第10話
対局ボードを、じっと見る。今日は順位戦以外は組まれていない。それでもC級二組とあって、ずらっと名前が並んでいる。この中でC級一組に上がれるのはたった三人。いや、関西の方でも対局しているから、実際はもっと少ないかもしれない。
ついでのほかの部屋も見る。ふと、見知った顔がいることに気が付いた。部屋の奥で記録を取っているのは、黄色いカーディガンを着た皆川さんである。姉弟子が記録係をしているのは、今まで見たことがない。もちろん知らないところではしていたかもしれないし、他の女流棋士がどれぐらいとっているものかもよくわからない。ただ、いつもとどこか様子が違うように見える。頬はいつもより自然に近い肌色だし、唇も赤くない。座っている時に机をコツコツと叩く癖があるのだが、いま彼女の手首はしっかりと固定されている。
あんなに落ち着いた人だっただろうか。
先日の敗戦が、相当こたえたのかもしれない。俺の見立てでは、つっこちゃんはすでに有段者ぐらいの棋力があると思う。しかし、皆川さんにとっては奨励会の級位者に負けたという事実は変わらないのだ。プロとして戦っている以上、気分がいいはずがない。
戦っているのは対局者だけではない、ということかもしれない。ただ、今日は他人に感心している暇などないのだ。
対局室に戻る。部屋の空気が体中を刺してくるようだった。
「なんで、見えるの!」
ある時、彼女が突然声を荒げた。たぶん俺は、ものすごくポカーンとしていたと思う。
「いや、まあ……なんでだろう」
今よりもずっと幼かった俺は、適切な回答がわからなかった。自分よりも少し大人な彼女の方に、なんとかして折れてもらえればと思った。
一度だけ、先輩に誘われてハイキングに行ったことがあった。まだ奨励会に入って間もない俺は、当たり障りのない断り方を知らずに参加することになってしまったのだ。そして将棋の集まりなので、どこでも将棋を指そうとする。昼食を採った後、俺は皆川さんと一局指すことになった。大自然の中で。
内容は一方的だった。棋力差があったのだ、仕方がない。そして感想戦の途中、彼女はその言葉を発したのだ。
見える人と見えない人がいるのか、努力の差なのか。当時は考えてもわからなかった。ただ少なくとも、将棋しかすることのない自分の方が「強くて当たり前」だと思っていた。どれだけ皆川さんが頑張っているのか、悩んでいるのか知っていたら、はっきりと答えは出せただろう。才能の差があるから、と。
傷付けることになったかもしれない。けれども、努力でどうにかなると夢見ることは、甘えにつながる。才能がないなりのやり方というのがあるのだ。
今度聞かれたら、はっきりと言おう。それで嫌われるような関係ではないと思う。
気が付くと、昔のことを思い出すほどに形勢が開いていた。
どうしてこうなったのかはわからない。ただ、川崎さんにはいつもこうやってやられてきた。
「何で見えるのか」
あの時の皆川さんと同じように、心の中では叫びたがっている。俺には見えない道筋を、いとも簡単に見つけている気がする。顔つきはまったく変わらず、持ち時間が減っても焦った様子など一切見せない。こちらが思うほどには、俺のことなど意識していないのだろう。
ただ、諦めはしない。どんなに泥臭くても、勝たなければならない。川崎さんにだけは置いて行かれるわけにはいかない。
頭が沸騰しているかのようだった。湯呑みに水を注ぎ、一気に飲み干した。ポケットからチョコレートを取り出し、口に放り込む。甘さより苦さの方が感じられる。
向こうで、終わった対局があるようで、すっと立ち上がったスーツのシルエットが目に飛び込んでくる。せっかくいいものを着こなしていたのに、この時間になったらよれよれだ。
その前に、机に向かってびしっと背筋を伸ばしたままの記録係がいる。俺より若いけれど、彼の服はとてもいいものだ。きっと親がきちんと選んでいるのだろう。紺のポロシャツの襟元には、細いオレンジのラインが入っている。しかもそれを目立たせるのではなく、ちらりと見えるぐらいに襟を寝かせている。いいと思う。
将棋に関係ないことが、きっちりと見える。冷静なのか集中できていないのか、よくわからない状態だった。そして、恐ろしいほどの勝負手を思いついた。香車でももったいないような犠打を、飛車で代用する手だ。それでよくなるとかではないけれど、局面の情勢は変化する。こちらの方に攻める手番が回ってきやすくなるはずだ。
躊躇している余裕はない。飛車を、力いっぱいに打ち付けた。
けれども、すぐに絶望に襲われることになる。俺が手を離すとき、すでに川崎さんの手は駒台に伸びていた。よどみなく、流れるような手つきで桂馬が置かれる。
……読んでいたのだ。飛車打ちを。
