第4話
……負けた。
勝負事なので、負けることはある。けれども、この負けはダメな負けだ。相手は五連敗中で、今期まだ勝ちのない先生。将棋の内容もこちらが押していたのに、中盤から乱れまくってしまった。こんな負け方はプロになってから記憶にない。ひどい。
控室に寄る気にもなれなくて、すぐに会館を飛び出た。こういう時に、何をすればいいのかを知らない。カラオケもゲーセンも無縁で、愚痴を言う友人もおらず、隠れて酒やたばこをやるわけでもない。ただもやもやした感情を抱えて駅に向かい、気が付くと反対方面の電車に乗ってしまっていた。
いっそこのままどこかに行ってしまおうか。ただ、その後のことが浮かばない。次の駅で下りよう、そう思った。
「辻村先生?」
「あ……」
同じ車両に乗っていたらしく、こちらに歩み寄ってきた女性。同年代でつい最近女流棋士になった、木田桜女流2級だ。いつもおとなしくて、あまり他人とべたべたするところを見たことがない。そういうところは俺に似ているかもしれない。ただ川崎さんとは小さい時からの付き合いらしく、たまに親しげに話しているところを見かける。
「今から帰るの」
「あ、はい」
「私も」
同業者に会ってしまったがために始まる、義務的な会話。とても苦手だった。しかも今は、気持ちが混乱している。とはいえ、無視するわけにしいかない。
「木田さんは? 対局ですか?」
「はい」
「勝ったんですか?」
「はい」
「それは良かった。ずっと勝ってるんじゃないですか?」
「負けるわけには、いかないから」
冷たい目をしていた。胸をえぐられる気がした。木田さんは、将棋に勝つことを使命のように考えている。俺より一歳上、奨励会の試験に落ち、苦労してようやく女流棋士になった。ほっとしてしまったとしても不思議ではない。けれども、全くそんな雰囲気はない。まるで女流棋士の中では勝つのが当たり前だと言わんばかりの、力強さを感じる。
「あ、ここなので」
「うん。また」
居づらくなって、二つ目の駅で下りた。ベンチに腰かけて、しばらくぼーっとしていた。
「何でやめるの?」
予想外の反応だった。てっきり喜ばれると思っていたのに。
「その、全然授業出られていませんし、このままずるずると在籍するのはいけないと思って」
「でも、高校卒業ぐらいしといたほうがいいんじゃないの」
「はあ」
「成績は出すよ。進級もできるんじゃないかな」
「え、それは……」
「プロ棋士がいるっていうのは宣伝にもなるしね。細かいことは気にしなくていいよ」
「……」
敗北が続いているようだ。俺は学校をやめることさえできないらしい。
久々に着た制服は、コスプレをしているような気分にさせられる。まったく愛着のない校内を、ふらふらと歩く。高校生たちとすれ違っても、他人としか思えない。彼らは、勝負の世界に住んでいない。
このまま所属だけして、進級して、卒業して。俺が手に入れるものとは何だろうか。そしてその代わりに将棋で得られるものとは何だろうか。
そういえば、つっこちゃんは学校に行っているのだろうか。なんとなくだけれど、行っていない気がする。彼女には何かに所属している、という雰囲気が全くない。
多分、俺は憧れているのだ。自分が持っていないものを彼女は持っているのだと想像して。
ただ、彼女がプロになれないならば、その憧れも霧散してしまうだろう。俺はあくまでつっこちゃんを女の子として見ている。それがライバルになるときが来るとしたら、感情はこんがらがってしまうかもしれない。
教室には入らなかった。そこには、求めているものは何も用意されていない。微睡んでいる時間もない。俺は、学校を出た。二度と来ないかもしれない。
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