七割未満

清水らくは

第1話

 朝、気が付くと何かがおかしかった。いつもと空気の感触が異なる気がする。目を開ける。薄暗くて、それでいて生暖かい。外は大雨か何かだろうか……と思って、ようやく思い出した。そういえば、カーテンを買ったのだった。

 一人暮らしを始めて一年。昨日まで我が家にはカーテンがなかった。日の出とともに目が覚め、コーヒーを飲み、散歩して、朝食をとる。その繰り返しだった。それが今日はいつもなら朝食を食べ終わっている時間まで寝てしまった。カーテンの威力は恐ろしい。

 何となくテレビをつける。これも二か月ほど前に買ったものだ。普段はDVDを鑑賞するぐらいにしか使わない。主にロックやクラシックをBGMとしてかける。面倒な時はそれもパソコンで済ます。

 今日はなぜかいつもと違うことをしたいと思った。着替えるため、クローゼットを開ける。非常に大きめの備え付けのものだが、がらんとしている。普段は制服で過ごすことが多い。何となく対局もそうしている。実際には高校はほとんど行っていない。行った方がいいと言われたものの、何も楽しさを見いだせなくなってしまった。何より、行かないことを誰にも咎められない。それでは張り合いがない。

 外の世界には、敵が少なすぎる。

 俺自身は、自分はしょうもない人間だと考えている。たまたま将棋が強かっただけで、本当はみっともない、まだまだいろいろと勉強しないといけない人間だと。でも、将棋が強いことで、将棋をがんばることで、将棋でプロになることで、全てが許されてしまった。だから、将棋だけは手を抜けない。

 家を出る。次の対局のことを考える。三日後、ベテランの先生と。中身のことをあれこれ考えることはしない。先後もわからない中で、予想で一喜一憂しても仕方ない。ただ、負けると勝率七割を切ってしまう。それだけは避けたかった。一流を目指すには勝率七割が最低条件。それは、自分に課した重たい枷だった。

 十代でデビューした先輩が、苦しむ姿を見ている。気を抜けばすぐにその他大勢だ。正直、そうなるのは怖い。俺にとって、この世界だけが希望なのだ。上を見れなくなったら、ただのつまらない人間になってしまう。

 名人になれるなら、負け越したっていいとすら思う。ただ、今はとにかく、七割勝たねばならない。



 午後四時の控室。奨励会員が二人、興奮しながら局面を検討している。

 対局はあっさり終わった。終盤に入った途端、相手がぽっきりと折れた、という感じだった。

 七割は守られた。

「どうしたんですか?」

 二人とも先輩だ。俺は丁寧に尋ねた。

「ああ、辻村君。いやこれね、金本さんの将棋なんだけど」

「金本さん……ああ、女の子の」

 最近入会した女性の話は聞いていた。別に女性が将棋をするのはそんなに珍しくはないけれど、何より話題になったのが「誰も知らない子」だったことだ。普通奨励会を受けるような子は何かしらの大会で活躍しているもので、同年代には名前を知られている。しかし金本さんは、全国大会の実績ゼロ、地方の大会にも出場したことがないという話だった。師匠の三東四段はまったく成績の良くないぱっとしない若手だし、いったいどこからそのような逸材が発掘されたのだろう……とゴシップ好きな人たちは随分と話題に挙げていたようだ。

 ただ、実際にはただの奨励会6級。何をそんなに騒ぐことがあろうか、と思う。

「いやあ、それがですよ。女の子どころか若者とも思えない」

「そうなんですか」

「これなんだけど……」

 盤面には、ひねり飛車の局面が出現している。しかも、後手は左の金が出ていく戦法……いわゆる「タコ金戦法」と呼ばれるもののようだ。

「確かに古いですね」

「しかもこの後、金を地道に動かして押さえ込んでいくんだよ」

「へえ」

「で、この戦法選んだ理由が、『名人の手がしっくりきたから』って」

「名人?」

「小川名人」

「はあ……」

 昭和の大名人の名前が出てくるのは、確かにすごい。すごいがおすすめかと言われると悩む。

「まあ将棋もすごいんだけどね。本人が全く強そうじゃないんだよ」

「そうなんですか」

「内気でおどおどしてあんまりしゃべらなくて。勝ちたいとかそういうのも感じられないけど、将棋を始めるとちょっと空気が変わるというか。不思議な感じ」

「へえ」

「でもかわいいですよ。こう、ツインテールで」

 そのあとも先輩の説明は続いたけれど、そんなに興味はわかなかった。勝負の世界に入ってきたら、ライバルとして見るに値するかどうか、だろう。かわいい子を見たいならばこの世界の外へと目を向ければいい。高校に行けば女の子はたくさんいる。それでも行きたくないのだから、今の俺は女の子そのものに興味がないのかもしれない。

