第四話「情非情、胃は異常」

 和葉と浸が再び商店街に集まったのは、22時のことだった。既に飲み屋以外の店はほとんど閉まっており、人通りも少ない。辺りは電灯や店からこぼれる明かりで明るかったが、昼間の賑やかさを考えると薄気味悪い。


「しかし早坂和葉。良かったのですか? 残業という形になりますが……。あ、勿論時間外手当はつけますよ」


「私……雨宮さんの助手ですから! それに、ゴーストハンターの仕事って、結局こういう時間になっちゃいますよね?」


「……そうですね。正直な所、うちの事務所の営業時間はあってないようなものです。アレは単に依頼の受付時間を示すものですが、私は急な依頼でも電話をもらえば受け付けますし、除霊は基本的にこういう時間になります」


 浸は和葉の勤務時間のことを気にしていたが、当の和葉はそれほど気にしていない。ゴーストハンターの助手をやる、と決めた時点でこのくらいのことは想定していたし、そもそも日中は働いていたとは言えない。昼食後はある程度仕事の説明もあったが、どれも事務作業に関するものだ。


 ようやくゴーストハンターの仕事らしくなってきた。そう思って和葉は意気揚々とこの時間に商店街を訪れたのである。


「そういえば、黒いモヤって、悪霊なんですか?」


 ふと昼間の話を思い出し、和葉は問う。本当は昼間の内に色々聞こうと思っていたのだが、事務所に帰るなりまず最初にババ抜きの再戦を要求されてしまったせいで訊ねるタイミングを失っていた。


「ふふ、早坂和葉は見る機会がないと思いますよ。黒いモヤというのは、うまく視認出来ていない霊のことです」


 和葉は、ほぼ全ての霊をハッキリと視認することが出来る。だがそれは全ての霊能者が出来ることではない。


「霊視は霊能者の代表的な能力ではありますが、誰にでも完全に出来るわけではありません。霊の姿形をハッキリと見ることが出来るというのは、それなりに特別なことですよ」


「じゃあ、竹田さんっておじいさんは霊視が得意じゃないってことなんですか?」


「そうなりますね。ぼやけた状態で見えたり、悪寒だけ感じ取ったり、と言った程度なら結構普通の人でも出来てしまうことがありますから」


 そんな話をしている内に、和葉は背筋にぞわりとしたものを感じて肩をびくつかせる。


「あ、雨宮さん……今っ……」


「流石は早坂和葉ですね……私は全く感知出来ませんでしたが」


 浸はしばらく辺りを見回していたが、やがて和葉の視線の先に気づく。街灯の下で、コートを着込んだ黒髪の女がうつむいたまま立っている。


「早坂和葉。コントロール出来ますか? あなたの場合霊感が強過ぎて過剰に霊を理解してしまう。むしろ感じないように意識してみてください」


 浸の言葉に頷き、和葉は女から目を背ける。浸の言う通り、和葉は過剰に霊を感じ取ってしまう。それは意識しなくても勝手に出来てしまうことで、だからこそ和葉にとって有害な力だった。


 普段ならこのような状況に陥ればコントロール出来ずに悲鳴を上げてしまうのだが、隣に浸がいるという安心感がそれを防ぐ。和葉はなるべく落ち着くよう意識して、霊を過剰に感じ取り過ぎないよう意識する。


「どうですか?」


「……ぼんやりと、悲しい気持ちが伝わってきます。敵意も。多分、悪霊……です」


「それだけわかれば大丈夫です。早坂和葉、下がっていてください」


 浸はそう言って僅かに微笑みかけると、背中のバッグから青竜刀を取り出し、バッグをその場に落とす。


「バッグを頼みます」


 浸はそれだけ言い残すと、すぐさま悪霊との距離を詰める。その瞬間、悪霊が顔を上げた。


 その顔は、物理的にドロドロに歪んでいた。これではまるで高熱で溶かしたマスクである。しかし浸は躊躇せず悪霊へと向かって行く。すると、悪霊の方は右腕を軽く振り上げる。その右腕は瞬時に変質し、巨大なハサミへと変わっていく。


