ゆるし

 ゆき子が知らないだけで、縁談はとっくに持ち上がっていたのだった。

 山の麓にかかるように屋敷を構える相妻あいづま家の長男正継まさつぐは、顔も合わせぬうちから乗り気であるようだった。

 家の中ではとんだ跳ねっ返りでもゆき子の見目は悪くない。由緒だけは長い家どうしであったし、誰もが妥当と断じるところだ。二人のしるしが出た時期とてひと月と変わらない。

 これも導きでありましょうと、両家はさっそく食事の席を構えることとなった。ゆき子の手の甲はまだ痛むというのに。


 紋入れの儀式ほど重ね着はしないが、上等の絹で織った綸子はとろりと密度が高い。おまけに全面に刺繍を施しているのだからゆき子の肩を落とさせるのが憂鬱ばかりとは言い難かった。

 正午ちょうどに相妻家の一行が訪れて、正装に身を固めた両親が直々に出迎えた。客間には一枚板の座卓が堂々と据えられている。座布団は真綿の入った分厚いものだったし、食器もすべてこの日のために磨き上げた秘蔵の品ばかりだった。

 用意させた食事は山菜から海の幸まで季節のものを取りそろえ趣向を凝らしている。普段ならば人目もはばからず平らげただろうが、執拗に締められた腰紐とつづれの細帯のせいで、ゆき子の箸は進まなかった。

 相手方の正継は丸い顔に切れ長の目と薄い唇を持ち、ねっとりと絡むようにものを見る男だった。曇りのない漆の椀を、青みを帯びた白磁の小鉢を視線が通るとき、ゆき子は自分の身体にじっとりと触れられているような気がした。きれいに磨き上げられた食器に指のあとをつけていくような汚らしさを感じてろくに顔を上げられなかった。正継は何度も何度もゆき子に視線を送っていたのだが。


 一言に収めるならばゆき子は正継が気に入らなかった。何よりも嫌だったのは手だ。

 手袋は一級品のびろうどらしく、なめらかにひそやかに輝く。ところが正継の短い指は先端を無様に余らせていたし、反対に肉付きの良さそうな掌ははちきれんばかりに膨れていた。顎の下に蓄えられた贅肉はとりたてて多くない。肥大しているのはむしろ意識であるかもしれなかった。さも己に決定権があるかのように、正継は目に映るすべてを値踏みしている。


 話が弾むのは親ばかりだった。それとて表層のみのことだ。所有する畑の収穫やら財産やら、一皮剥けば蹴落とし合いに過ぎなかった。ゆき子の意向など存在からして消されている。

 だから白粉で隠せないほど蒼ざめたゆき子に気づいたのは正継だけだった。

「ゆき子さん?」


 とはいえ座卓の向こうでは手の出しようもない。母君にあつらえてもらったばかりの手袋を濡らしてゆき子は嘔吐した。こうなっては会食どころではない。緊張していたようで、などと父君は言い訳を並べて客人たちに退出を促す。

 ゆき子の不調が嫌悪感のためであったのか、お転婆娘をいましめるべく締め上げられた腰紐が引き起こしたのかは当人にもわからない。

 両親はゆき子の食い意地のせいにして、いつものごとく物置に閉じ込めた。月明かりが箱や行李を鈍く照らしていた。部屋着になったゆき子はむしろ安心して布団を抱き寄せ、いつもの位置へ寄る。


 工芸品のような手は変わらずそこにあった。ずいぶん久しぶりだった。月のしるしが開いてからというもの、仕置きを受ける暇さえなかったのだ。ゆき子は汚してしまった手袋のかわりに、裏のざらつくびろうど一枚をまとっている。手は誘うように指を這わせてきた。今までになく確信めいた動きだった。


「いいよ、外したかったら外せばいい」

 投げ出したならば、手はゆき子を放っておかない。優しくも鮮やかに抜き取られた手袋、包帯が白々とゆき子の肌を覆っている。指先が包帯の端をほどく。くるり、くるりと手は自らにそれを巻き取っていく。自分を飾り立てるかのように。癒えかけた紋入れの傷がところどころみみず腫れになっている。包帯を投げ捨てた手は慈しみ深く甲をなぞる。

 ゆき子の人差し指と中指のあいだに、しるしが開かれている。黄金色の光が火の粉めいて立ちのぼる。折しも今宵は満月だった。

 対する手の人差し指には鬼火のような青が灯る。あくまで中性的だった造形が、心なし骨ばって大きく、男のように浮かび上がる。鬼火の指はゆき子の右手をくまなく触れた。治りかけの肌をそっとなぞり、湿りを帯びた掌を深くまさぐる。

 指を一本ずつ握っては離し、甲と甲を沿わせて骨を薄い皮膚ごしに隣り合わせる。温度の違うふたつの光が尾を引いて交わっていた。ゆき子はくすぐったそうに笑った。


「あなただけがわたしに優しい。あの人に嫁ぐくらいなら、ここで死んでもいいくらい」

 ゆき子の言葉は明確に許しだった。交差していただけの光が互いに融けあい、白銀に変じて弾ける。今や二つの手の周囲は満ちきった月よりも明るい。相手はゆき子を強く握りしめた。白い頬を涙がひとすじ伝った。

「ずっとそばに居てもいい?」

 ついに手の人差し指はゆき子のしるしを浅く突いた。幾万の蛍を放ったかのように、まばゆく銀の光が渦巻く。指を絡ませ合ったまま、ゆき子は眠りに落ちる。

 棚板に身をもたせかけ、はだけかけた裾から布団に脚を投げ出して。人ならざる手は睡眠を必要としないのだろうか。夜明けが物置部屋を満たすまで、浅く浅くゆき子の肌を撫でていた。

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