第3話
少し降り始めた雨は、結構強くなってきていた。それを見越して先に帰った人もいるようだ。
傘なんて持ってきていない。濡れるのは構わないけれど、そのまま電車に乗るというのは悪手というものだろう。
そして、気付いた。つっこちゃんはどうするのだろう? 三東先生はもういなかった。女の子がこんな時間に一人で帰るだけでも危ないのに、この雨だ。ここは送っていくのが紳士的なのではないか。そうに違いない。
再び対局室を覗いたが、すでに対局は終わっており、誰もいなかった。棋士室にもいなかった。靴を確認すればわかるかと思い玄関に下りていったら、ちょうどそこに彼女はいた。玄関を出てすぐのところで、空を見上げていた。
「つっこちゃん!」
「あ、……辻村先生」
「今から帰るの?」
「はい。でも、雨ですね……」
「送ってくよ。丁度俺もタクシーで帰ろうと思ってたところだから」
「え、いえ、そんなタクシーだなんて……贅沢なことは……」
「いいよいいよ、気にしなくて」
つっこちゃんは押しに弱い、と信じて、そのままタクシーを拾い乗り込んだ。幸い俺の家とそんなに遠くはないようだ。
「じゃあ、つっこちゃんをまず送るよ」
「……すみません……」
「先輩にはお世話になればいいんだよ。お世話する立場になっていくんだし」
と、俺が以前言われたまんまの言葉を拝借する。実際今の自分はお金を稼ぐ一方で、こういう時でもないと使いどころがない。
「つっこちゃんは、どうやって将棋覚えたの」
「え……はい、父から教わって」
「お父さん強いのかな」
「一応アマ六段とか……」
「へー。結構強いね。それで三東先生を紹介されて?」
「はい、知り合いだったみたいで……その、先生のところを訪れて」
「お父さんが?」
「いえ、私が」
「一人で?」
「はい。それ以来ずっとお世話になってます」
「ふうん。でも、家近くなんだよね。親御さんは来なかったんだ」
「家は……その、近くないです。自転車で一晩かけて……」
「……え?」
おかしな話になってきた。東京に金本なんて強豪いたっけな、などと考えていたのだ。一晩かけて自転車で?
「じゃあ、今の家は一人で?」
「いえ、先生と住んでます」
「内弟子?」
「そうとも言うみたいですね……」
いまどき内弟子なんて話、なかなか聞かない。しかも女の子である。しかも稼いでない若手棋士が師匠である。聞けば聞くほど謎が湧き出てくる存在だ。
「あの、このあたりです……」
どこにでもあるようなアパートの前。どちらかというとおしゃれな感じだった。お金を払い、タクシーを降りる。雨は小降りになっていた。
「ちゃんと師匠のところまで送り届けるよ」
「え、あ、はい」
本当のところは、確かめたかったのだ。あの三東さんと、このつっこちゃんが一緒に暮らしているなんてことがあるのだろうか。あるとしたらもうなんというか、いろいろ問題あるんじゃないか。
「あの……私からもお願いします、せめて何かお礼を」
「え、いやそれはいいけど……」
「私持ち合わせがなくて……色々と出世払いなんで……」
もう尋ねるのはやめた。いるというのなら三東さんに直接聞くのが一番よさそうだ。
階段を上がり、廊下を歩いて三番目の部屋。つっこちゃんはゆっくりと扉を開けた。
「あの……遅くなりました」
「ああ、おかえり」
それは、まぎれもなく三東さんの声だった。
「あの、入ってください。……実は、辻村先生が送ってくれて……」
つっこちゃんは部屋の中に入っていったが、俺はしばらく玄関で立ち尽くしていた。想像通りのそれほど広くない部屋。普通は一人暮らしをするサイズだろう。しかしピンク色のコップ、パソコンの前に置かれたぬいぐるみ、ハンガーにかかったカーディガン、全てがつっこちゃんのいる生活を物語っていた。そしてそれ以外は、ほとんどが男性のものだった。
「……本当に……一緒に暮らしていたんですね……」
ようやく出てきたのは、そんな言葉だった。
「色々とあるんだ。まあ、上がりなさい」
三東先生は普段とは違い、父親のような落ち着きを見せている。テーブルの前にどっしりと座り、こちらへと手招きしてくる。先輩が導くのなら行くしかない。
「あの……先生……」
「ん?」
「私タクシー代持ってなくて……」
「まあ……辻村君、そういうつもりじゃなかったんだろ」
「え、ええ……」
「どういうつもりだった?」
「え? いや、何も……」
下心がなかったと言ったらうそになる。けれどもそれを正直に言う場面でもない。
「ここからどのくらい?」
「あ、そんなにかからないです」
「じゃあ、これで帰れるかな」
「え、いや……これは……」
三東さんは千円札を俺の方へと差し出した。たぶんタクシーに乗ると、少し余る。どうしていいものかと思ってきたが、三東さんは無理やりそれを俺の手の中に押し込んでしまった。
「コーヒー飲む?」
「え、はい、いただきます……」
「月子さんも飲む?」
「はい」
「じゃあ、待っててね」
三東さんの入れたコーヒーを飲む間、俺たちは一言も話さなかった。自分がちっぽけに思えた。そして、ちびちびとコーヒーを飲むつっこちゃんは、やっぱりかわいかった。
「うーん……迷うよね」
十時半。棋士にとっては健康的ともいえる時間、俺たちは服を選んでいた。
