Ⅲ 冥府下りの詩(1)

 その男は、エウロパの東方に位置する小国、トラシア公国の王子でした。


 彼はトラシアに古くから伝わる古代イスカンドリアの伝統楽器、竪琴リュラーの名手として知られ、一度ひとたび、彼が弦を爪弾けば人間はもちろん、森の動物達ばかりか木々や岩までもがその周りに集い、耳を傾けてはうっとり陶酔するほどの腕前でした。


 そんな音楽を愛する男には、エヴリーデという恋人がいました。


 雪のように白い肌に亜麻色の髪とハシバミ色の瞳を持ったそれはそれは美しい乙女で、貴族の娘でしたが高飛車な所は微塵もなく、卑しい身分の者とも気さくに打ち解ける、それはそれは優しい心の持ち主でした。


 男はそんな彼女を心の底から愛し、彼女もまた男のことを誰よりも愛しく思っていました。


 少々の身分違いではありましたが、愛し合う二人はお互いの両親を説得し、結婚を約束する仲にまでなっていました。


 ところが、周りも羨むほど仲睦まじかったそんな二人に、突然の別れの時が訪れたのです!


 それは美しい花々が咲き乱れる、春の野原で二人が遊んでいた時のことでした。


 色とりどりの野花で彩られた舞台ではしゃぎ踊っていた若き二人が、緑鮮やかな春草のベッドに倒れこんだその時、草叢に隠れていた毒蛇が彼女の腕に噛みついたのです!


 エヴリーデ! しっかりしろ、エヴリーデ!


 瞬時に猛毒が全身を駆け巡り、意識を失った彼女を抱きかかえると、必死に男は呼びかけました。


 エヴリーデ! 頼むから目を開けてくれ、エヴリーデ!


 ぴくりとも動かない彼女の身体を揺すり続け、何度も何度も男はその名を呼び続けましたが、そのまま彼女は二度と目を開けることなく、やがてその身体は時とともに冷たくなってゆきました……。


 そう。エヴリーデの魂はなんの前触れもなく、突然、冥府へと連れ去られてしまったのです!


 あまりにも唐突に訪れた彼女の死に、男や両親はもちろん、国中の者達皆が嘆き悲しみました。


 しかし、いくら悲しんでみたところで、死んだ彼女が蘇るわけもありません。


 たとえ涙が枯れることはなくても、皆はこの理不尽な運命を仕方がないものと受け入れることにしました。


 …………ただ一人、男を除いては。


 魔術に長けた高明な魔法修士を尋ね歩き、何処其処に賢者がいると聞けばそのもとを訪れ、男は冥府へ連れ去られた恋人を取り戻す術を狂ったように探し回りました。


 そして、男の執念が、ついにその方法を探り当てたのです!


 恋人の魂を冥府より連れ戻すその方法を!


 それは、古代イスカンドリアの時代から闇に隠れて存在する、ディオニュソス、あるいはバッカスと呼ばれる異教の神を祀る教団の密儀でした。


 生きたまま冥府へと赴き、冥界を司る神ハーデースに死者の魂の返還を嘆願する冥府下りの儀式です。


 父親であるトラシア大公の財を勝手に持ち出し、金にものを言わせて裏社会の情報を集めると、けして表に姿を現すことのないその教団までをも男は探し当てました。


 そして、さっそく繋ぎをつけると家を飛び出して教団へ入信し、身も心もすべてを捧げ、一生教団に奉仕することを条件として、その司祭の導きで冥府下りの密議を行うこととなったのでした。


