第七話「消えるネックレス」

 海に面した港町、院須磨いんすま町には釣りの名所がいくつか存在する。特に庵熊あんくま漁港は人気の高いスポットで、雨宮浸は稀にここへ夜釣りに来ることがある。


「おう姉ちゃん、久しぶりだね。今日も根魚かい?」


「ええ、そうですよ。釣り竿をこれしか持っていませんからね」


 言いつつ、浸は持っている釣り竿を軽く叩いてみせる。するとその直後、わずかに竿が震えた。


「おっと、来ましたね」


 浸はしばらく様子を見ていたが、やがて魚が完全に食いついたのを振動から感じ取るとゆるやかにリールを巻いて釣り上げる。


 釣り上げられたのは全長15cmあるかどうかくらいのメバルだ。


「かわいいねぇ」


「そうですね……この子は返してあげましょう」


 浸はそう言ってすぐにメバルを釣り針から外すと、なるべくゆっくり海面へと落とす。


「そんじゃ、俺は向こうで釣るかね。頑張れよ姉ちゃん」


「ええ。私もあなたの健闘を祈りましょう」


 そうして穏やかに手を振り合い、浸は意識を釣りへと戻す。しかし今日はどうも調子があまり良くないのか、あまり大きな魚は釣れない。どれも先程のメバルと似たようなサイズのものばかりで、煮付けにするには少々心許ない。


(……早坂和葉に煮付けをご馳走する約束だったのですが……)


 当然のことだがいつでも釣れるとは限らないのが釣りだ。今日はもう観念して帰ろうかと浸が思い始めた矢先、長身の女性が浸の傍へ歩み寄ってくる。


 釣り竿を持っていることから、彼女も釣りに来たのであろうことはすぐにわかったが何故か釣り竿しか持っていない。道具入れ(タックルボックス)はおろか、クーラーボックスすら持っていないのだ。


「隣、良いか?」


 女が抑揚のない声でそう言うと、浸は構いませんよ、と答える。女は浸の隣に立つと、今度はジッと浸の方を見つめ始めた。


「ふふ……何かご用ですか?」


「ああ。釣り方がわからないんだ。見せてくれないか?」


 女の言葉に、浸は一瞬目を丸くしたものの、すぐに頷くと釣り針を引き上げる。


「では、最初からやりますので見ていてください。足元に落とすだけなので簡単ですよ」


 一から手順を見せるため、浸は針から生き餌を外して海へ落とすと、新しい生き餌を針へ取り付ける。そしてすぐに海面へ垂らして見せた。


「それだけか?」


「これだけです。後は待つだけでも良いですし、ゆっくりリールを巻いて表層の魚を誘うのも良いですよ」


「そうか……」


 そう答え、女は早速釣り竿を準備し始める。しかしすぐに、女は動きを止めて浸を見つめ始める。


「釣り竿とは……買った時に釣り針がついているわけではないのだな」


「……そうですね。ちょっと待ってください、私の針をつけましょう」


「良いのか?」


「折角の初挑戦なのに、釣り針を買い忘れましたで終わらせてしまうのは忍びないではないですか。遠慮はいりませんよ」


 一度竿をフェンスに立て掛け、浸は釣り針を女の糸にくくりつける。そして生き餌を針へ取り付けてから、女へ竿を手渡した。


「さあ、これで始められますよ」


「感謝する。だが……その、虫は触らないとダメなのか?」


「私は生き餌の方が魚の食いつきが良くて好きなだけですよ。疑似餌でも釣れます」


「生き餌とは虫のことか。疑似餌とはなんだ、ルアーか?」


「そうですよ。虫に似た形の、ワームと呼ばれているものがオススメです」


「そうか。次は買ってくる」


 そう答えてから、女は釣り糸を海面へ落とす。


「……ライトも必要だな。手元が明るいのはお前のライトのおかげか」


「そうですね。夜釣りがメインなら買っておいた方が良いでしょう」


 そんな会話をしたところで、浸はようやくライトの明かりで女の顔をハッキリと見る。褐色の、凛々しい顔立ちの女だ。黒髪をポニーテールにまとめており、かなり活発そうな印象を受ける。そんな彼女の風貌と、虫に触りたくないというギャップがなんだかかわいらしく思えて、浸は微笑してしまう。


