Ⅲ 冥府下りの詩(2)

 けして地上の光が射し込まぬ地の底深くで、古代の神殿を髣髴とさせる石造りの巨大なその居館は、それだけで見る者の魂を縛りつけて放さぬような威容を誇っています。


 その前で立ち止まり、一息、大きく息を吐いて改めて意を決すると、ついて来た群衆をその場へ残し、カロンとケルベロスだけを引きつれて、男は館内へと入って行きました。


 内部はやはり古代の神殿と同じ造りをしていて、大広間を進んで行くと、すぐにハーデースの御前へと到りました。


 中央の祭壇に置かれた玉座には、黒い衣に白い羽の着いた〝隠れ兜〟をかぶり、手に二又の槍〝バイデント〟を王笏のように携えた、蒼白い不気味な顔色のハーデース神が腰掛けています。


 また、そのとなりには、彼の妃である黄金色の長く麗しい髪をした絶世の美女、女神ペルセポネーも同席しています。


 赤々と燃える火のような眼で彼を見下し、腹に響く威厳に満ちた低い声で冥府に来たその目的をハーデースは男に問います。


 それは冥府の番犬ケルベロスと対峙した時よりも恐ろしく、まるで蛇に睨まれた蛙のように身動き一つできなくなってしまう男でしたが、それでもエヴリーデのことを思い、ありったけの勇気を振り絞ると、これまで同様に竪琴リュラーを爪弾いて冥界の主に語り聞かせました。


 最愛の恋人を突然奪われてしまった理不尽さを……その事実を受け入れられず、気が狂わんばかりに嘆き悲しみ、彷徨い歩いた長き日々を……連れ去られた恋人の魂を取り戻すため、すべてを捨ててこの冥府へ下ってきたその冒険譚を……そして、その恋人エヴリーデを自分のもとへ返してほしいと、命をかけた演奏で男はハーデースに請い願いました。

 

 …………しかし。


 傍らで聞いていたカロンとケルベロスは相変わらず咽び泣いていましたが、懸命な男の願いもハーデースは一笑に伏します。


 冥界の王であり、死者の国を治める彼にとっては、愛する者と死別する人間の苦しみが少しも理解できなかったのです。


 ところが、それに対して彼の妻ペルセポネーは違いました。男の弾き語る悲恋の物語に涙を流して耳を傾け、誰にもましていたく心を揺り動かされます。


 じつは彼女も強引にハーデースの手によって冥界へと連れてこられ、その上、死者の食べ物であるザクロの実を知らずに口にしてしまったために、一年の内三分の一を地下の世界で過ごさねばならなくなった身なのです。


 男の懇願をとるに足らないくだらないものだと切り捨てるハーデースに、彼の演奏を聞いて絆されたペルセポネーは夫自身の行いを例に取り合ってくれます。


 自分だとて、恋焦がれる思いのあまりペルセポネーを地上から奪い去った事実を突きつけられると、ハーデースもようやくにして、恋の苦しみがいかに辛く、愛することがいかに尊いかに気づかされました。


 妻に諭された冥界の神ハーデースは、ある条件をつけて男の願いを聞き届けてやることにしました。


 すでに冥府の住人となっているエヴリーデを連れ、無事に地上まで帰ることができたら、彼女の命を蘇らせてやろう。ただし、その途中、後からついて行く彼女の方を一度でも振り返ったのならば、その願いは破滅的な最期を迎えるであろう……と。


 もちろん、一も二もなく男はその条件を了承し、念願であった恋人との再会を果たすことができました。


 ハーデースの御前に連れて来られたエヴリーデの、あの頃と少しも変わらず美しい姿を目の当たりにすると、男はその身を強く抱きしめ、彼女の方も懐かしそうに男を抱きしめ返しました。


 ですが、今のままではまだ冥府の住人であり、彼女の魂を取り戻したわけではありません。エヴリーデを生者の世界へ連れ帰るべく、男はともに地上への帰路を歩み始めました。


 ハーデースの気持ちが変わらぬ内にと、彼は背後に最愛の恋人を連れて、もと来た道を急いで戻って行きます。


 途中、何度となく彼女の顔を見たい気持ちに襲われましたが、振り返ってはすべてが水泡に帰してしまいます。


忍び難きを忍び、堪え難いその気持ちをぐっと堪え、ともかくも男は前だけを向いて、ひたすらに足を動かし続けました。


 しかし、前だけを向いて歩いていると、本当に彼女が後からついて来ているのかどうか不安になってきてしまいます。


 それを確かめる術は、時折、ちゃんとついて来ているか? と尋ねる彼に、はい…と背後で短く答える彼女の声しかありません。いや、その声が本当に彼女のものであるかどうかも実際のところはわからないのです。


