Ⅵ 死者たちの輪舞 (3)

「………………エヴリーデ…」


 一方、そのオルペは先刻来隠れていた木の幹の前で、冥府へ連れ戻されたはずの今は亡き恋人と対峙していた。


 だが、あの洞窟の出口で見た腐敗した遺体の姿ではなく、生前と何も変わらぬ、彼がよく知る美しい恋人の姿である。


「……いや、嘘だ。そんなはずがない……君はあの時、再び冥府へ連れ戻されて……」


 今、確かに目の前にいる彼女の姿と過去に見た情景の記憶の狭間で、オルペはどちらが現実なのかわからず、ただでさえおかしくなりそうな頭をさらに混乱させる。


「ええ。そうよ。わたしは今も冥府の住人……でも、もう一度あなたに会いたくて、ハーデス様に頼んで現世へ来させてもらったの」


 そんなオルペに対し、可愛らしい満面の笑みを浮かべたエヴリーデは、やはり変わらぬ生き生きした声でそう語りかける。


「……あの時、僕は君を突き放した……そんな僕を、君は恨んでいないのか?」


 ひどく戸惑いながらも、オルペは恐る恐る、声を振り絞る様にして彼女に尋ねる。


「恨む? 恨むなんてとんでもない。今でもわたしはあなたを愛してるわ」


 対してエヴリーデは笑みを湛えたまま、彼の不安を払拭するように首を横に振ってみせた。


「そ、それじゃあ、君はこんな身勝手な僕を、許して、受け入れてくれるというのか?」


「ええ、もちろんよ。でも、そのために冥府へ連れ戻され、あなたとはまた離れ離れになってしまった……あなたに会えないなんて、わたしもう堪えられない! だから、わたしと一緒に冥府へ戻りましょう? あなたとわたし、もう誰にも邪魔されることなく、いつまでも冥府で幸せに暮らすのよ!」


 少しほっとしたような顔になり、もう一度、改めて尋ねるオルペに向けて、彼女はやけにうれしそうな声色でそう続ける。


「冥府で? ……でも、それってつまり、僕も死ぬってことなんじゃ……」


「ええ、そうよ。わたしが現世に戻れないなら、あなたが冥府へ来ればいいのよ! 今までどうして思いつかなかったのかしら? とっても素敵な考えでしょ?」


 当然、その疑問に思い至るオルペだったが、エヴリーデは相変わらずの無邪気な笑顔で、何か問題でもあるのかとばかりに平然とそう答えた。


「それとも、あなたはまたわたしを突き放すの? あの時と同じように、また身勝手にもわたし一人だけ冥府へ送り返えそうというの?」


 さらにエヴリーデは突然豹変し、悲しげで恨めしそうな態度を顕わにすると、命を捨てることに二の足を踏むオルペを責め苛む。


「そ、そんなことは……」


 彼女のために自らの命を捨てろというその頼みに、罪悪感に縛られるオルペは躊躇しながらも、逆らうことができずに言い淀んでしまう。


「愛しているのなら命を投げ出すくらい簡単なはずよ。それとも、あなたはもうわたしを愛していないの? あなたに冥界で置き去りにされ、それでもわたしはこうして会いに来た……こんなにも、わたしはあなたを愛しているというのに、あなたのわたしへの愛はもう失われてしまったというの?」


 その弱みにつけ込むかのように、さらにエヴリーデは畳みかける。


「……わかった。確かに君の言う通りだ……もとはといえば、僕が禁を破って振り返ってしまったことが原因なんだし……その償いのためにも、僕は喜んでこの命を捧げるよ……」


 その罪を贖うため、また、彼女への愛を貫くために、ついに彼は命を投げ出す覚悟を決めた。


「うれしいわ、オルペ! さあ、すぐにすむから少しの間、目を閉じていて。大丈夫。ぜんぜん怖くないわ」


 すべてを受け入れることにしたオルペに彼女は顔色を明るくすると、例えるなら母親がこどもを諭すような、なんとも優しげな声でそう促す。


「ああ、わかった……」


 オルペは身も心も目の前の恋人に委ね、ゆっくりとその瞳を閉じた……。


「オルペさん! 気をつけてください! 何が見えてもそれはすべて幻です!」


 だがその時、深い森の闇の中から、そんなメデイアの声が木霊した。


「…! 幻? それじゃ、僕が今見ている君は……そうだ。僕は、一度きりの与えられた機会を棒に振った……なのに、君がこの現世へ来ることをあのハーデースが許すはずがない……君は、本物のエヴリーデじゃない……君は、いったい何者なんだ?」