「竿を引っ張られている気がする。もう引き上げた方が良いか?」


「……少し様子を見てみると良いかも知れません。まだつついているだけの可能性もあります」


「そうか。釣りは魚と駆け引きをするのか?」


「ええ、勿論です」


「面白い。ならこれは勝負だな」


 女はそう言って笑うと、一気にリールを回し始める。キリキリという音が魚の大きさを感じさせる。女が釣り上げたのは全長30cm近いメバルだった。


「素晴らしい。今日はあまり釣れないと思っていたのですが……随分良いサイズのものが釣れましたね」


「そうか、そのようだな。これは食える」


 女は少し満足げにそう言ったが、釣り竿を持ち上げたまま硬直してしまう。


「どうかしましたか? 取り外しましょうか?」


 虫に触るのを躊躇うような女だ、魚にも触りたがらないかも知れない。そう思って手を伸ばした浸だったが、女は首を左右に振る。


「……持って帰れない。クーラーボックスを持ってきていないのでな」


「…………あー……」


 この女がクーラーボックスすら持ってきていないことを失念していた浸は、思わず言葉を失ってしまった。










「わぁ! 大きなメバルですね!」


 雨宮霊能事務所の午後。テーブルの上に出されたメバルの煮付けを見て、和葉は感嘆の声を上げる。


「中々のサイズでしょう。食べごたえがあると思います」


 とは言っても、和葉が相手では十分ももたない可能性がある。予めわかっていた浸は、メバル以外にもいくつか料理を用意し、テーブルの上に並べた。


「味付けも濃い目で私好みです! 浸さんって釣りも得意なんですね!」


 嬉しそうにメバルをつつきながら和葉はそう言ったが、浸はいえ、と首を左右に振る。


「釣り上げたのは私ではありませんよ。偶然居合わせた方が釣り上げたのです」


「あれ、そうなんですか? でもなんでくれたんでしょう……」


「それが不思議なことにクーラーボックスを忘れてきたようでして。持って帰れないからお前が食ってくれ、と言い残して去って行きました……。次に会うことがあれば改めてお礼を言いたいのですが」


 結局その女は名乗りもせずにその場を立ち去った。メバルは釣り方を教えてくれたことと釣り針の礼だと言っていたが、浸としてはただの善意だ。折角初めて釣り上げた獲物をもらってしまって、申し訳なく思っている。


 和葉は丁寧に行儀よく煮魚を食べているがペースが異様に早い。魚の形をほとんど崩すことなく箸でつまんでいく動きは最早精密機械か何かに近い。事務作業の時はこういった動きは見られないので、食べることに関してだけ何らかの才があるのかも知れない。


 と、浸がそんなことを考えている内にメバルは裏返された。


「あ、ご飯おかわり良いですか?」


 最近躊躇と遠慮がない。初めてあった時のやや遠慮がちな様子はもう残っていない。


「ええ、勿論。沢山用意してありますよ」


「ここで食べるお米、おいしいんですよ! 何か炊き方が違うんですか?」


「普通に炊いていますよ。ですが、お米が市販のものではありませんね。実家で作ったものを定期的に送ってもらっていますので」


 浸は基本的に実家の米だけ食べており、市販のものと食べ比べたことがない。そのため違いがわからないのだが、和葉がこれだけ喜ぶのならきっと市販のものよりおいしいのだろう。


 炊いたばかりの白米を茶碗によそって運んで行くと、和葉はわかりやすく目を輝かせる。和葉の大食いには最初こそ驚かされたが、こうして喜んでいる姿を見ると、浸は沢山食べさせたい気持ちにさせられてしまうのだった。






 和葉が食事を終えてからしばらくすると、不意に事務所の電話が鳴る。すぐに和葉が電話に出ると、どうやら依頼の電話らしいことがわかった。


「はい。はい……わかりました。少々お待ち下さい、今所長に話を通しますので……」


 一度保留にして浸へ相談しようとすると、既に浸は直ぐ側まで歩み寄ってきていた。


「依頼ですか?」


「あ、はい! 段権だんごん団地にお住まいの西村、という方からです。団地周辺で怪現象が起きていて困っている、とのことです」


「なるほど、では行ってみましょうか」


「今日ですか?」


「今日ですよ」


 浸が即答すると、和葉は少し嬉しそうにはにかむ。和葉は、浸のこういう所が好きだった。誰かが困っているとなれば即座に動こうと出来る浸のことを、和葉は尊敬していた。


「はい、お待たせしました。よろしければ今から伺っても……あ、はい! 大丈夫です! 所長がすぐに確認したいと……はい! では午後3時くらいに伺います!」


 どこか声を弾ませながら、和葉は電話の対応をすませる。


「さてと……先に準備をすませてしまいましょうか」


 時刻は午後1時過ぎ、段権団地までは徒歩だとそれなりに時間がかかるだろう。和葉はすぐに頷くと、浸と共に出発準備を始めた。










 段権団地は古い団地で、建物は老朽化しているように見えたが人気はあった。広い団地の中にはちょっとした公園があり、子供たちの遊んでいる姿が見える。浸や和葉を珍しがる子供達に手を振ったりしつつ、二人は依頼主である西村の部屋へと向かった。


