第6夜 心の冬

「ロスジェネだって幸せになりたい!」

「誰でも年収300万円、最低保証所得の導入」


 2020年1月10日。中国での新型コロナウイルス感染拡大が、まだ日本で公になっていなかった頃のこと。イーノの姿は、都内の四谷区民センターにあった。目的は、小説のネタ探しだ。

 日本初の「就職氷河期世代の当事者団体」こと、就職氷河期世代当事者全国ネットワーク(氷河期ネット)の結成集会。1975年生まれのイーノも当事者に該当する。


 例の魔女狩りゲームが始まるずっと以前から、イーノは夜になると眠りの中で精神を異世界に飛ばしていた。そしてそれが特別な能力ではなく、誰もが無意識にやっていることだと知った。夢だからと誰もそんなことは信じないし、朝起きたら多くの人は仕事の忙しさに紛れて忘れてしまう。けどこれは、間違いなく世界の裏側の真実。


 この事実を、小説の形で世に広めようと。イーノは何年も前から異世界への夢渡り体験記を書いては練り直すことを繰り返していた。あったことをそのまま書いたのではまとまりに欠けるし、話としても面白くない。

 そこで、自身の氷河期世代としての経験を踏まえて。自分に氷の都ヴェネローンとの不思議な縁が生まれたのは、そもそも日本とあの氷都にいくつもの共通点があったからではと。新たな切り口で描くことを思いついた。


 そういうわけで、イーノは偶然ミニブログで存在を知った氷河期ネットと関わることになる。この縁は彼にまた、新たな世界を見せた。

 誰がトップに立とうと、日本の政治は変わらない。誰がどこで、何をしようとも。イーノもまた、確たる根拠も無しにそう考える…どこにでもいる平凡な日本人のひとりだった。


 ところが「彼ら」は違った。どこから駆けつけたのか、会場には記者たち報道陣が詰め掛け。イーノもまた「氷河期世代の方ですか?」と質問を受ける。これは一体、何なのか。

 その後も氷河期ネットの面々は精力的に活動を続け、1月24日には飯田橋のスポーツバー「Wild pitch」で「ロスジェネ食堂」なるイベントを開催する。ここにも多くの報道陣が詰めかけた。今思うと奇跡的なタイミングで、コロナ後に同様のイベントを開催するなら公園などもっと広い会場が必要になるだろう。


 会場で暖かい豚汁を振る舞ってもらったとき、イーノが思い起こしていたのは氷の都ヴェネローンの冒険者向け酒場「白夜の馴鹿亭」でエルルたちと過ごした楽しくも幸せなひとときだった。


 今なら分かる。日本人は長い間、戦後の復興や経済成長を大義名分に、沈黙と忍耐を美徳として権力者に服従してきた。しかし時代は代わり、それは過ちだったことが明らかにされた。イーノの中にあった「氷河期世代としての」学習性無力感は、新たな世界に触れて弱められた。他にもADHDとか、難題はあるのだけど。


 それでも長年に渡り、日本人に浸透した権威の呪縛は強固で。結果的に世の中を変えたのは人でなく、感染症の脅威だった。「彼ら」に忖度は無いし、金持ちも貧乏人も区別しない。人間相手の言い訳は、一切通じない。

 

 十四世紀、ペストの流行はノストラダムスの予言に名高い「アンゴルモアの大王」の元ネタという説もあるモンゴル帝国を衰退させ、人々の精神を支配していたローマ教会の権威をも失墜させた。ボッカチオの「デカメロン」では、禁欲よりも人間性の解放が叫ばれた。この流れは後のルネサンスに通じる。

 今、日本で感染症対策と経済政策で右往左往する政府の姿は、かつての教会権力に重なって見える。日本に蓄積した歪みを正すなら、声をあげるなら今だろう。


 しかし同時に。覚醒の痛みにうめく者、未来への不安に押し潰される者、湧き上がる怒りに取り憑かれた者たちの叫びは、世界の裏側で闇を呼び寄せた。

 そして行き場の無い攻撃衝動に駆られた日本人の一部は、自粛警察と呼ばれる暴挙に走る。あるいは絶望のあまり、自ら命を断つ者さえ出た。保身を第一とし責任逃れに終始する者たちの姿は、どす黒い憎悪をさらに増大させた。


 魔女狩りゲームの運営者、ガーデナーたちは人々の負の感情を格好の「資源」として狙い、悪夢の力を搾取しては自らの力を高める。争いと分断を煽って地球人同士を夢の中で戦わせ、悪夢の力で闇の怪物を誕生させる。メイドインジャパンのモンスターたちはテロ組織が他世界侵攻への手駒に利用する。地球は、特に日本は優れた工場なので侵略しない。何もしないのが、悪の組織に一番好都合。


 これを知っても、あなたは無関心でいられるだろうか。世界には自国さえよければ他は知らないと、一国主義がはびこっているが。コロナ対策に限らず、一国だけでは対処できない問題が世界には山ほどある。物理的に距離は取っても、心の距離はもっと縮めるときではないだろうか。


 ゲームもライトノベルも、痛みを麻痺させるだけの麻薬でいいのか。小説の執筆で類書やライバルにあたるものの情報を集める中、イーノはいつもそんな違和感を感じていた。単純に売れれば、それが正しいのか?


 北欧神話に、こんな言い伝えがある。


 世界の終末ラグナロクが間近に迫るとき、夏が来ないまま風の冬・剣の冬・狼の冬が立て続けにやってくる。吹雪はあらゆる方向から容赦無く荒れ狂い、無数の戦乱が起きて兄弟同士が殺し合う。これらを「フィンブルの冬」と呼ぶ。


 地球はいったい、どうなってしまったのか。エルルの問いかけに、イーノ演じるユッフィーが神話上の出来事を挙げた理由は。

 

 元官僚トップが、社会への責任感からひきこもりの息子を刺殺した。それ以前から日本人は、他者に寄り添う優しさや心の余裕をなくしていた。就職氷河期世代の困窮は、自己責任であるとされた。弱者を見捨てた報いは、社会の閉塞や停滞となって現れた。


 こうして、日本の失われた30年=平成時代は終わり。令和の時代が幕を開ける。


 その誤りがようやく見直されようとした矢先、疫病と歪な政策が経済の冬を呼び、人々の心にまで大いなる冬をもたらした。世界中の人が待ち望んだ、オリンピックの夏は来なかった。


 この国で数十年に渡って撒かれ続けた不和の種、争いの火種、災いの種は2020年、法で裁けない日常の裏側、夢の世界で一気に点火した。ちょうど中国で、春節の爆竹が鳴る頃に。

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