「……やはり手遅れですか」


 青竜刀を構えた浸に、悪霊は大きくハサミを薙ぐ。浸がそれを青竜刀で受け止めると、関節の外れるような厭な音が響いた。


「わっ……ワっ……」


 でろりと伸びた首が浸の眼前まで接近する。言いようのない異臭が浸の鼻孔を刺激し、悪霊の顔が歪みながら音を発する。


「ワタし……き、き……れ、イ……?」


「……ええ。ですから、罪を犯してはなりません」


 浸は力強く青竜刀でハサミを弾き、態勢を崩した悪霊へ肉薄する。


 悪霊化した霊魂はもう自発的に成仏することはない。悪霊化し、生者へ害を成すようになった時点で強制的に除霊する以外に道はない。


 浸が容赦なく袈裟懸けに切り裂くと、悪霊は奇声を上げながらその場に崩れた。


「――――雨宮さん!」


「早坂和葉! まだこちらへ来てはいけません!」


「でも……っ!」


 和葉は既に、悪霊と共感反応を起こしていた。


 意識してコントロールしたためか、以前程強烈なビジョンは見ていない。しかし彼女が生前、理不尽に自分の顔を失い、その悲しみで霊化したことまで理解してしまっている。


「その人……成仏出来ないんですか!? あの女の子みたいに!」


「……出来ません。悪霊化した霊魂は、祓う以外に方法はありません」


 和葉の気持ちをある程度察しながらも、浸はつとめて冷静にそう告げる。


 これはゴーストハンターとして霊に関わる以上は割り切っていなければならないことだ。


 悪霊化している以上はもう、祓うことしか出来ない。


「あっ……ア……!」


 更に長く伸びた首がのたうち回り、浸達を威嚇する。悪霊は更に凶暴化し、奇声を発しながら浸へと襲いかかる。


「っ……!」


 悪霊の動きは思ったよりも激しく、速い。いつの間にか二本に増えたハサミが交互に浸へ襲いかかり、その対応に追われていると今度は伸びた頭が噛み付いてくる。浸は今、三方向から来る攻撃への対応を強いられていた。


 浸は霊感応を最も苦手としているが、決して何も感じないわけではない。こうして激しく戦っていれば、僅かではあるものの悪霊の感情というものを受け取ってしまう。和葉程ではないにしても、この悪霊の悲しみや無念を理解は出来た。


 だが、それだけだ。


「はっ!」


 強く息を吐き出すと同時に、浸の青竜刀が悪霊のハサミを根本から切り裂く。そのままもう片方も切り落とし、高く跳躍すると浸は悪霊の首を切り落とした。


 容赦は出来ない。和葉程感傷にひたることは出来なかったし、何より悪霊化した霊魂は祓うしかない。要するに、感情よりも理屈や合理性が先に来てしまうのだ。


「……罪を犯す前に会えて良かった……。せめて安らかに眠ってください」


 それでもなるべく優しく言葉をかけるのは、悪霊が元は人間であったことを忘れないためだ。冷静に祓い続ければ、浸はいつか情を忘れてしまう気がしていた。


「アディオス。良い旅を」


 静かにそう言って、浸は悪霊の頭に青竜刀を振り下ろす。


 その一撃で、悪霊は完全に力尽きた。徐々に消えていく悪霊を、浸は忘れないように見つめる。一体たりとも、ただの悪霊ですませたくはない。


 浸は完全に悪霊が消えるまでその場に立ち竦んだあと、すぐに和葉の元へと戻って行く。


「雨宮さん……」


「ありがとうございます。早坂和葉」


 不意に礼を言われ、和葉はキョトンとした顔を見せてしまう。そんな和葉に笑みをこぼしてから、浸は言葉を続けた。


「この仕事は、情が邪魔になります。一歩間違えば私だけでなく、関係ない人にまで被害が及びます」


「ごめんなさい……私……」


 言いかけた和葉の言葉を遮るように、浸は首を左右に振る。


「いえ、私は感謝していますよ。この仕事は情が邪魔になるとは言いましたが、捨てれば人ではなくなってしまいますから」


 非情に徹しなければならないことの方が多い。だが非情に徹し続ければ、いつか慣れて情を完全に手放すことになる。機械のようになるのを、浸は強く拒んでいた。


「私は霊感応が苦手で、霊の感情をあなたのように汲み取ることが出来ません。このまま祓い続けていれば、いつか完全に非情に徹するようになるかも知れない」


 多くのゴーストハンターはそうだ。霊は祓うべきものだと割り切り、そこに余計な感情は挟まない。


「ですが、私はそうはなりたくないんです。早坂和葉……優しいあなたが傍にいてくれれば、情を捨てそうになる私を引っ張り上げてくれるような気がするんです。霊が人であったことを、忘れないように」


「そ、そうでしょうか……? 私、そんな大それたこと出来ますかね……?」


「今していたんですよ早坂和葉。やはり、あなたを助手に選んで良かった」


 街灯に照らされた浸が、穏やかに微笑む。確かな確信の込められた浸の言葉に、和葉は照れ臭そうにはにかんだ。






「……そういえば、今夜の除霊って依頼でも何でもないですよね?」


 一度事務所に戻り、和葉がそう言うと、浸はそうですね、と答えつつ何やら棚を漁り始める。


「……これってもしかして、雨宮さんタダ働きなんじゃ……」


 思わず和葉がそんなことを口にすると同時に、浸は棚から引っ張り出してきたコンロをテーブルの上に置く。


「……ん?」


「何を言いますか。依頼料なら今朝たっぷりいただきましたよ」


 そう言って次に浸が持ってきたのは、小さな鍋だ。中には野菜や肉、魚等の具材が入っており、和葉もすぐに浸の意図を理解した。


「さあ、報酬は山分けとしましょう。ご飯も炊けていますよ」


「雨宮さん……!」


「それから私のことは浸、と呼んで頂いて構いませんよ。親しみを込めてください」


「……はい! 浸さん!」


 こうして、和葉の歓迎会と称されたたった二人の鍋パーティが始まる。和気藹々とした雰囲気の中、浸も和葉も楽しそうに微笑みながら豊富な具材を口にしていく。




 余談だが、和葉は夕方に一度家に帰って夕飯を既にすませている。それでも彼女は浸の用意した米をほとんどたいらげた。

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