「あ、じゃあ僕はこれで」

 控室もつまらない時はつまらない。なんというか、気合が乗らない時がある。今日などは気になる一局があったのだけれど、あの先輩たちと検討したいとは思えなくなっていた。

 どうせ結果はわかっている。川崎四段の勝ちだろう。

 俺より一学年上。小学生の時から何度も対局してきた。そして、勝てなかった。お互い奨励会に入っても苦手で、ダブルスコアに近かった。それでもなぜか僕の方が先にプロになれた。運が良かったのだと思う。

 でも、彼も追いついてきた。デビューから五連勝。内容も全く隙がない。すでに周囲からは期待のホープと呼ばれている。

 それは、俺のものだった。いや、今でもある程度は俺のものだ。けれども、これだけ勝っても何一つ達成できなかったことは、周囲の評価を少なからず下げている。順位戦昇級ならず、タイトル戦リーグ入りならず、新人戦決勝いけず、早指し戦本選出場ならず。面白いぐらいあと一歩のところで負けている。そして多分、自分より強い三割の人にきっちり負けているのだ。

 急にどうこうなるとは思わない。それでももう一つの目標だけは、譲れないと思っている。

 川崎さんにだけは、負けられない。

 会館から外に出る。このまま家に帰るのは、本当に虚しい。



「ふーん。不真面目なんだ」

 大阪、将棋会館から少し歩いたところにある喫茶店。昔よく俺はここにきてゲームをしていた。家にいても楽しいことなどない。親はお金だけ渡していれば子供は育つと思っていたし、俺はあんまりお金の使い方を知らなかった。だから、喫茶店で少し高い食事をするのが精いっぱいの贅沢だったのだ。

 そして今、二人分のビーフシチューがテーブルには乗っている。

「そうですよ、知りませんでした?」

 頬杖を突きながらけだるそうに話す女性。彼女は俺の姉弟子である、皆川女流二級だ。変な柄の入った赤いシャツに胸元にはネックレス。髪は茶色に染められていて、眉毛も細くきりっと描かれている。昔は爽やかな女の子だったのだが、正直最近もったいないぐらい頑張りすぎている。

「でも高校は出といたほうがいいんじゃないの」

「なんか、そういうことに興味なくなっちゃたんですよね」

「ふーん。じゃあやめるの」

「まだ決められてないんですよねえ」

「煮え切らない子ねー」

 別に迷っているわけではないのだ。決断を悩むほどのことではないと思っているにすぎない。放っておけばそのうち退学処分になるだろう。決断などいらないというわけだ。

「まあ俺のことはいいじゃないですか。それより用事ってなんですか」

「え、あー。うん。なんかこうさ、みんなで集まって将棋する機会とかあればって……最近ないじゃん?」

「研究会ですか」

「まー、簡単に言えば」

 確かに昔は一門で集まって定期的に将棋を指していたけれど、弟弟子がやめたり僕が関東に移ったりで立ち消えになっていた。

「そうですねえ。じゃあその時は皆川さんこっちまで来てくださいね」

「え……なんで私が」

「皆川さん実家じゃないですか。うちならいつでも使えますよ」

「辻村の家で?」

「ほとんど物ないですし広いですよ。六人ぐらいは入れるんじゃないかな」

「そ、そうか。じゃあそれで」

 研究会というのは、実はあまり興味がない。一人でする研究の方が、効率がいい気がする。それに、研究会では一方的に搾取する人がいる。協力する場面では、せめて努力する姿ぐらい全力で表現すればいいのに、と思うものだ。

 とはいえ姉弟子の提案を断る気もなかった。彼女は見た目は派手になってしまったが、内面はとても実直で、俺は確かにお世話になってきた。同時期にプロになり、何となく「同期」としても見ているのは内緒だ。

「じゃあ、よさそうな人いたら声掛けときますね」

「頼んだ」

 断りはしなかったものの、忘れてしまう可能性は大きいと思った。


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