 西村は和葉と浸をすぐに2LDK部屋へ招き入れて居間へ通すと、ちゃぶ台へ向かい合うように座る。ちゃぶ台には、既にお茶菓子が用意されていた。


 思わず和葉がお茶菓子の饅頭に目を奪われていると、西村はどうぞ、と和葉に微笑む。


「ありがとうございます! いただきます!」


「わざわざお越しいただいてありがとうございます。本来なら、僕の方から事務所へ伺うべきだったのですが……」


「いえ、お気になさらず。それでその……怪現象というのは?」


 浸が問うと、西村は予め用意していたのか、小さなケースを取り出してちゃぶ台へ置く。


「わぁ、きれいなネックレス……」


 西村がケースを開くと、中から美しいネックレスが顔を出す。ダイヤモンドが散りばめられた高級なそのネックレスに、浸もほう、と小さく声を漏らした。


「これ、妻の形見なんです。僕が以前贈ったもので……これが毎晩、家の中から消えるんです。そしてこの団地の公園のどこかにいつも落ちているんです」


「……それが霊の仕業かも知れない、ということでしょうか」


「……ええ」


 西村は少し思いつめた様子で頷く。西村を含む全員が、その霊の正体を西村の妻だと想定していた。


「わかりました。よろしければ一晩ここで様子を見ても?」


「えっ? それは……雨宮さんが良ければ」


「では決まりですね。食事は……そうですね、折角なので私が用意しましょうか」


「あ、じゃあ私手伝います!」


「ではお願いします」


 勢い良く和葉が手を上げると、浸は穏やかにそう答えた。


「いえそんな……食事まで」


「ふふふ……私は料理が好きなだけですよ。アレルギーや苦手なものがあれば先に教えてください。早坂和葉、後で買い物へ行きましょうか」


「いや、ちょっと! 冷蔵庫のもの使ってもらって大丈夫なんで! 何で僕がいたれりつくせりみたいになっちゃうんですか!?」


 思わず混乱する西村であった。






 浸の提案で、今日のメニューは麻婆豆腐ということになった。冷蔵庫に豆腐やミンチが余っており、戸棚に麻婆豆腐の素が買い置きしてあったためである。浸の懸念は和葉の食欲だったが、流石に人前ではある程度自重してくれていた。


「……霊の気配はどうですか?」


「えっと……すごく微かな気配がずっとあります。ただ、どこにいるのかまではわからないです」


 申し訳なさそうにする西村を居間へ残し、食器を片付けながら浸が問うと、和葉はテーブルを拭きながらそう答える。


 和葉の霊感応はずば抜けているが、霊の方も常に気配丸出し、というわけではない。霊によって活発な時間は違うし、ある程度知性があれば気配を隠すこともある。それでも微かに感じ取れてしまうのが和葉の霊感応なのだ。


「判別は難しそうですね。やはり事が起こるまで待つしかありませんか。そういえばご両親に連絡はすませましたか?」


「はい! 二人共浸さんのこと信用してくれてるみたいで……」


「おや、それは嬉しいですね……。まだお会いしたことがありませんので、一度挨拶に行きましょうか」


「ほんとですか!? きっと喜んで会ってくれますよ!」


 和葉は、浸に会うまでは暗い毎日を過ごしていた。今のようにはしゃいだり、霊能力を積極的に使ったりと言ったことは一切あり得なかった。そんな和葉が、浸の助手をするようになってからは表情が明るくなり、よく笑うようになっている。早坂夫妻はそんな和葉の様子を見て、浸に強く感謝するようになっていたのだ。


「では近い内に。何かお土産を持っていきましょうか。何が良いですか?」


「お米です!」


 即答する和葉に、少しだけ目を丸くする浸だったが、何だか和葉らしくて笑みをこぼしてしまう。


「勿論うちでも色々用意しますからね!」


 そんな他愛のない会話をしつつ、二人は手早く片付けを終えた。






 その日の夜、事は起こった。


 なるべく起きていようとした西村を半ば強引に寝かせ、二人が寝たフリをして待機していると、不意に和葉が表情を変える。


「来ました。部屋の中にいます」


「……わかりました。この中では戦いにくい、一度泳がせて追いかけましょう」


 和葉は頷きつつも、ちゃぶ台の上のネックレスへ視線を向ける。するとそこには痩せ細った長い黒髪の女が、骨と皮だけの手でネックレスを掴んでいる姿があった。


(悪霊化してる……! だけど……)


