
そう言って俺は電気を消して長座布団に再び寝転がり、少女に背を向ける。
「…………し、しないの?」
「しない。そもそもヤるなんて最初から言ってない。俺は疲れてるんだ。寝かせろ」
「な、なによそれ!」
怒気を含んだ彼女の声に俺は瞼を閉じながら告げる。
「いいか? 俺は裸の年下少女に手も出せないヘタレ野郎だし、お前はタダで泊まれる場所を見つけたラッキーな子だ──それでいいじゃないか」
「………………」
「……じゃ、おやすみ」
そう言って俺は本格的に眠りに入る。
そういえば────。
誰かにおやすみなんて言うのは何年ぶりだろうか────……。
※ ※ ※
「……変な人」
暗闇の中私はベッドにぺたんと座りながら下で眠るおじさんに目を向ける。時折いびきをかいているのを聞く限り本当に眠ってしまったようだ。
正直信じられない。というか手を出されないのはショックだった。男の人に泊めてほしいと言った時点でエッチなことをされるのは覚悟をしていたし、そういうものだと思っていた。
……私そんなに魅力ないのかな? 少しは自信あるつもりだったんだけどなぁ。
おじさんがくれたぶかぶかのTシャツ姿の自分の体を見渡し首をひねる。自分がやはり子供だからだろうか。それともこの男の趣味がちょっとアレな方向だったりするのだろうか。
わからない……。
でも、だから──私は今ここに居る。
私は昨日、あの踏切で自殺を図った。このおじさんとは違うおじさんに止められ、その時目の前にこの人がいた。
死のうとした私より、死にそうな、吸い込まれそうなほど昏い瞳をした人だと思った。
その目を見た瞬間、私は自分の時間が止まったかのような衝撃を受けた。
どうしてそんな目をしているのか。なんでそんな感情のない目で生きていられるのか。
興味が湧いた。その疑問を知りたいと思った。
だから今日は待ち伏せるようにおじさんを待って──、
そうしたら、死のうとするし……。
引き留めるためにとっさに泊めてなんて口走ってしまった。もうそこからは後に引けなくて勢いだけでここに居る。
……ベッドの上から眉根を寄せるおじさんの寝顔を見ている。
寒いのかなと思い、私は壁際に寄せられた毛布を手に取っておじさんの体にかけてあげる。しかし、おじさんの眉根は変わらず歪んだままで、きっとよくない夢を見ているのだと思う。
「…………ふぁ」
欠伸が出る。流石に私ももう眠い。布団を被って枕に顔を埋める。
知らない家の、知らない人の匂い。けど、意外と不快ではなかった。
あっさりと私の意識は吸い込まれるように、闇に落ちていった。
※ ※ ※
────目覚ましの音が鳴っている。
起きなければと意識が浮上し──しかし、もう少し寝ていたいという逃避に近い欲が覚醒の邪魔をする。
「おじさん、朝だよ」
知らない声が聞こえた。その声に驚き俺は飛び上がる様に起き上がった。
「うわっ、びっくりした」
見慣れぬ黒髪の女子高生が目の前に座っていた。
いや……そうかと昨日の記憶を思い出す。この少女を泊めたのだった。
既に少女は昨日与えたTシャツから制服に着替えており。ブレザーの上着だけがベッドの上に放置されている。
少女は「よっ」という声とともに立ち上がると、締め切ったままだったカーテンを開け放った。視界が痛烈な白に包まれ、その眩しさに俺は目を細める。
「うーん──っ! いい朝だねぇ」
朝日に向かって少女はぐっと伸びをする。白いブラウス越しに少女の華奢な体の線が浮かび上がり、俺は不覚にもその稜線を美しいと感じてしまった。
それを気取られぬよう俺は立ち上がり洗面所に向かう。顔を洗い、歯を磨きながら手櫛で寝癖を直していく。
「ねーおじさん」
洗面台の鏡に少女の姿が写った。その顔は照れ臭そうに笑っている。
「お腹すいちゃった」
鼻からため息のように息を吐きながら、歯ブラシを咥えたまま俺は台所の戸棚からカ〇リーメイトを取り出し二袋のうち一つを少女に手渡した。
「え!? これ朝ごはん!?」
声を上げる少女をよそに俺は洗面所に戻り口をゆすぐ。
「嫌なら食わなくていいぞ」
「別に嫌ってわけじゃないけどさぁ……」
もう一つのカ〇リーメイトを開けて口に放り込みながら俺は着替えを始める。
「んん~っ!?」
後ろで変な声が上がる。見ればカ〇リーメイトを咥えながら少女が顔を真っ赤にしていた。なんと初心な反応だろう。だがだからと言って構っていられず俺は手早く着替えを済ませる。
口の中のものを嚥下しながら俺は鞄を手に取った。
「ほら、出るぞ」
「へ? も、もう!?」
目を丸くする少女をよそに俺は玄関に向かう。
玄関で待っていると少女が慌ててバッグと上着を持って駆けてきた。手にはまだ食べかけのカ〇リーメイトを持っている。
「ねぇおじさん。いつもこうなの? 朝起きて十分も経ってないんだけど」
「ああ。そうだよ。おじさんは朝ギリギリまで寝てたいんだ。それに男の朝なんてこんなもんだろ」
「えー? 朝はもっと余裕持とうよー。ご飯もこんなんだし」
「朝飯抜くよりマシだろ。ほら出た出た」
靴を履いてドアを開けて外に出てドアを開け放ったまま、少女が出るのを促した。少女はローファーのつま先を地面に叩いて足を靴に入れながらぴょこぴょこと玄関を出てくる。それを待って俺はドアを閉じ、鍵を閉めた。
ガチャリと音をたてて鍵が締まる。
……これで俺とこの少女の、何もなかった一晩の関係は終わりだ。
「ああ、そうだ」
一つ忘れていた。俺は財布を取り出し、万札を一枚少女に向ける。
「え……?」
少女は半ば茫然と俺とその万札を交互に見る。
「ほれ。これだけあればとりあえず帰れんだろ」
「ちょ、ちょっとこんなの私受け取れ────」
「金なくて帰れないんだろ?」
「──それは……そう、だけど」
言い淀む少女の手を取り、無理やり万札を握らせる。
「……じゃーな。ちゃんと家に帰るんだぞ」
そう言って俺は背を向けて歩き出した。
我ながら最低のことをしているなと思った。彼女にも何か事情があっただろうにそんな事は聞きもせず金だけ渡して解決した気になろうとしている。お前の事なぞ知らぬと突っぱねている。それでいいのかと俺の中の良心が俺を責め立てる。
だが自分の事ですら精一杯の俺にいったい何ができるというのか。期待されたとしても何も応えることはできない。大人なぞそんなものだと思いつつも、こういう時に子供に手を差し伸べられるのが大人なのだろうと自嘲する。だとすれば俺はこの歳になってもまだ大人に成り切れていないらしい。
アパートの階段を降りるときに見た少女の表情は能面のように無表情で、何の感情も読めなかった。
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