「違いがわからないんですよね。私服とかほとんど買わなくて」
ショップに一人で入るのさえなかなか勇気がいる中、皆川さんはずんずんと入っていくことができた。普段からおしゃれには時間をかけているようなので、何ら抵抗はないようだ。
「辻村はなで肩だからねー。似合わないのも多そう」
皆川さんはいろいろな服を勧めてくるのだが、そもそも何がいいかわからないから一緒に来てもらったのだ。どんな服でも「これにしろ」と言ってもらえれば納得するのだが、本人の意見を尊重するタイプらしい。
「あ、このジャケットいいかも」
とりあえずこのままでは持ち時間が減っていくばかりなので、直感に頼ってジャケットに手を伸ばしてみた。紺と青の中間のような色で、ボタン穴が普通のものより大きいような気がする。
「え、いいけど……それ……」
「問題あります?」
「値段」
「75000円ですね。持ってますよ」
「……まあ、本人がいいならいいけどね」
だいたい服の相場なんて知らないので、気に入ったものが予算内なら買えばいいのだ。今のところ家も車も買う予定がないし、欲しくなったころにはタイトルでもとって大金をもらえばいいのだ。
「じゃあさ、パンツはこういうのどう」
「あ、いいですね。えらい細いもんですね」
「辻村なら大丈夫でしょ」
なんやかんやで、服を選ぶのが楽しくなってきた。あまり人に見られるということを意識したことがなかったけれど、着るものによってずいぶんと違って見えることだろう。これまでの俺にとって対局以外の時間はただの準備期間でしかなかった。誰にどう思われようとよかったのだ。
けれども、今はそうじゃない。俺は、勝負に勝つためには努力を惜しまないつもりだ。何せ相手は、同じ屋根の下で暮らしているのだ。
「意外に楽しそうに買いものするんだね」
「自分でもびっくりです。あ、でも一人だとそうじゃないかも」
「え、そ、そう?」
これまでは必要なものさえあればよかった。欲しいものができても、ネットで注文することが多かった。買い物に来ても、研究の時間を削っているような後悔に襲われたのだ。
今はとにかく胸のざわめきを止めるのが先決だ。そのためには早くかっこよくなりたいし、こういう時間を楽しみたい。多分他の棋士もこういう悩みを抱えながら戦っていて、乗り越えた人がタイトルに届くんだろうな、と思った。全てにストイックな人はどこかで折れてしまうだろう。
「時間あうなら、まあ別に、いつでも誘ってくれれば一緒に来てあげてもいいんだけどね」
「ありがとうございます。またお願いします。あ……あと」
「なに」
「あれです、スーツのオーダーメイドってのをしたいんですよ」
「……本当に、急にどうしたの?」
本当にどうかしてしまっているのだ。そして、原因はわかっているので対処しようとしているわけだ。
「実は……好きな人ができたんです」
言ってしまった。誰かに言わずにはいられなかったし、皆川さんは一番信頼できる相談相手になってくれると思ったのだ。
「……え?」
しかし、俺の読みは外れていた。皆川さんは動きを止め、信じられない、といった表情でこちらを見ている。
「いや、俺もこの歳ですから。それぐらいできますよ」
「その……えーと、私の知ってる人?」
「どうでしょう。名前ぐらい聞いたことあると思います」
「……そう。頑張ってね」
急に皆川さんは口数が少なくなってしまった。ガキのくせに、とか思われたのだろうか。それとも意外なこと過ぎて戸惑っているのだろうか。
女性に対する研究も、もっとしていかなければならないようだ。
夜中電気を消すと、カーテンの隅から細く薄い光だけが差し込んでくる。カーテンのない時には気が付かなかったけれど、夜というのはさびしい。暗くなった部屋の中、一人布団の中で目を開いていると、世界から見放されているような気分になる。そんなわけで目を閉じるのだけれど、そこにもやはり闇が広がっている。頭の中に将棋盤を浮かべるのだが、そうするといろいろと疑問が生まれて、起きて調べたくなってしまう。
実家にいるときは、家族なんて鬱陶しいものだと思っていた。俺にたいして興味がないのに、義務を果たすためにいろいろと世話をしてくれる人たち。両親が「どうせなら作家とかに興味持ってくれたらねえ」と言っているのを聞いてしまったこともある。将棋なんて、という思いは常に伝わってきた。それならばせめて止めてくれ、と思ったこともある。
それでも、そんな家族でも、同じ屋根の下にいるだけで安心できたらしいのだ。どんな暗闇でも、叫べば誰かが駆けつけてくれる。熱を出せば、病院に連れて行ってくれる。
カーテンを買わなかったのは、闇を恐れる潜在意識のなせる業だったのかもしれない。
かと言って電気を点けたら眠ることができない。それはもう、体が受け付けないのだ。難儀だ。
つっこちゃんには、三東先生がいる。どんな関係かはわからないけど、そばに誰かがいるだけで随分と安心できるだろう。その役割は、俺ではだめだろうか。
立ち上がり、カーテンを七割開ける。明日のために、眠らなければならない。
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