 それでも、強い疑念と不安に抗いながら、男はついにステュクスの河岸まで戻ってきました。


 再びカロンの小舟でこの河を渡れば、もうそこは冥府ではなく現世の側……ゴールの地上まではもう少しです。


 青白く光る河面を渡りきり、それまで一緒に旅をしてきたカロンに別れを告げると、男とその後にいるはずのエヴリーデは、最後の力を振り絞って漆黒の闇の中を地上へと急ぎました。


 やがて、闇に閉ざされていた洞窟の中に、入口から射し込む外界の仄かな光が見えてきます。


 冥府へ連れ去られた恋人を取り戻すまでほんのあと一歩……しかし、その安堵感がわずかな油断を彼に与えました。


 また、ようやくゴールを前にして、せっかくここまで苦労して来たというのに、本当に彼女が後にいるのかという、ずっと抱いていたその不安が、ついに彼の中で堪え切れないまでに大きく膨れ上がっていたのです。


 ここまでくれば、ほぼ地上と変わりないし、もう振り返っても大丈夫だろう……。


 安堵と不安、相反する二つのその感情に後押しされ、そう、勝手に男は思ってしまったのです。


 さあ、もう大丈夫だ、エヴリーデ! 国に戻ったら今度こそ結婚しよう!


 まさにあと一歩で地上へ出られるという洞窟の入口寸前で、高らかにそう叫びながら男は恋人の方を振り返りました。


ですがその瞬間、男は目を大きく見開き、その顔からはみるみる血の気が失せてゆきます。


 そこに彼が見たものは、変わり果てた恋人の姿でした……。


 先刻、ハーデースの館で目にした生前とまるで変わらぬ姿のエヴリーデとはまるで違い、その美しかった顔の肉は腐り果て、飛び出した片方の眼球は今にも零れ落ちそうに垂れ下がっています。


湿った泥とカビに汚れた衣服の下では死肉に蛆虫が這いずり回り、所々、すでに白い骨が見えているような場所もあります。


 どうしたの? 早く一緒に地上へ戻りましょう?


 恐怖と驚きに体を強張らせる男に対し、彼女は腐りかけの頭を怪訝そうに傾げ、彼の方へ一歩近寄ります。


 ですが、墓の中の死体同然と化した醜い恋人の姿を目にした男は、思わず悲鳴をあげながら彼女を突き飛ばしてしまいます。


 するとどうでしょう。まるで、背後に広がる洞窟の闇に吸い込まれるかのようにして、エヴリーデは冥府へと連れ戻されてしまいました。


 唖然と立ち尽くす男の耳に、洞窟に響き渡るハーデースの声が聞こえます。


 おまえは約束を破ったばかりか、恋人を受け入れられずに突き放した。もう二度と彼女を取り戻すことはできないであろう……と。


 自分の犯してしまった取り返しのつかない過ちを悟った男は、頭を抱えてその場に蹲ると、大声をあげて泣き喚きました。


 その後、どのようにして洞窟を出て、どこをどう来たものか男自身もよく憶えていません……。


 外で待っていた司祭にはどう説明したのか、その後、彼とはどう別れたのか……気がつくと、彼はミッデラ海から遠く離れた、内陸部の山道を彷徨い歩いていました。


 しかし、彼の犯した罪に対する本当の罰は、この後に待っていたのです。


 〝冥府下り〟の儀式に失敗した上、教団にその身を捧げるという契約を反故にした男を司祭はけして許しませんでした。


 司祭は信奉する酩酊と狂乱の神ディオニュソスの魔術を用い、狂気に取り憑かれた狂信女マイナスと呼ばれる女性信徒の一団を引き連れると、逃げた男を捕らえ、八つ裂きにするよう命じました。


 また、冥界へ連れ戻された恋人エヴリーデも、あの洞窟で見た死者の姿のまま、司祭や狂信女マイナス達とともに見捨てた男を追いかけてくるような気がします。


 失った恋人を取り戻すために故郷も身分も捨て、でも結局はその恋人すらも突き放して逃げ出し、今さら裏切った故国へ帰ることもできず、つきまとう彼女の影に怯えながら狂暴で残忍な邪教の司祭と狂信女マイナス達に追われ、男は今もこの現世のどこかを彷徨い歩いているとのことです――。

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