第十話「私はゴーストハンター」

 数秒、和葉は放心状態に陥りかけていた。しかし健介に揺さぶられ、和葉はすぐに正気を取り戻す。


「お姉ちゃん! お姉ちゃん! あいつが!」


 健介が指差しているのは、浸を退けたことで悠然と歩み寄ってくる般若さんだ。近づいてくれば近づいてくる程、和葉は彼の怨念にあてられそうになる。浸がいなくなったことによる絶望感もあいまって、その場から動けなくなりそうだったが、どうにか気を奮い立たせて健介と共に立ち上がる。


「は、走れる!?」


 健介が頷いたのを確認すると、和葉は健介の手を引いて全速力で走り始める。弓で応戦する、という考えも和葉の中には僅かにあったが、誰かを守りながら戦うような力は和葉にはない。そもそも、和葉に出来るのは浸の後方支援だけだ。


 もっとも、般若さんの周りに霊壁が発生している以上、和葉の力では突破することはそもそも不可能だったのだが。


 浸のことは一旦考えないようにしながら、和葉は健介と共に必死で走る。般若さんの気配はゆっくりと和葉達に近づいてくるため、このまま走れば振り切れるかも知れない。まずは般若さんを撒いてから、それからどうするのか考えたかった。


 和葉はそれ程体力のある方ではなかったし、まだ幼い健介もそれは同様だった。しばらく走っている内に、二人共すぐに息を切らしてしまう。


 しかしその頃には般若さんの気配も遠くなっており、和葉は大木の陰に健介と座り込む。


(……霊は霊力を探知するって話だから……あんまり隠れる意味がないかも)


 浸に教わったことを思い出し、意味がなかったのではないかと不安になる和葉だったが、休むためによりかかる場所は必要だった。


 和葉も健介も、数分は息を整えるのに必死で会話が出来なかった。和葉は次に走る時極力邪魔にならないよう、ポニーテールにしていた髪を手早く団子にまとめていく。


 そんな和葉を見つめながら、健介は震えながらごめんなさい、と呟いた。


「……え?」


「ごめんなさい……僕のせいで……」


 うまく聞き取れずに和葉が聞き返すと、健介は我慢出来ずに泣き出してしまう。


「僕達が……あんな場所で遊ぼうとしたから……もう一人のお姉ちゃんが……」


「…………」


 和葉は、すぐに言葉を返すことが出来なかった。逃げるのに必死で頭の隅においやられていた浸のことを思い出してしまい、更に気分が沈み込みそうになってしまったからだ。


 浸はあの後どうなったのだろうか。川に落ちたのは音からして間違いない。地面に落ちなかった分生存の可能性は高いが、川が浅かったら……? そう考えると不安で仕方がなかった。


(……こんな時、浸さんだったらどうするんだろう)


 浸の顔を思い出すと、彼女はいつだって不敵に笑っていた。和葉がどんなに不安でも、浸は不敵に笑って立ち向かっていた。


「……大丈夫」


 根拠なんて少しもなかった。般若さんと戦える浸がいない今、和葉には般若さんに対抗する手立てはない。


 それでも、それでもきっと、浸が同じ立場なら健介を不安にさせたりしない。だから和葉も、健介を不安にさせたくなかった。


「大丈夫だよ! きっと逃げ切れる! 頑張ろう! 何があっても私、健介くんのこと助けるよ!」


「お姉ちゃん……!」


 なんとか無理矢理声を張って、和葉は自分を奮い立たせる。もし浸が無事で、再会出来たら、その時は胸を張って自分は頑張ったと言いたかった。


「そうだ!」


 そこでふと、露子と連絡先を交換していたことを思い出す。あのペット霊園での事件のあと、浸を通じて和葉の携帯へ連絡が来ていたのだ。


「健介くん、今から強くてかわいい助っ人を呼ぶから安心しててね!」


「え、かわいいの……?」


「かわいいよ!」


 このやり取りを本人が聞いたら怒り出すだろうが、とにかく和葉は少しでも明るい空気にしたかった。半ば強引に笑顔を作り、勢い良く話すことで和葉は気を張り通すことに決めた。


