AIやプログラムを使って亡くなった人物の人格を再現する。サイバーパンク系の作品では良く見られる設定だ。脳の活動が電気信号によって営まれる以上、コンピューターが進歩すれば人間の精神ですら再現可能だ、というテクノロジーへの期待がそこにはある。本作でも亡くなった人物の人格を再現しようとするのだが、やり方はもうちょっとシンプルでクローン技術を使って、培養層の中で死者と同じ機能を持つ脳を育てようとする……うーんグロテスク。
そして本作で甦らせられるのが太宰治。言わずと知れた文豪である。未完で終わった彼の遺作『グッド・バイ』の続きを書かせようとするのが太宰復活の目論見であるのだが、この太宰、とにかく原稿を書こうとしない。それどころか自分の管理をする女性スタッフと心中未遂まで行う始末。
そんな脳だけとなった太宰と彼を担当することになった男性スタッフ(女性スタッフは太宰の心中に巻き込まれてしまうので)の物語。あの手この手で小説を書かせようとする男と決して手(?)を動かさない太宰のやりとりはコミカルで非常に楽しく、脳だけの太宰に振り回されてあれこれ愚痴ってばかりいる男の姿を見ているだけなのに、読んでいる内に人間・太宰治の魅力が伝わってくる内容に仕上がっている。
(「サイバーパンク的な近未来にひたれる作品」特集/文=柿崎 憲)
まず1行目が凄い。なんだそれは! そんなのSF以外には有り得ないし、この冒頭を見て、続きを読まずに引き返せる人なんかいる筈がないじゃないか。
本来ならグロテスクな素材のはずが、それと感じさせないユーモアと、再生された文豪の魅力に引っ張られながら、最後まで一気に連れていかれてしまった。
まるで、何をされたのか分からないぜ!ってやつだ。
きっと、努めて冷静に振る舞う主人公に感情移入するうち、読者の我々もまた同じように文豪の妖力に囚われてしまっているんだと思う。
私なら、そうだな……。完成の暁には玉川上水に流してあげるかも知れない。今の彼なら水の少ない今の川でも十分流れていけるだろうから。
最後に蛇足とは知りつつも、大庭葉蔵は「人間失格」の主人公の名前ということだけ付け加えておきたい。
私は太宰が好きではない。
作中でも主人公の後輩が言っていただろう。「軟弱な……」と。その軟弱さはどうやら死んでも治らなかったらしい。「馬鹿は死んでも治らない」という良い例ではないだろうか。
主人公は太宰に対して興味のない男である。しかし物語が終盤になるにつれ、「安眠」を妨げた詫びに彼のために何かしてやろう、という気にさえなっているのだ。
太宰は結局、男だろうが女だろうが籠絡してしまう「ひとたらし」であり、人に何かしてもらわないと生きていけない「軟弱」な男である。
そして人は思ってしまうのだ、「彼のために何かしてあげたい」と。
その「太宰治」という男の一端をよく表しているというだけでも私はこの作品を愛するに足ると思う。
なので是非とも太宰のその「ひとたらし」を好かない人に読んでもらいたい。
読後に「ああこいつはこういう奴だ」と嘆息したくなるだろうから。その嘆息をつくまでのクオリティの高さを味わってもらいたい。
この脳は、ずるい。
読み終わったあと、エゴって何だろうな、と哲学的なことを考えてしまいました。
文豪の未完の作品を読みたいとクローン脳を活用することは、ある意味エゴ(利己的)で、
主人公が仕事を終わらせたいと文豪を追い立てるのもエゴ(自己中心的)で、
文豪の脳が奮起するまで至る過程もやっぱりエゴ(自尊心)からで、
SFでありながらも、そんな思いの重なり合いが見えるヒューマンドラマでもある、そう思いました。
人間の姿をしていない先生なのですが、事あるごとのセリフや描写からはすごく人間性を感じます。
脳となっても夢を追うエゴ(自我)があるためなんでしょうかね?