末路

 昼も近くなって母君が迎えに来ると、ゆき子はもう包帯も手袋も身につけなおして背筋を伸ばしていた。茶碗の箱も戻して外からはそんな手があることなどわからない。

 遅い昼餉を与えられながらゆき子は昨晩の出来事を思い出す。まるきり夢ではない証拠に、金色だった月のしるしは白銀に変じたままだった。


 存在すら知られていない契りの相手は、家どうしの縁談の前には無力だ。何事もなかったかのようにひとつずつ婚儀の準備は進んでいた。相妻家が急いているのは、かねてより臥せっていた末の妹の病が思わしくないからだ。亡くなりでもしたら婚礼どころではない。

 ゆき子の両親としても、破談により家に傷をつけられるのは避けたかった。ただでさえ問題の多い娘だ。けちがついたら二度と嫁ぎ先は見つからないかもしれない。ゆき子が何か喋ろうとすれば母君は必ず腕をつねりあげた。

 眉間の皺を隠そうともしない娘を、今や誰も見ていない。大事に守ろうとするのは契約ばかりだ。


 漆黒の婚礼衣装に身を包み、白粉おしろいを塗り込めた顔に口紅ばかりを色濃く差して、ゆき子は嫁いだ。緑の濃い山々と熱風にそよぐ青い稲穂に彩られた道をゆき子の生家から相妻家へと行列は進んでいく。蝉しぐれがはやしたてる。照り付ける太陽を気持ちばかりの傘が遮っていた。結い上げた髪の生え際から汗が滴って、衣装の襟を濡らす。

 居並ぶ両家の誰ひとり、儀礼の言葉を聞いていない。蝉の方がよほど誠実に愛を語れるだろう。女たちの襟もとは汗で流れた白粉に汚れていた。ゆき子が相妻家の敷居をまたいだなら、炎暑にとろけかけていた人々の表情はさらに緩む。

 もう元の家には戻れない。他人になった家族はばらばらと帰ってゆき、新しい夫婦が相妻家の奥へ通される。

 湯浴みの後は日が暮れるまで酒宴が続いた。正継は赤らんだ顔でゆき子の手袋に包まれた指や甲ばかり見ていた。


 月が明るさを増す頃、ゆき子と正継は油皿すらない部屋にまとめて閉じ込められる。戸を押さえられているわけでもあるまいが、出てゆくわけにもいかない。

 洗ってあるはずの正継の肌は、まだかすかに汗の匂いがする。もったいぶっていても仕方ないとばかりにゆき子は手袋を脱ぎ捨てた。雪あかりのような白銀が指の間にひらかれている。

 正継がゆき子の方に伸ばした腕は空振りに終わり、仕方なしに自分の手袋を外す。温かな黄金色が丸く肥った指の先に宿っている。ゆき子のしるしに触れるとき、正継の指は震えていた。

 握りも撫でもしないで直接つながれた指先に、ゆき子は小さく歯を見せて笑った。誘うように親指で正継の指の腹に線を引く。湿りを帯びた肌がびくりと揺れる。正継の頬は引きつっていた。


 光は融けあわず、金と銀はり糸のようにねじれながら膨らんでいく。

 初夜に灯火が要らないわけは訊かなくともよい。流れ星でも匿ったかのように部屋は明るかった。寝室の鎧戸は固く閉ざされて、夫婦の営みは他所に知られない。それはどの家も同じことだ。

 たとえば夜道を歩いていて目を塞がれる子どもがあるとすれば、正式でない交わりを刹那に悦ぶ男女が道ならぬ光を放っているのが常だった。

 手は、しるしは、隠されてしかるべきものだ。


 精神的に優位なのはゆき子だった。こぼれる光の中で表情は立体的に語る。時を追うごとに正継は不機嫌になった。ゆき子はただ目を瞑って眩しさに耐えるように座っている。

 ふたつのしるしが離れる瞬間まで、彼らの色はひとつにならなかった。手と手が遠ざかり光の粉は宙へ消えた。正継はゆき子に背を向けて布団にくるまる。

 ゆき子は手袋を丁重に身につけた。先ほどよりも青みを強くした光がひとしずく、びろうどの上をかすめていった。暗闇に閉ざされた寝室にばらばらの呼吸が残される。それらは一度も重ならないまま、朝陽が鎧戸を温めはじめるまで続いた。


 婚礼から四日が過ぎて、ゆき子のしるしは卵を生んだ。透明で柔らかな、小指の先ほどの球。相妻家の女たちは早すぎると囁きあった。水をたたえた玻璃の鉢に沈めても、それは一向に子のかたちをなそうとしない。十日もすれば膜の中で分裂してゆく子素しそをみるのが普通であるはずだが。

 ひと月もあれば水を泳ぐ身体を得る、ふた月めには手足を得る。ところがゆき子の卵は水を吸ったように膨らんでいくばかりだった。しだいに膜も白く濁って、ぶよぶよとふやけたようになってくる。

 さすがにこれはおかしいと、呼ばれた医者が水から卵を取り出す。医者の皮手袋の上にどろりと崩れたのは、肉が半端についただけの無数の骨片だった。大きさからすれば指と思われた。


 ゆき子は呪われた娘として離縁を言い渡された。二度と帰れないはずの生家は、かすかな秋の気配とともにゆき子を迎え入れた。

両家は箝口令かんこうれいを敷いたが、呪いのたぐいであるとの噂は簡単に広まった。そもそも出戻りなど余程の事情がなければまかり通らない。父君はゆき子が病を得たのだと説明して回った。これ以上の悪評が立たぬよう、ゆき子はあの物置に隠されることとなった。


 生家に戻ったゆき子は、毎日のように卵をこぼすようになった。卵は玻璃に溜まった水などなくとも膨らんだ。ふやけることもなくなって、透明な膜の中に生じるのはいつも手より先の部位だった。

 爪、骨、肉。大きくなった卵はやがてはじけてそれらの破片をばらまいた。爪や時折あらわれる完全な指などはどことなくあの手に似ていた。ゆき子は探したけれど、もう物置の中に手は存在しない。月と日が交互にめぐるばかりの部屋でゆき子はまどろむ。

床に散乱したものは時が経つと春の雪のごとく消える。血なまぐさい景色にもかかわらず臭気はない。ただ夢のように、ゆき子が愛したかもしれないものの名残が生まれては、消える。

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指のある部屋 夏野けい/笹原千波 @ginkgoBiloba

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