桂馬はただで取れる虚空に置かれた。取らなければ拠点となってしまう、厳しい桂打ち。そして取れば、歩の数が足りるので先手で叩かれて飛車は無力化する。
やられた。完全に読み負けた。そして終盤では、致命傷になるほどの失敗だった。
何より悔しいのは、俺が筋悪な勝負手を指すことまで読み切られていたことだ。完全に踊らされているということじゃないか。
どうしようもなくなった。
形作りに入った。悔しいが、せめてもの意地だった。
零時前、対局は終わった。川崎さんは一切表情を変えなかった。感想戦も、淡々と行われた。そして、どの局面でも読み負けていた。
順位戦的には、まだ一敗だ。けれども、二人の距離は、とてつもなく開いてしまっていた。勝率も、七割未満になった。
このまま、川崎さんは遠くに行ってしまうかもしれない。タイトル挑戦ぐらい、しても驚かない。けれども、才能の差とかで納得できるほど、俺は理性的じゃない。将棋しかない。俺には将棋しかないから。
部屋を出て、控室に向かう。大人なら飲みに行ったりするんだろうけど、俺には深夜の街ですることなど何もない。悔しくて仕方ないのに、それを顔に出す技術もない。いつもと同じように将棋を見て、考えて、ため息をつくことしかできない。
検討に加わったり、関西の対局をチェックしたりしながらしていたら、一時半になっていた。こうなるともう、帰ることも億劫になる。どうせならどこか千日手にでもなって、朝まで対局したりしないだろうか。
しかしそんな都合よくも行かない。全ての対局が終わった。感想戦でも見に行こうかと、部屋を出た。
「辻村」
突然名前を呼ばれた。振り返ると、そこには皆川さんがいた。
「どうしたんですか」
「記録終わったから。辻村こそまだいたんだ」
「俺、勉強熱心だから」
「まだいるの」
「え」
「今から帰るなら、送ってってくれてもいいかな、と思って」
時間も時間だ。確かに女性を一人で帰らせるわけにはいかない……と考えるのが大人への第一歩だと誰かが言ってた。今回は彼女の師匠に挨拶するというハプニングもないだろう。
「なんだ、辻村君奥さんと待ち合わせしてたのか」
検討に残っていた先生に軽口を言われるが、軽く会釈で受け流す。
「行きましょうか」
「えらく素直ね」
本当は、助かったと思っていた。今は将棋に全く集中できる気がしない。俺らは、並んで会館を後にする。
「考えてみたら変ですよね。女性と高校生が普通にこんな時間までって」
「高校なんて行ってないじゃない。まあでも、変な感じではあるかな」
「皆川さんは……迷ったりしませんでしたか」
自分でも様子がおかしいのはわかっていた。心が落ち着かなくて、饒舌になってしまう。不安なのか、怖いのか、とにかく自分のことを忘れたい気分だった。
「何に?」
「棋士として……やっていくことにとか。大学に行くとか……会社に就職する先輩もいるわけで……」
「迷うよ」
きっぱりとした口調だった。思わず俺は歩みを止める。街の光と星明りに照らされて、茶色い髪がピカピカに輝いて見えた。
「将棋は好きだけど……それだけじゃやっていけないから」
「好きなものをはっきり好きって言えるのは、すごいと思います」
皆川さんも歩みを止め、こちらを振り向いた。笑ったような困ったような、何とも言えない妙な表情をしていた。
「言えることばかりじゃないんだよ」
「でも俺は、好きなのかどうかも分からなくなる時があります」
「川崎君に負けたから、将棋を嫌いになるの?」
心臓を鷲掴みにされたようだった。それは、確かなようで全然違うことだった。川崎さんには負けたくない。負けたくなかった。けれどもそれと将棋が好きかどうかとは、関係ない。自分にとって将棋は、好きとか嫌いとか、そういうものじゃない。やってみたら強くなった。強かったらプロになれる。プロになったら……居場所がある。
「俺、そういうことよくわかんないんです」
「心配」
「え」
「辻村って、将棋以外ふわふわしてる。それなのに、そういうところあんまり見せないよね」
「そんなことないですよ」
「あるよ。わかるの……えーと……姉弟子だから」
「そんなもんですか」
悪い気はしなかった。少なくとも、自分のことをよく知っている人が一人はいるというのは、安心できる。孤独に慣れることはできても、孤独が好きなわけではない。
「そんなもんよ」
「じゃあこれからも、何か気付いたら教えてくださいね」
「そ、そうね。そうする」
一人で帰っていたら、ただただ暗い気持ちだっただろう。今の俺は、決して前向きに離れないけれど、愛想笑いぐらいはできる。
姉弟子に感謝しなければならないだろう。
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