 露子に電話すると、すぐに彼女は応答した。なるべく簡潔に事情と大体の現在地を話すと、聞き終えた露子は真っ先に怒鳴り散らした。


『そーゆー時は誰より先にあたしに相談しなさいよバカ!』


「ご、ごめんなさい! だから今真っ先につゆちゃんに連絡を……」


『そうじゃなくて! 般若さんってわかった時点でよ! このおとぼけ!』


「ひええ……」


『とにかくわかったわ。浸は異様に丈夫だから死にはしないと思う。ただ……』


「ただ……?」


『怨霊が相手だと、あたし一人じゃ難しいかも知れないわ。とにかく今すぐ行くから、無事でいなさいよね!』


「はい! お願いします!」


『それとアンタ、つゆちゃんって言うのいい加減……』


 しかし電話の向こうで露子が何か言いかけた瞬間、和葉は怖気を感じて震え上がる。般若さんの気配が、急速にこちらへ近づいてきているのだ。


「あ、あれ!」


 健介が指差した方向を見ると、般若さんらしき人影がこちらへ走ってくるのが見える。それも和葉達の方を目指して真っ直ぐにだ。


 足元から這い上がってくるような恐怖心に一瞬戸惑ったが、和葉はすぐに健介の手を掴む。


『ちょっと! どうしたのよ!』


「ごめんなさい!」


 説明する余裕もなく、とりあえず謝罪だけして和葉は通話を切る。どこまで走れるかわからないが、追いつかれてしまえば一巻の終わりだろう。露子が事務所からここまで来るのにどれくらいかかるのかはわからないが、とにかく彼女が到着するまでは健介を守らないといけない。


 しばらく走ってから、和葉は一度足を止める。


「お姉ちゃん!?」


「……そうだ。そうだよ、私が囮になれば良いんだ」


「えっ……?」


「健介くん、ここは任せてはやく逃げて」


「で、でも……!」


「ほんとはお姉ちゃん、すっごく強いんだから! あんなおばけやっつけて、すぐ迎えに行くからね」


 決してそんなことはない。和葉の力では般若さんには太刀打ち出来ない。しかしそれでも、健介だけでも逃がすことが出来れば良いと思えた。


「ほら、はやくいって。大丈夫だよ」


 そう言いながら、和葉はポケットからキャンディーを一袋取り出して健介に握らせる。


「これ舐めてちょっとだけ元気出して……ね?」


 健介はしばらく躊躇っていたが、和葉の覚悟を察したのか、その場から走り去っていく。和葉はその背中を確認しようともせず、すぐに弓を構えて迫りくる般若さんに向けた。


「ふふふ、ここから先は……通しませんよ!」


 震える声で少しだけ浸を真似て、和葉は般若さんを射る。しかしその矢は、般若さんの纏う霊壁によって完全に防がれてしまう。


「……っ!」


 それでも二射、三射と続けて射るが結果は同じだ。般若さんの動きも止まる気配がない。


「浸さんっ……!」


 健介がいなくなったことで、こらえていた涙がじわりと溢れてくる。もうこれ以上気を張っていられなかった。


 般若さんから感じられる怨念は相当なものだったが、霊魂が完全に淀みきり、崩壊しているせいか明確なビジョンは感じ取れない。ただただ、行き場を失った怨念だけが和葉の中に流れ込んでいる。本当はもう立っているのもやっとだったが、ここで膝を曲げるようなことはしたくなかった。


 最後まで立ち向かっていたい。雨宮浸ならそうするからだ。


(私は今まで逃げきた……霊からも、自分の力からも……)


「もう逃げたくない! 私は、変わったんだ!」


 勝ち目がなくてもただやられるわけにはいかない。少しでも健介が逃げる時間を作りたい。攻撃が効かなくても防ぐことは可能なハズだ。この弓がどれだけ丈夫かはわからないが、一度くらいならあの鉈を防げるかも知れない。


