第十五話「あなたのお名前は?」

 それは薄暗い、逢魔ヶ時のことだった。


 橋の下の河川敷を一人の男がフラフラと歩く。


 体格の良いその男は、黒ずんだ血で汚れたTシャツとジーンズという不気味な出で立ちだ。うつむいたまま歩く男は、正面に小さな人影を見て歩を止めた。


 もうほとんど暗闇みたいな橋の真下で、その人影はジッと男を見ている。男はその人影を認識こそしていたが、ただそれだけだ。足を止めるだけで、何をするでもない。小柄な体格やロングヘアのシルエットからして、この人影は少女のものだろう。


「おっす」


 影は右手を上げて、妙に気さくに声をかける。だが男は反応しないまま、ただジッと見つめていた。


「駄目よ~~~挨拶されたらちゃんと返さなきゃ~~~~~」


 その少女は甲高い声でそんなことをのたまうと、小走りに男へ駆け寄る。


「かわいそうに。こんなお顔になっちゃって」


 そう言って少女は、背伸びして男の頬へ手を伸ばす。


 もっとも、ありもしない頬には手は届かないのだが。


「大丈夫? 痛い? 私だったら、そんなお顔じゃお外は歩けないなぁ」


 男の顔は、半分がぐしゃぐしゃに潰れてしまっていた。もう半分も血まみれで、どう考えても即死しているハズの状態だ。


「でも大丈夫。私がそんな傷、隠してあげちゃうよん、よんよん」


 少女はそうおどけて両手の指を二本ずつ立てて4を示しながら笑う。


 そしてポケットから包帯の塊を取り出すと、その包帯で男の顔をぐるぐると巻き始めた。


「ちゃんとお目々とお口は出しておこうね~~~。おーこわ。ミイラってやっぱこえーわ」


 わざとらしく身震いしつつ、少女は包帯を巻いていく。男はわけもわからないまま、なされるがままミイラ男にされていった。


「はい、終わり! オッケー!」


 手際よく全身を包帯だらけにされた男は、しばらくそのまま立ち尽くしていたが不意に苦しみ始める。男の身体を暗い紫色の何かが覆い、男はうめき声を上げる。


「いーじゃんいーじゃん、良い感じじゃん? それでは最後に質問です。あなたのお名前は?」


 右手を、マイクを持っているかのように握り、少女は男へ向ける。


「と、と……」


「ト?」


「トン……カラ……トン」


 名もなき亡霊が、怪異の名を得た瞬間であった。










 般若さんの事件から一週間後、雨宮浸は無事に退院する。しかし和葉と露子に必死で説得され、結局それから三日間は休養ということになり、事件から十日経ってからようやく浸は事務所を訪れた。


「ふふ……やはり事務所にいるとようやく復帰した感じがしてきますね」


 自分のデスクに腰掛け、満足げに微笑む浸を見て、和葉も笑みをこぼす。一時はどうなることかと思ったが、ひとまずはいつもの日常を取り戻せそうだった。


「早坂和葉、事務所の番をありがとうございました。きちんと掃除してくれていたようですね」


「ええ、それはもう! ピカピカですよ! ピカピカ!」


 雨宮霊能事務所が休みになってしまった以上、ここの助手である和葉のスケジュールもがら空きということになる。その間、暇を持て余していた和葉は定期的に事務所を訪れて掃除や郵便物の整理等、事務的な作業をこなしていたのだ。


「なんだか仕事がしたくてウズウズしてきましたよ! 私が休んでいる間に依頼の話は来ましたか!?」


 勢いよくデスクから身を乗り出しながら浸はそう問うたが、和葉は気まずそうに顔をそむけてしまう。


「……それが、全く……」


 正直一件くらいは来るだろうと思っていた和葉だったが、そういう話は一切なかった。緊急の場合は露子に頼もうと話を通しておくなど、準備はしていたのだが全然なかったのである。


「……まあ、本来霊のまつわる事件なんてないに越したことはありませんからね」


 特に残念がる様子もなく、浸はデスクに座り直す。


「ですよね!」


 仕事がないと言えば寂しいが、それは平和と言い換えることも出来る。浸の考え方に賛成し、和葉はコクコクと頷いてみせた。


「では、久しぶりに商店街に顔を出しましょうか。何か聞けるかも知れませんよ」


「はい!」


 ついでに昼食は商店街でとろうという話になり、二人は商店街へと向かった。






 商店街の様子は相変わらずで、みんなが浸の復帰を祝ってくれていた。そのせいかまたしても野菜やら果物やらをもらうことになってしまい、昼食時には既に浸の両手は手提げ袋で埋まってしまっていた。


「……良いことを思い出しましたよ」


「え、どんなことですか?」


「ふふふ……早坂和葉はきっと喜びますよ。ちょっと持っていてもらえますか?」


 和葉が浸の手提げ袋を受け取ると、浸は財布を取り出して一枚の割引券を取り出して見せる。


「そ、それは……!」


「ええ、ラーメンたけしの割引券です。以前もらったのを忘れていました」


「ということは!?」


「はい、今日はラーメン猛で食べましょう!」


「わぁい! 浸さん大好き!」


「ふふふ……ふふふふ……」


 今にも踊りださんばかりにはしゃぐ和葉と、得意げに笑みを浮かべる浸。はたから見ると変な二人組だが、商店街の面々はこんなやり取りを見るのには慣れている。特に取り合うわけでもなく、微笑ましく見つめるだけだった。