 彼が連れて行かれたのはミッデラ海の沿岸、近づく者もないような断崖の下にある洞窟でした。


 ぽっかりと漆黒の闇色に染まる口を開けた、まるで地獄へと続いているかなようなその洞窟の中へ入れと、蒼醒めた顔の司祭は淡々とした口調で言います。


 無論、脚が戦慄き、歯の根が合わなくなるくらい恐ろしくはありましたが、その恐怖よりも彼女に一目会いたい一心が遥かに上回っていました。


 どこまでも地の底へと下ってゆく、一筋の光すらも射さぬ真っ暗な洞窟の闇を、松明の明かり一つを手に男は恐る恐る進んでゆきます……。


 どれほど歩いた時でしょう……それは永遠とも、あるいは一瞬のこととも思える時間でした。


 男の目の前に、大きな川の流れが姿を現したのです。


 地面の下にあるとは思えないような、海ほども川幅の広い雄大な流れです。


 暗闇に支配された地下世界だというのに、不思議とその川面は青白く光ってよく見えます。


 司祭から話を聞いていたので、それが現世と冥界とを隔てる大河ステュクスであることを男はすぐに悟りました。


 さらに歩を進め、その河岸まで行くと、そこには小舟に乗った長い顎髭の老人がいました。


 白い腰巻だけを身に着けた半裸の姿で、老人とは思えないほどその肉体は筋肉隆々であり、禿げた頭には恐ろしげな蛇を鉢巻にして巻いています。


 その老人こそ、このステュクスの渡し守、エレボスニュクスの息子カロンです。


 岸につけられた小舟に近づくと、男は古代イスカンドリアの銀貨を一枚、カロンに手渡し、さっそく対岸へ――冥界まで乗せて行ってくれるよう頼み込みました。


 その銀貨はステュクスの渡し賃だといって、儀式の前に司祭から持たされたものです。


 銀貨をカロンに支払うことで、死者はこの大河を舟で渡してもらうのです。


 ですが、このカロン、大変な頑固者であり、ステュクスの渡し場を守る者として、生者はけして舟に乗せてはくれません。


 当然、男にも太い筋肉質の首を横に振り、早く地上へ帰るがいいと軽くあしらいました。


 もちろん、男の方もそれしきのことで簡単に引きさがろうとはしません。


 彼は自慢の竪琴リュラーを取り出すと、エヴリーデへの想いを美しい曲に乗せて弾き語りました。


 すると、鳥獣や山川草木までをも魅了するその調しらべに、さすがのカロンも感涙を流して聞き入りました。


 そして、それまでとは一転して快く彼を自分の舟に乗せると、再びその演奏聞きたさにハーデースの館までついて行くと言い出したのです。


 カロンがついてくることは予想外でしたが、河を渡してくれるのならば文句はありません。


 太い腕の筋肉を軋ませ、大きな櫓を軽々と漕ぐ老人の舟はステュクスの流れを滑るように進み、男は無事に対岸へと渡ることができました。


 しかし、そこにはまた次なる難関が彼の道行きを遮ります。


 大きな黒い体に三つの獰猛な首を持つ、冥界の番犬ケルベロスです。


 ケルベロスは三つの首で激しく吠えかかり、涎塗れの鋭い牙を剥いてハーデースの宮殿への道を塞ぎます。


 ですが、男には鳥獣までが聞き惚れる竪琴リュラーの演奏があります。


 待ってましたとカロンも歓喜する中、男は再び竪琴リュラーを爪弾き、離れ離れになった恋人への愛を語り聞かせました。


 するとどうでしょう? それまで騒いでいたケルベロスが急に鳴きやみ、クーン、クーン…と悲しく情けない声をあげ始めます。


 彼の竪琴リュラー調しらべは、冥府の怪物までをも虜にしてしまったのです。


 そうしておとなしくなったケルベロスも引き連れて、男はなおも地の底にある冥界を進みます。


 途中、道を阻む者に出くわした場合にはその度毎たびごと竪琴リュラーを奏で、その相手ばかりか、その場にいた冥界の住人達も皆、涙を流して演奏に聞き入るとカロンやケルベロス同様、男の後について歩き出します。


 まるで、伝説に聞く〝笛吹き男〟の話ように、彼の演奏に引き寄せられてどんどんと冥界の者達がそのもとへと集まり始め、気がつけば大行列となっていた男の一団は、ついに冥界の神ハーデースの座する館へと到着したのでした。

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