第19話

 以前先輩に連れて行ってもらったカフェで、ジンジャーティーを頼んだ。特にそれが好きとか気になったとかではなく、本当にたまたま頼んだのだ。そしたらすごくおいしくて、マスターの女性にどこで手に入れられるのかを聞いた。すると、彼女の方がすごく喜んでいた。

 と、なぜか、そんなことを思い出しながら目が覚めた。

「あ、ごめん。勝手にいろいろ使った」

 そう、それはジンジャーティーの香りだった。皆川さんがキッチンに立っている。

 俺は、毛布をどかして、ソファーから立ち上がった。

「ベッドも……ありがとう……つ、辻村にしてはきれいにしてるじゃない」

「いやまあ、はい」

 この家には物が少ないので、汚くならないだけじゃないか、と思う。服と音楽だけが、増えていく。

「まあ、どうせ女の子に朝食作ってもらうなんてことないんでしょ、一生の思い出に私が作ってあげる」

「ええと……はあ」

 ないと言えばないけれど、そういう欲求を持ち合わせたことはない。皆川さんはきっと、何かをすることによって悲しみを忘れたいんだろう。

「お米ないのに卵はいっぱいあるんだ」

「ご飯は食べないから……」

「それっぽーい」

 食卓にはホットケーキが乗っていた。自分では買ったもののほとんど使わないメープルシロップがかけられている。

「意外。料理できるんですね」

「意外と思われたことが意外よ」

 初めて、朝食のテーブルに誰かがいた。考えてみたら、実家でもほとんど一人だった。

「あのさ、今日暇?」

「はい」

「家探しに行くから、一緒に来て」

「いいですけど、本当にいいんですか」

「何が」

「決心できてるんですか」

 皆川さんは、うつむいていた。まあ、これまでの自分のことを棚上げして聞いているのでちょっと心苦しいのだけれど。でも、後戻りできるときは、後戻りする選択肢も考慮に入れるべきだ。

「悪手だとしても……好手かもしれないって時、指してみるべきだと思うの」

「……わかりました」

 指さなかったことが、一番の後悔になる時もある。やらぬ凡手よりやる悪手、といったところか。

「ところで、家賃ってどれぐらい予定してるんですか」

「え、どれぐらいなんだろ。四万とか?」

「それ、駐車場の値段ですよ」

「えっ」

 このお姉さまは、世間知らずなのかもしれない。



「私もそうだったから」

 電車に揺られてやって来たのは、都外とは言わないまでも都心からは結構離れた場所だった。駅で出向かえてくれたのは、木田女流初段である。

「ありがとう。本当に何も知らなくて」

 皆川さんと木田さんは年齢もプロになった時期も近いのだが、普段はそんなに仲良くしている感じではない。ただ、二人とも「誰ともすごくは仲良くしていない」という点で共通しており、何となくウマが合っているようである。

「東京って本当にいろいろ高いよね。将棋連盟も群馬に本部作って、みんなで将棋団地に住めばいいのに」

 木田さんは淡々とした口調で変なことを言う。まあ、わからないでもない話だけど。

「で、条件はどういう感じなの? やっぱり部屋は別々にしたいんでしょ」

「別々? 何と?」

「あれ、二人で住むんじゃないの?」

「な、なんで私が辻村と!」

「あれ?」

 木田さんの勘違いを訂正して、俺たちは女性の一人暮らしに適した部屋を探すことになった。ちなみに目安は家賃月7万5千円。

「高いんだね……」

「本当、五百年前は田舎だったって聞くんだけどね」

 女子二人の会話を、少し離れて聞く。今まで、こういう光景を近くで見たことがなかった。学校でも女友達はいなかったし、将棋界でも積極的に交流を持とうとしたことがなかった。一緒に遊びに行くとか、そんなことは有り得なかった。

 この二人は何というか、女子の本流から外れている気がする。それでも二人ともこうして話している姿を見るとかわいらしい女の子だ。

 そして、俺は何なのだろう。一番年下だけど、職場の上司のような気がしている。皆川さんは、そんなに安定した立場にはいない。今でもそれほど収入はないだろうし、来年も今年と同じだけ勝てる保証はない。対局以外の仕事も、確実に回してもらえるということはない。だからいざとなったら、俺が保証しなければ、と思う。客観的に考えて、俺が来年突然勝てなくなるということはないはずだ。そして、親にも師匠にも頼れない皆川さんにとって、何の見返りも必要なく頼れるのは俺ぐらいしかいないのだ。

 そういえばつっこちゃんも、親から完全に離れて暮らしている。借金に困った両親は、夜逃げしてどこかに行ってしまったらしい。つっこちゃんには三東先生しか頼れる人はいないのだ。

 みんな、孤独ギリギリのラインで生きているのかもしれない。

「ちょっと、辻村何ぼーっとしてんの」

「え、ただ単にぼーっとしてるんですよ」

「確かにぼーっとしてるときはそういうものよね」

 なんだかんだと言いつつ、三人は不動産屋へ。説明を受けている間、皆川さんの目は泳いでいた。駅から徒歩何分、風呂がどう、トイレがどう、敷金、ペットが飼えるか、防犯はどうか。ずっと実家で暮らしていると、そんなにも条件がいっぱいあるなんて思いもよらないものだ。俺の場合も結局、「壁が厚ければどこでもいいです」と言ってしまった。

「ペットは飼えないと困るな」

 皆川さんの場合最も重要なのはそこらしい。愛犬ルルは愛されているのである。

 いくつかピックアップして、実際に見て回ることに。現地に着くと、確認や質問はほぼ木田さんが行っていた。皆川さんは終始おろおろしている。

「あのさ、辻村」

「なんですか」

「あいえいち、って何?」

「え」

 最初相掛りか何か将棋の戦法に聞こえたのだが、よく考えると「IH」である。

「電気コンロのことだと思いますよ」

「コンロなのに電気なの?」

「まあ、電気使うとあったかくなりますしね」

 結局のところほとんど木田さんが話をまとめてくれて、なんとか借りる部屋が決まった。彼女がいなかったらどうなっていたことやら、である。

「ありがとう。助かった」

「本当に二人で住まなくてよかったの?」

「な、何言ってんの、あんたこそ川崎君とはどうなってるのよ」

「なんでぼ……私が川崎とどうにかなるのよ」

 外に出ると、すでに夕日が落ちかけていた。姉弟子の家を探すだけで、終わっていく一日なのである。

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