第20話

「あの……辻村先生……」

 研究会が終わり、魚田君と関川君はすでに帰宅した。何でもテストが近いらしい。残ったのは俺とつっこちゃんで、何とつっこちゃんの方から声をかけてきた。

「なんだい」

「あの……これ、どうですか?」

 そう言って、つっこちゃんは左手を突きだした。そこにはかわいい腕時計が巻かれていた。そういえば今までは、三東先生のものと思われる男物をしていた気がする。

「いいね、似合ってる」

「良かった……なんか、その……誰かにそう言ってほしかったんです」

「そうなんだ。どうしたの、それ」

「先生に……あの、借りてます」

 どう見てもつっこちゃんのために買ったものだろうに、二人の間には奇妙な約束が存在するようだ。

 それは、他の誰にも割り込めない絆のようだと思った。

「つっこちゃんはいずれ、先生に貸しを作れるようになるよ」

「そんな……でも、借りたものは全部返さないといけないって思います」

「そうだね」

 つっこちゃんは俺よりずっと遠くで、ずっと深いところで戦っている気がする。つっこちゃんはかわいくて強くて、見ているだけでほんわかするのだけれど、それとは別に畏敬の念を抱いてしまうような点がある。今はただ俺が先を走っているだけで、乗り越えて来たものの大きさはとっくに越えられてしまっているのではないか。俺の方が見習うべきではないか、そんなことを考えてしまう。

 俺は多分、将棋界を代表するような何かになることはない。ただひたすら勝って、強い棋士として認められたい。

 だからつっこちゃんも、ライバルの一人だ。ライバルには強くなってほしい、というのも正直な気持ちである。

「あの……変なこと言ってごめんなさい」

「いや、何も問題ないよ。早く返せるといいね。でも、その腕時計は返さなくてもいいんじゃないかなあ」

「はい、買い取ることになってます」

 想像以上に、子弟は幸福な関係を築いているのかもしれない。俺は、疎外感を感じてしまった。



 アドレナリンが出ているのがわかるとか言うが、あれは本当だ。今俺は、とっても楽しくて苦しくて、苦しいのが楽しい。

 詰みがあるに、違いない。手順はまだ読めていないけど、躊躇したら負ける。

 そして、心が通じる、ということがある。相手もまた、詰みを確信するのだ。若竹さんの目も、自陣を離れなかった。

 詰み手順は、導き出された。そして、若竹さんが頭を下げた。

 一勝。この一勝は大きい。

 しかし、隣を見ると川崎さんは必敗になっていた。攻め駒が全くない。どうも最近不調のようである。

 そして、皆川さんは大変なことになっていた。皆川さん、上園さん共に成り駒を多く作っていて、玉が捕まりそうにない。これは相入玉コースだ。

 まず、川崎さんが投了した。魂が眠っているような表情だった。

 そして皆川さんは、入玉している。ただ、点数が微妙に足りない気がする。数えたら、あと2点ないと引き分けにできない。

 取れる駒は少ない。ただ、相手の大駒が盤上にあることが救いだ。まだ、引き分けの余地はある。

 編集部の人たちが部屋に入ってきて、そわそわしながら対局を眺め始めた。相入玉は想定外のことだったのだろうか。持将棋は指し直しという規定だったけれど、場合によってはその場で対応、ということになるのかもしれない。

 皆川さんの視線は、盤の上をめまぐるしく動いている。ここ何日か一緒にいてわかったのだが、彼女は常にいろいろなところを見ている。ちょっと集中力がないんじゃないかと思うほどだ。それは、繊細さのせいなのかもしれない。

 そう、今現在、相手の馬が詰んでいるのだ。香車を二本捨てる筋なので、とても見つけにくい。三枚取られて馬一枚、それで2点得する。チャンスは、今しかないだろう。

 皆川さんが打ったのは、歩だった。一見意味が分からなかったけれど、だんだんとそれが素晴らしい手であることがわかってきた。これで、馬の逃げ道がないのだ。つまり、馬詰めろ。これならば、取られる駒は一枚で済む。詰めろをほどく手はあるのかもしれないが、一分将棋の中で見つけられるだろうか。

 見つけられなかった。上園さんは、自玉の安全を優先した。持将棋が確定した。

「本当に申し訳ないんですけど、時間がないので五分休憩の後一分将棋で指し直しでいいですか」

「はい」

「……わかりました」

 しっかりと返事した皆川さんに対して、上園さんは少し放心状態にも見えた。他の対局は全て終わっており、優勝チームも決まっている。ただ、皆がこの対局の結末を見守っていた。

 先後を換えて、再び対局開始。相振り飛車になった。皆川さんが積極的に駒交換を迫っていく。そう、勢いが大事だ。指し直し局には名局が少ないと言われる。それは多分、指し始める時点で気持ちの持ちようが異なるからだ。引き分けに持ち込んだ皆川さんの方が、断然有利だろう。

 とはいえ、プロ同士の勝負は、そんなに簡単には決着がつかない。ギリギリの局面が続いていく。この二人は、同じぐらいの棋力なのだろう。同じぐらいの疑問手を重ね、勝負の行方は混とんとしてきた。

 それでも、皆川さんは笑顔を見せた。勝負のさなか彼女がそんな表情をするのは見たことがなかった。

 川崎さんがこちらを見る。俺は、小さく頷いた。

 数手後、上園さんの玉に必至がかかった。上園さんは、うなだれるように頭を下げた。

 外はすでに夕暮れになっていた。

「……疲れたね」

「うん。俺も勝ちたかったな」

 こうして、バトル・サンクチュアリは終わった。


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