第2話

 思ったよりも早く、その日が来ることになった。

 新年度の順位戦C級二組、三回戦で俺と川崎さんは対戦することになった。

 このリーグは、年に3人しか抜けられない。40人を超える中からたった3人。三段リーグを抜けてきた俊英たちが、毎年何人も取り残されるのだ。

 昇段後驚異的な成績を残してきた川崎さんか、昨年七割の勝率を残した僕か。どちらかが三回戦で負けるのだ。

 他の勝負は、常に均等に対処してきた。実力を出せば七割勝つのは当然だし、三割は負けても仕方ないと思ってきた。けれども川崎さんとの対局だけは、意味付けをして考える。たとえ実力では下回っていても、どうしても勝ちたい。

 ライバルというのは周囲が決めるものだと思う。川崎さんはこれから絶対に活躍する。その人のライバルと呼ばれるためには、勝つことが一番手っ取り早い。

 もう、高校など行っている場合ではないと感じている。そこで過ごす時間を研究に充てている若手に抜かれたら、本当に笑えない。そして今日は、川崎さんの対局がある。観に行かなければならない。

 電車に乗っている間も、将棋のことを考え続けた。俺は、最初はそんなに将棋の強い子供じゃなかったと思う。何にしろ努力が好きなタイプじゃないのだ。それでも負けたら悔しくて、それを親に言ったら将棋教室に通わせてくれた。そして、そこで言われるがままに将棋を指して、詰将棋を解いて、棋譜を並べていったら強くなった。それが普通なんだと思っていた。そしていつの間にか、アマ五段とかになっていた。

 プロになれる、と言われてその気になったのだ。俺にはそれ以外の取り柄がなかったし、早く何かで一人前になりたかった。家にいるのが好きじゃなかったから。

 どこで停滞するでもなくプロになって、そこで初めて大変さというものを知った。強い人というのは、とことん強い。俺が勝てない三割の人たちは、まるで別の次元で戦っているのだ。

 電車を下りて、歩いて。仕事場だけれど、対局がなければ一円ももらえない。将棋会館というのは不思議な場所だ。

 棋士室には誰もいなかった。そういう時間もある。モニターに映っているのは、ベテラン同士の対決だ。最新研究とはかけ離れたクラシックな戦型だけど、こういうのも好きだ。将棋は何かを解明すればいいというわけではない。目の前の相手が力戦好きならば、それに対応しなければいけない。終盤型の棋士には、一気にまくられないように気を付けなければならない。参考にならない将棋などない、と思う。

 そういえば今日は沢崎九段と三東四段の対局もある。沢崎九段はタイトル獲得歴もある偉大な棋士だけれど、最近は負けが込んでいる。他方三東四段はデビューした時から負けが込んでいる。すでに降級点を二つ持っていて、来期はフリークラスに落ちてしまう可能性すらある。まだ若いのに、存在感が全くない。

 そんな三東さんだが、噂の金本さんの師匠なのだ。何となく気になる部分もある。彼には、普通の棋士が持っているような、しつこさや粘っこさというのが全く見られない。ある意味それでプロになれたということは、天性の素質があるということかもしれない。

「いやー、まいったまいった」

 大きな声を出しながら、影山六段が入ってきた。四十手前の先生で、豪快な風貌ながら細かい駆け引きを得意とする。

「あら、辻村君」

「お疲れ様です」

「うん。対局終わっちゃったよ」

「先生のがですか?」

「ああ。いやあ、まいった」

 聞かなくても負けたというのはわかる。夕食休憩前に負けるというのは、よほど序盤から上手く指されたのか、途中で一手ばったりがあったのか。

「そういえばね、あの子が記録係やってたよ」

「あの子?」

「金本さん。朝から三東君がしきりに頭下げててね。何でも奨励会入るままで棋譜取りどころか、ストップウォッチ使ったことも、お茶を入れたこともないとかで。幹事とも随分練習したらしいよ」

「そこまで……」

 もうなんというか、将棋用に開発されたロボットじゃないかとすら思えてくる。あまりにも世間と離れていて、しかも女の子で、師匠は目立たない若手で。三東四段は実はマッドサイエンティストなんじゃないだろうか。

「でね、つっこちゃんがね」

「つっこちゃん?」

「月子だから。つっこちゃん、かわいらしいんだよ。ちょっとびくびくしてるけど、まじめそうで。今までいなかったタイプだね」

「ヘー……」

 なんだか、俺も興味がわいてきた。年齢も大して変わらない、不思議な女の子。高校に行ってもなかなか出会えるものではない。

 だんだん人も集まり始めた。何となく押し出されるように、部屋を出る。居づらいというのではなく、ふさわしくない空気の時があるのだ。そして今は夕食休憩らしく、対局室を覗いても棋士は見当たらなかった。

「あっ」

 誰かが、俺の足を踏んづけた。そして、かわいらしい声。

「ご、ごめんなさい」

「いや、別に。……つっこちゃん?」

「え、あ、はい」

 背は低くて、体の線は細くて、サラサラの髪はツインテールに結っていて。子リスのように動く様は、とても将棋を指す人だとは思えなかった。そして俺の胸は高鳴っていた。こんなことは初めてだ。

「俺……辻村って言うんだ。四段」

「わ、私金本です。4級です」

 ただ、ぶつかっただけなのだ。もうこれ以上話すことはない。けれども、それで終わらせてはいけないと思った。何かきっかけを、口実を、理由付けを……

「つっこちゃん今度さ、うちの研究会来ない」

 思わずそんなことを言っていた。皆川さんとこの間話しただけで、そんなものまだ開催したこともないのに。

「……え……私、そういうのよくわからなくて……」

「いやまあさ、対局したり検討したり、ご飯食べたりゲームしたりするんだ。皆川さんも参加してるしさ、考えといてよ」

「……はい」

 やった! しかしこれでは社交辞令で終わってしまうかもしれない。

「また詳しいことは連絡するしさ、メアド教えてよ」

「……メアド……は……ないです」

「え、携帯は?」

「……持ってないです」

「じゃあ電話は?」

「一応……。先生が出るかもしれませんが」

「……えっと……まあいいや、じゃあ電話番号教えてよ。またかけるからさ」

 先生が出るかも、というのは気になったけれど、電話番号を交換することには成功した。月子さんにメモを渡し、僕も手帖に番号を書き込む。確かに市外局番からだった。

「じゃあ、今度連絡するね」

「は、はい。よろしくお願いします」

 体が少し軽くなっているような気がした。そのまま玄関を出て、ご飯を食べに行くことにした。これまで選択肢に入れたこともなかったけれど、鰻を食べたくなってきたのである。

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