第5話

「……え」

 思わず声が出てしまった。仕方ないと思う。

「何」

「いや、何って……」

 俺の前に現れた皆川さんは、金髪になっていた。首元にはネックレス、左腕には高そうな銀色の腕時計、そしてタイトなミニスカート。年齢的にはそれほど特別じゃないかもしれないし、似合ってないというわけでもない。ただ彼女は女流棋士であり、そして今から大盤解説会なのである。

「それより、今日はちゃんとしてよね。あんた、たまに早口で何言ってるかよくわかんないんだから」

「……はい」

 きついことを言われているが、そもそも今日は解説者として来たのではない。近くでタイトル戦をしているので見に来たら、立会人の先生が二日酔いで、対局開始直後はトイレにこもっていて、連絡がつかず「迷子」になっていたらしい。

 そんなわけで先生がするはずだった分の解説は俺が引き受けて、先生には立会に集中してもらうことになった。集中できているのかは謎である。

 一応高校生なので、平日にこういう仕事を頼まれることはなかった。けれどももう、周囲には「やめました」と言っている。しばらくはやめるための手続きを考えることすら面倒だろう。

 二人で控室に入る。すでに局面はかなり進んでいた。定家先生の方が指しやすそうだったけれど、差がついている、というほどではない。まだまだ長くかかりそうだ。

「お、夫婦で来たね」

「な、何言ってるんですかっ」

 まだ酔っぱらっているのだろうか、立会の出口先生はとても機嫌がよさそうに軽口を言っている。

「まあ、夫婦ではなく姉弟弟子ですね」

「辻村君は冷静だなあ」

 奥には、継ぎ盤が並べられていた。副立会人、解説者、記者などでかなりわいわいと局面が突っつかれている。そしてその中に、川崎さんの姿もあった。チェックのシャツを着ていて、見た目は奨励会員の時と変わらない。というか、考えてみたら川崎さんも学校をさぼって来ているんじゃないか。

「お疲れ様です」

「あ、辻村。大盤行くんだってな」

「川崎さんも来てくださいよ。俺は早口だって苦情が来てるんで」

「あー、嫁さんからだろ」

 よくわからないが夫婦というネタが広まってしまっているらしい。参った。

「まあとりあえず、なんかあったら手伝ってくださいね」

「わかったよ。で、どう思う?」

「まだ先は長そうですね」

「そうだな。でも、定家先生苦しくしちゃったよな」

 思わず検討中の盤面を見た。特に間違ってはいない。どう見てもまだ互角、どちらかと言えば定家先生有利の局面だ。

「……そうですかね」

「あれ、辻村は先手持ち?」

「持ち、というか……こんなもんじゃないですか?」

「大雑把だなあ」

 釈然としないものがあったけど、気にしていても仕方がない。川崎さんの前に座り、検討を始める。

「これぐらいですかねえ」

「それは損だよね」

「端を突くと」

「こっちの方が価値高くない?」

 なんとなく、波長が合わない。元々棋風などは違うのだが、それにしても意見が合わないというか。

「皆川さんはどう思う」

「え、私?」

「やっぱり定家さん、苦しそうだよねえ」

「え、いや、えーと……」

 皆川さんも困っている。やはりそれほど差があるとは感じていないのだろう。

「あ、時間だ。行きましょう」

「うん」

 何となく困惑したまま、二人は解説会場に向かった。川崎さんの実力は知っているけれど、だからと言って全面的に信用しようとは思わない。なんとなく、彼には感覚が跳躍したようなところがある。それが強さの秘訣かもしれないけれど、弱点でもありうる。

 会場はすでに満杯、熱気が伝わってくる。最近は本当に、観戦を楽しみにしているファンが多いと感じる。

 次の一手クイズの抽選を終え、現局面について解説を始めた。自分の感覚を信じて、定家さん有利で進めていく。先手は玉が薄いものの、要所要所を押さえているので簡単には攻められない。

 皆川さんは質問を引き出すのがうまい。たぶん、本当に疑問に思っていることを聞いているのだろうけど。無理にひねり出された質問は、どうにも答えにくい。まだまだ俺は技術不足なのだ。

「具体的にどうしましょうか」

「そうですね……」

 模様はいいはずだ。ただ、どの手順で、と言われると難しい。有効な手待ちも難しく、攻めも守りも安定しているのに、有利に持っていくのが大変そうに思えてきた。

 笑顔を心掛けるものの、内心焦っていた。こんなことがあるのだろうか。現在の形がいいばかりに、どの手も悪手になってしまうかもしれないという理不尽。相手は指したい手が多くあり、手待ちしてくれるのは大歓迎だろう。

 川崎さんは、どこまで見越していたのだろうか。

 とはいえ、定家さんは最強の棋士だ。俺らに見えていないものが見えているのかもしれない。そんなこと言っていては解説が成り立たないのだけれど。

「なかなか難しいということでしょうか」

「そうですね、はっきり有利にするとなると」

 皆川さんの唇が、少しとんがっている。不満があるときのくせだ。まあいつも不満だらけという性格ではあるのだけれど、その中でも特に目の前に解決してほしいことがあるとき、こんな顔をする。

 確かに、自分でも納得のいく解説はできていない。しかし、わからないのだからしょうがない。

「皆川さんならどうしますか」

「えっ」

「ぜひ鋭い読みを」

 ためしに振ってみたら、唇の端をぴくぴくとさせている。これも試練だと見て見ぬふりをする。

「あの……」

「皆川さん、結構こういう局面で鋭い直観とかありますもんね。どうですか」

「辻村さんにわからないものは……わからないなあ」

 結局皆川さんも新しい発見はできず、消化不良のままタイムアップとなった。それほど難しい将棋を皆様でお楽しみください、としか言いようがない。

 そして、会場を後にするとき、固いヒールが僕の足を踏んづけていった。

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