 もう般若さんはすぐそこまで来ている。弓を構えて、和葉は意を決する。


 しかし和葉が真っ直ぐに般若さんを見据えたーーーーその瞬間だった。


「……えっ?」


 和葉と般若さんの間に、白い刃が飛来する。勢いよく地面に突き刺さったそれを見て、般若さんは一度動きを止めて刃の飛んできた方向を向いた。


「あれって……!」


 和葉も般若さんも、木の上に立つその人物に目を奪われていた。


 闇に馴染まない、赤いマントをはためかせ、フードを目深にかぶった仮面がこちらを見下ろしていた。


「赤マント……!」


 紛れもなく、以前浸に襲いかかった赤マントだった。


 赤マントは勢いよく和葉と般若さんの前に飛び降りると、ナイフを構えて般若さんと対峙する。


「お前は、ゴーストハンターか」


 低く、抑揚のない声だったが、それが女性のものであることはなんとなく和葉にもわかる。


「わ、わた、しは……」


「ゴーストハンターは全て潰す。だがゴーストハンターでないのなら……用はない」


 これは明らかなチャンスだった。ここでゴーストハンターでないと答えれば、赤マントに般若さんを任せて逃げ出せるかも知れない。


 しかし和葉はその選択を拒んだ。和葉はもう、ゴーストハンターだ。雨宮浸の助手だ。それを口先だけでも否定するのは嫌だった。


「私は……私は、ゴーストハンター早坂和葉です!」


「…………そうか」


 静かに呟かれたその言葉には、僅かに落胆の色が感じられた。すぐさま襲いかかってくるかとも思ったが、赤マントはややためらいがちに和葉の方を向き直る。


「ならば潰すしかない。悪く思うな」


 和葉はすぐに、弓を構える。この距離では厳しいが、なんとか隙をついて距離を取りたい。


 しかしこの状況で大人しくしているような般若さんではない。背を向けた赤マントに対して、般若さんは鉈を振り下ろす。


 赤マントは振り向きもせずにナイフで鉈を受け止めて、和葉から般若さんへわずかに視線を動かした。


「だがまずは……そこの霊から始末する必要がある」


 赤マントは鉈を弾きながら素早く身を翻し、再び般若さんへ向き直る。


「……援護します」


「邪魔だ。必要ない」


 和葉に対して冷たく言い放つと、赤マントはすぐさま般若さんへと向かっていった。










 時は遡り、般若さんが和葉達に追いつく少し前まで戻る。


「はぁっ……はぁ……」


 雨宮浸は、必死で渓谷を登っていた。


 運良く川に落ち、一命を取り留めたもののダメージは決して軽くない。致命傷は奇跡的に避けられているが、所々擦り傷がある他、軽い打撲も複数負っている。本来ならそのまま生身で渓谷を登るなど言語道断だったが、浸はそれでも強引に登っていた。


「二人共……どうか無事で……!」


 十数分かけて、どうにか浸は渓谷を登り切る。一休みしたいところだったが、和葉達のことを考えると休んでいるような余裕はない。青龍刀はどこかに落としてしまったようだが、背負っていた竹刀袋は無事だ。


 橋のそばで放置されているトランクケースを運ぶ余裕はない。浸はすぐに吊橋の向こうを目指して歩き出そうとしたが、身体がふらついてしまう。


「くっ……!」


 吊橋によりかかりながらなんとか歩いていると、不意に誰かが浸の肩を叩く。


「アンタ何考えてんのよ!」


「おや……」


 そこにいたのは、和葉から連絡を受けて駆けつけた朝宮露子だった。和葉との電話の後、彼女はすぐにタクシーを拾って裏山へ到着すると、全速力で吊橋まで走ってきたのだ。


「もしかして無理矢理戻ってきたわけ!?」


「ええ。まさか朝宮露子が来てくれるとは思ってもいませんでした。感謝します」


「思え! そして感謝はそのまましときなさい!」


 露子はそのまま浸に肩を貸そうとしたが、すぐにやめて吊橋の向こうを見る。


「このままアンタを助けたいとこだけど、あのおとぼけ助手が先だわ」


「私もそう思います。是非お願いします」


「あのおとぼけ、アンタがいないからってすっごく気ぃ張ってたわよ。後でちゃんと褒めてやんなさいよね」


「……はい、きっと」


 浸がそう答えたのを確認すると、露子はすぐに駆け出そうとする。しかしその背中を、浸は慌てて呼び止める。


「朝宮露子……般若さんは、霊壁を発生させています」


「…………最悪ね」


「……私に考えがあります。どうか、私が行くまで二人を守ってもらえませんか?」


「……何をする気か知らないけど、わかったわ」


 静かにそう答えてから、露子は今度こそ駆け出した。


「私が行くまで……どうか持ちこたえてください。この……”雨霧あまぎり”なら……!」


 確認するように背中の竹刀袋を握りしめてから、浸は再び歩き出した。

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