 悪霊特有の負の感情は確かに感じ取れたが、それだけではない。そのネックレスに対する思い入れや、どれだけ大切に思っているかも和葉には伝わってくる。


 女はまるで空洞のような真っ黒な目で和葉をチラリと見たが、やがて無視してその場を去っていく。鍵が開き、玄関のドアが開かれる音がする。


 霊は大抵の壁くらいのものは任意ですり抜けることが出来るが、ネックレスはすり抜けられないためだ。


「……行きますよ」


「……はい!」


 霊が部屋を出たのを確認してから、和葉と浸はすぐに追いかけ始めた。


 和葉の感覚に頼って霊を追いかけて行くと、霊は団地内の公園のブランコに座り込んでいた。持ち出したネックレスを大事そうに見つめるその姿には、どこか物悲しさもある。思わず和葉が見つめていると、霊は顔を上げて和葉を真っ黒な瞳で捉えた。


「一番をお願いします」


「は、はい!」


 今は人の形を保っているが、もうあの霊は悪霊化している。祓う以外に術はない。


 和葉がすぐにケースから青龍刀を取り出して手渡すと、浸は身構えた。霊はもう、こちらへ殺気を放っている。


 浸は先手を取らず、出方をうかがっている。すると、ネックレスを握りしめる霊の右手から鋭い鉤爪が伸びた。


 口は大きく裂け、鋭い牙が並ぶ。そして下半身は不気味な音を立てながら肥大化し、環形動物のような形状へと変化する。人の上半身を持ったミミズの化け物の完成だ。


「ひっ……」


 怯える和葉を守るようにして身構える浸に、悪霊の鉤爪が襲いかかる。素早く青龍刀で受け止める浸に対して、悪霊の鉤爪が立て続けに繰り出された。


 浸にとっては反応出来ない速度ではない。しばらく受け続けている間に悪霊の攻撃速度を、浸の反応速度が上回る。和葉がある程度距離を取ったおかげもあって、ようやく防御ではなく回避を行った浸は即座に攻めへと転じた。


 跳躍した浸の青龍刀が、悪霊の左腕を切り落とす。悪霊は甲高い悲鳴を上げながらその場で悶えると、一度飛び上がって地面へと潜り始めた。


「も、潜ったんですか!?」


「地面ほどの質量をすり抜けられる霊はいませんからね……ですが、厄介ですよこの状況は」


 霊感応を得意としない浸は、もう既に悪霊の位置が完全にわからなくなっている。それを察したのか、和葉は意識を集中させて悪霊の位置を感知する。深く潜っていてわかりにくいが、高速で地表へ近づいているのがわかった。


「浸さん! 後ろです!」


 和葉の声に対する浸の反応速度はほとんどノータイムと言えた。しかしそれにも関わらず、悪霊の攻撃を回避し切ることは出来なかった。それだけ悪霊の動きが早かったのだ。和葉から浸へ情報が伝達されるコンマ数秒のタイムラグが、悪霊にとって有利に働いている。


「くっ……!」


 どうにか青龍刀で受け止めたものの、反応が遅れたせいで浸は弾き飛ばされてしまう。


 この時点で、浸はこの状況が圧倒的に不利であると判断する。このままでは突破は用意ではなかったし、和葉を攻撃されれば一巻の終わりだ。すぐに浸は和葉の元に駆け寄る。


「一旦引きましょう。引き際を間違えればどちらかが餌食になります!」


「え、あ、はい!」


「あの霊、地縛霊かどうかは判別出来ますか?」


「えっと……多分、地縛霊だと思います」


 何らかの理由で一つの場所に霊魂が結びつき、離れることが出来ない霊が地縛霊だ。以前浸に教わったことを思い出しつつ、和葉はあの悪霊が地縛霊であることを判断する。


 和葉が感知したあの悪霊の場所や物への執着は、間違いなく地縛霊のものだ。


「でしたら一度この団地を出ましょう。走れますか?」


「はい!」


 そのまま、和葉は浸と共に走り出す。悪霊はしばらく下から追いかけてきていたが、一定以上離れるとこちらを感知出来なくなったのか滅茶滅茶に動き始め、団地の外に出ると気配が離れていくのが和葉にはわかった。


「……これは……少し対策を練る必要がありますね」


 口惜しそうにそう呟いて、浸は嘆息した。

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