「はやく行きましょう! ラーメン!」


「ええ! ラーメン!」


 みんな大好きラーメン猛。和葉は勿論、浸もラーメンは結構好きなのであった。






 ラーメン猛は、商店街の隅の方にある小さな個人経営のラーメン屋だ。店主の藤田弘海ふじたひろみは穏やかなおじいさんで、浸とも和葉とも面識がある。


「まさか和葉ちゃんが浸ちゃんの助手になっていたとはね。驚いたよ」


 弘海は嬉しそうに二人を出迎える。


 少し早めに来たおかげか店内は空いており、ゆっくり食べられそうなことに和葉は安堵した。


「私も最初は驚きましたよ。早坂和葉がここの常連だったとは」


「和葉ちゃんはすごいぞ。大人も食べ切れないことがある藤田スペシャルを替え玉アリでたいらげちまう。二人共、いつもので良いかい?」


 二人が頷いたのを確認すると、弘海はすぐに作業に取り掛かる。和葉と浸はカウンター席に座り、一息ついてからお冷で喉を潤した。


「いつものというと……早坂和葉は藤田スペシャルを?」


「はい! 替え玉アリで! 浸さんは?」


「私は通常の猛ラーメンですよ」


 藤田スペシャル、というのは野菜やチャーシューが麺を覆い隠すほどに盛られた所謂二郎系と呼ばれるメニューである。これを替え玉アリで食べるというのだから、やはり和葉の胃袋は尋常ではない。もっとも、慣れてしまった浸は今更驚きもしなかったが。


 二人がラーメンを待っていると、店内に一人の男が入ってくる。薄手のトレンチコートにスーツという出で立ちの、背の高い細身の三十代くらいの男だ。


 男は薄っすらと伸びた無精髭を撫でながらカウンター席まで歩いてくると、浸を見つけて小さく手を上げる。


「おーい浸ちゃん、久しぶりー」


「おや、あなたは……」


 声に気づいて浸が振り向くと、男はにっこりと笑ってから浸の隣へ座る。


「おっちゃん、いつものやつね」


「あいよ」


 常連らしく、男は軽い調子で弘海に注文してから一息つく。


八王寺瞳也はちおうじとうや。お久しぶりです。休憩ですか?」


「そーよ休憩中よ。そっちの子は?」


 八王寺瞳也と呼ばれた男は、そう言って和葉に目を向けた。


「早坂和葉です。私の助手ですよ」


「おほ~浸ちゃん助手取ったの? いやあかわいい子だね、よろしくね~」


「あ、はい、よろしくお願いします!」


 ひらひらと手を振る瞳也に、和葉は律儀に頭を下げる。


「いやあ羨ましいねぇ。おじさんにくれない?」


「そうはいきませんよ。早坂和葉はうちの事務所に必要な人材ですからね」


「あ、そりゃそーだよねぇ。じゃあ、早坂ちゃん今度個人的に会わない? おじさん何でも奢っちゃうよ」


「え、ほんとですか!?」


 瞳也の冗談を真に受けてしまう和葉だったが、カウンター越しに弘海が瞳也の頭を軽く叩く。


「雑なナンパしてんじゃねえ。すまないね、和葉ちゃん」


「あ、いえ……ナンパだったんですか?」


「ナンパだよ~」


 おどけた様子でそう言って、瞳也は笑って見せる。


「あ、そーだ浸ちゃん。ちょっと良いかな?」


「はい? 何でしょう?」


 浸が問い返すと、瞳也は急に真剣な表情で口を開いた。


「包帯男って知ってる?」


「……包帯男?」


「そ。言葉そのまんまね。最近目撃情報が相次いでてさぁ。その感じだと心当たりはなさそうね」


「そうですね……力になれず、申し訳ありません」


「あ、いーのよいーのよ気にしないでって。ただまあ、ちっと危なそうだからさ。こっちとしても何かあるようなら捜査も視野に入れなきゃなんだよね。もっとも、上はあんま気にしてないみたいだけど」


 瞳也は呆れたようにため息をつき、お冷を口にする。


「……トンカラトン、という噂なら昔耳にしたことがありますね」


「ふうん?」


 軽く相槌をうち、瞳也は浸の次の言葉を待つ。


「全身に包帯を巻き、刀を持って自転車に乗った怪異です。彼に出会うとトンカラトンと言え、と命令され、トンカラトンと答えれば見逃してもらえます」


「答えなかったら?」


「斬り殺され、トンカラトンの仲間にされてしまいます」


 真顔で浸が答えると、瞳也はその場で軽く吹き出してしまう。


「なるほどね。そりゃ子供が面白がりそうな噂だ」


「ええ。私が噂を聞いたのも子供の頃でしたから」


「……だが、包帯男がマジでソレなら笑えないな、それ」


 急に声のトーンを落として瞳也がそう言うと、一度その場に沈黙が訪れる。もし目撃情報のある包帯男がトンカラトンと呼ばれる存在で、本当にトンカラトンと言わなかった者を斬って仲間にしているのだとしたら……。


 浸や瞳也だけでなく、和葉までもがそんなことを考えていると、和葉と浸の前にようやくラーメンが置かれた。


「お待ちどーさん」


「わぁ!」


 しかし和葉の思考は、ラーメンを前にして完全に打ち切られた。もうラーメンのことしか考えられない。


 幸せそうにラーメンを見つめる和葉と、口をあんぐりと開ける瞳也。数秒、沈黙が訪れたが、瞳也は目を丸くして和葉に問う。


「早坂ちゃん、ほんとにそれ食うの?」


「はい! 替え玉もします!」


 瞳也はしばらく、目を丸くしたまま固まっていた。

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