第18話

 ラムレーズン支部の指導を終え外に出ると、雨が降り始めていた。

 この不思議な名前の支部は、その名の通りラムレーズンを愛する人たちが集まって作った支部である。俺の師匠が師範となっているものの、実際には弟子たちが交代で指導に行っている。今日は、ラムレーズンのクッキーを大量に食べた。

「はあ」

 思わずため息が漏れた。ここ数日ずっとこうだ。情けない。

 バトル・サンクチュアリ二回戦。俺たちはベテランチームとの対戦だった。川崎さんは赤松九段に惜敗。そして俺は古溝八段に、皆川さんは峰塚さんに惨敗した。

 準備はしていたのだ。ゲストを一人呼んで、三回研究会を行った。それぞれ対戦相手の棋譜を何度も並べた。

 しかし、付け焼刃というのは、あれは本当である。ベテラン先生たちの本気は、こちらの準備など一蹴してしまった。特に峰塚さんの将棋は圧巻だった。皆川さんに何もさせなかった。

 ちなみに、関西若手チームは奨励会チームに二勝一敗。上園さんがつっこちゃんに負け、残り二つは順当勝ちした。

 優勝はベテランチームでほぼ決まりだろう。こうなれば、関西に負けないことが目標だ。

 とはいえ、勝算があるわけではない。俺の相手、若竹四段は好調だし、皆川さんの相手、上園女流初段も公式戦では連勝中である。

 普段でも、三割は負ける。けれども、負けてはいけないときというのもある。

 いつもの駅に着いた。いつものように電車を下りて、いつものように改札を抜けると、いつもとは違う光景が待っていた。大きなかごを抱え、赤いキャリーバッグによりかかっている、赤い服の女性。コーラの宣伝をする人、ではない。

 どうも俺は待ち伏せされやすいタイプのようだ。

「辻村」

「皆川さん、どうしたんですか」

 そこにいたのは姉弟子であった。目が腫れぼったくて、いつもよりかなり化粧が薄い。

「あのね……家出した」

「え」

 いい大人がですか、という言葉は飲みこんだ。皆川さんはずっと実家で暮らしてきて、両親との仲はあまりよくない、と聞いていた気がする。

「勢いで出てきたんだけどね……そんなに行く当てがないというか、そのさ……」

「原因は、将棋のことなんですか」

「まあ、雑誌に負けた記事が載ったことが、最初かな。でもずっと火種はあったの」

「そうですか……今、なんか鳴きました?」

 かごの中から、キャン、という声が聞こえてきた。

「あ、ルル」

 見た目からしてそうだろうとは思っていたけれど、かごから抱き上げられたのは犬だった。しかもまだ小さい、真っ白な子犬だ。

「最近飼いはじめたんだよね。まあ、これも両親に反対されたんだけど」

 雪のようにふわふわとしたルルを持って、皆川さんはますますサンタのようである。

「とりあえずここで立ち話も何ですし、うちに行きましょうか」

「いいの?」

「研究会で何回も来てるじゃないですか」

「いや、そういうことじゃなくてさ……あの子がいたりしないの?」

「あの子?」

「この前会ったじゃない、派手なロックの子」

「ああ、沖原さん。いないですよ。なんでいると思ったんですか」

「……そっか」

 皆川さんが、少しだけ微笑んだ気がした。ルルも尻尾を振っている。

「あ、ラムレーズンのケーキを貰ったんですよ。食べましょう」

「タイミングいいのね。珍しい」

「調子出て来たじゃないですか」

 全然元気になっていないことぐらい、見ていてわかる。それでも、いつものように話してもらえる方が、安心する。俺には、女性を元気づける最善手などわからないのだ。

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