 メデイアの言葉に冷静さを取り戻したオルペは、その事実に思い至ると疑念を抱き始めた目の前の恋人…否、恋人のような姿をした者・・・・・・・・・・・に対して持っていた弓を構え、メデイアから借りたハシバミの矢を弦に番えて向ける。


「それは……そう! それは、禁を犯したあなたを再び冥府へ連れて来ることを条件に、ハーデース様が現世へ行くのを許してくれたのよ! だから、もしもその約束を破ったら、私は冥府でひどい仕打ちを受けることになるわ……それでも、あなたはいいっていうの?」


 だが、彼女はそんな説明を口にすると、ひどく悲しげな表情を浮かべてそう訴えかける。


「もし君が本物のエヴリーデなら、もちろんそんなこととても受け入れられないけれど……でも、僕は君が信じられない!」


 彼女の懸命な訴えにオルペも悲痛に顔を歪めるが、その顔をゆっくり横に振りながら、構えた弓をけして下ろそうとはしない。


「ひどい! あの女の言葉は信じて、わたしのことは信じられないっていうの? 悲しいわ、オルペ! やっぱりあなたの愛はもう失われてしまったのね……いいわ。わたしはまたあなたに見捨てられて、約束を破った罪で地獄の苦しみを与えられるのよ……」


「そ、そんなことはない! 君への愛は今も変わらない! それに、もう二度と君を見捨てたりなんかしない!」


 その美しい瞳に大粒の涙をいっぱいに溜め、嗚咽して嘆き悲しむ恋人の姿にオルペはひどく動揺する。


「だったら、そんな物騒なもの早く下ろして? わたしへの愛に偽りがないのなら、そのことをちゃんと証明してみせてよ! もう二度とわたしを突き放したりしないというのなら、わたしを信じて、すべてを任せて瞼を閉じて!」


「………………わかった……君を信じる」


 〝二度と突き放したりしない〟……傷ついた彼の心を深く抉るその言葉に、最早、抗う気力も失ったオルペは、ついに弓を下ろして再び静かに瞳を閉じた。


「オルペさん! 彼女を信じてください! あなたの恋人を! あなたが愛したエヴリーデさんを!」


 そんな時、再びメデイアの声が夜の森に響き渡る。


 ……エヴリーデを信じる? あの女騎士は、なぜ、そんなことをわざわざ言うのだろう?


 瞳を閉じ、すべてを彼女に委ねながら、オルペはふとそんな疑問に捉われる。


 ……ああ。信じているとも……だからこうして僕は命を捨て、彼女とともに冥府で暮らすことに決めたんだ……。


でも、信じるって本当にそういうことなんだろうか?


 ……僕は、僕が愛したエヴリーデを信じる……そうだ。あのエヴリーデが僕に死んでくれなんて言うだろうか?


 ……いや、僕の愛した心優しいあのエヴリーデが、そんなこと言うはずがない!


「…!」


 そのことに気づいた瞬間、言い知れぬ殺気をオルペは感じる。


「裏切った罪、死をもって償いなさい、オルペ……うぐっ!?」


 その刹那、とっさにオルペは弓を引き上げると、考える間もなく放っていた。


「…ハッ! エヴリーデ!」


 しまったと焦る彼だったが、よく見れば目の前にいるのは恋人ではなく、至近距離で吹き矢を構える司祭バコスである。


 その額にはオルペの放ったハシバミの矢が深く突き刺さり、司祭は驚愕の表情を浮かべて黄色に濁った目をまん丸く見開いている。


「……な…なぜ……だ……」


 そして、最後に短くそう呟くと、司祭はそのまま倒木の如く、ドサリ…と背後に倒れて事切れた……。

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