紋入れの儀
指のあいだに細く刻まれた線を見て、母君は厳しい顔をした。逃げ出そうとするのを力づくで押さえつけて、耳もとに鋭くささやく。
「聞きなさい。これだけは許しませんよ」
いつになく鋭利に見える様子に、ゆき子も渋々腰を下ろす。柳色のちりめんを張った布団の上に白い夜着が広がり、小さな膝とすらりと伸びた足先が覗いた。
「いい? ゆき子も大人になったのだから、今までのようにはいられません。しるしは嫁ぐ日まで大事に、傷のつかないように守っておかなくてはならないの。わかるでしょう?」
母君の目は箪笥に向けられる。中にはゆき子が仕舞ったきりにしている手袋があるはずだった。
「きらいなの。肌に当たるから」
「そういうことは早く言いなさい。びろうどの裏がいや? 絹なら平気かしら」
「わかりません」
「裏を
「……はい」
ゆき子は一日中、食事のときすらぼんやりとしていた。箸を何度も取り落としたし、立ち上がるたびに裾を踏んで転んだ。
母君は呆れた顔をしたし、きょうだいたちはくすくす笑いを隠さなかった。だいたいゆき子が家の中で手袋をしているのすら妙なのだ。下の子たちですら、大人がふだん秘密めかしている色々に関わっていると察してしまっていた。
日が暮れると、戸口にひとりの女が立った。頭部に黒い布を巻きつけ、まがまがしいような空気をまとっている。影差す目元の浅い皺は反面、柔和な性質を示すようだった。
両親は神妙に出迎え、ゆき子のいる客間へと案内した。油皿をいくつも並べて火を灯した部屋に、正装のゆき子は座っている。緋色の濃淡ゆたかな衣を幾重にもまとい、椿油を塗りこんだ髪を背に流している。白粉をはたき、唇には紅をさしている。
爪の色は落していた。桜貝のような爪は無防備なままに、揺れる炎を鈍く映していた。
被っていた布をほどけば、女は白く簡素な装束をまとっていた。年のころはゆき子の両親よりもいくらか上だろう。人形のように固く伸びた背筋は親しみやすさには程遠い。無表情に近い目じりの皺がかろうじて彼女を人間たらしめている。
抱えていた小箱から種々の道具を取り出し、ゆき子の両親が用立てた浅い漆塗りの盆に並べていった。陶製の小皿、細い口のついた水差し、竹の柄の小筆、薄紙に包んだ赤い粉に、まっさらな手ぬぐいが三枚。
何よりぎらついて見えるのは銀色に磨き上げられた半尺ばかりの針だった。先端にかけて、消え入りそうなほど細く研ぎ澄まされている。
女がゆき子の右手を、薄く黄金色の光をこぼす手を取った。甲に触れて、灯火に透かすようにして、入念に調べる。すがめられた目がゆっくりと開かれて、やっと膝の上に戻された。
今度は薄紙の包みをほどいた。夜を払うことはできない油皿の灯りにもはっきりと、限りなく鮮やかな
折った手ぬぐいを噛まされる前、ゆき子はなぜ、と短く問うた。
「儀式のあいだは口を利かぬように言われているのではありませんか」
存外愉しげに女は訊き返した。
「言いなりになるのは嫌いです」
「しるしは外につながるものですからね。望まないものを身に入れないためのまじないをしなくては」
「そうして母や父の望む相手を身の内に入れるのですか? わたしが望むものではなくて」
「人はそうして命をつないできたのです」
「血を継ぐことに興味はありません。それよりも自由が、何にも縛られぬ未来が欲しいのです」
「贅沢ですね。どれほど守られて生きてきたのかお分かりでない。爪紅はお嫌でなかったそうですね」
「母ですか。余計なことを話すものです」
女はあくまで落ち着きはらったまま昏い色の唇をひそ、と開いた。
「昔話をいたしましょうか」
ゆき子は冷え切った声に指を震わせながらも、瞳はしっかと女を見据えていた。
「良い心意気です。さて。昔ある村に、娘がひとりおりました。生まれながらに痛みに弱く、すこし擦りむいただけで大泣きする始末。ですから、親御さまはたいへん心配しておったそうです。やがて大人になれば紋を刻まねばならないときが来ますから」
油皿の炎が揺れて、灯芯から
「紋を入れるには痛みを伴いますからね。親御さまは話し合って、腕が良いと評判の彫師を呼びました。けれどいざ色を刺そうとすると、痛がって暴れてお話になりません。とうとう音を上げて帰ってしまいました。良くないものに憑りつかれでもしたら大変ですから、方々に訊き回って次から次へ彫師を連れてきます。娘はとうとう、紋を入れぬまま魔のものをその身に入れてしまったのでございます」
女は目を伏せる。睫毛が濃く影を作った。ゆき子の方はといえば、表情こそこわばっているが厚く塗った白粉は顔色を悟らせない。
「気弱だった娘が正気を失うのを見て、家族はみな嘆きました。男どもを集めて取り押さえ、酒を何升も飲ませるとようやく昏倒し、さぁこの隙にどうにかしようとしたわけです」
ゆき子の喉が鳴った。女は試すように声をひそめた。
「ところが相手は身のうちにいるわけです。手に紋を施したところで出て行ってくれるものでもありません。考えあぐねた親御さまは今までに呼んだ十人の彫師を再び集め、どうすればよいか訊ねました。ある者が答えました。全身に退魔の紋を入れればよろしいでしょう。他の者も頷きました。月のしるしを開けておいて、そこから出るようにすればよいと。娘はいまだ、正体をなくして眠っております。彫師たちはすぐに取り掛かりました。つま先から、左の手先から、顔から。肌のすべてに紋を刻み終えたのちに、何日もしてからようやく目を覚まし、娘は以前の穏やかさを取り戻したそうですよ。めでたし、めでたし」
「めでたくなんてないのではありませんか。その姿では外にも出られないでしょう」
「えぇ、そうでしょうね。けれど命に勝るものはありませんから」
「冗談でしょう」
「さぁ。あなたの親御さまも、同じように無理にでも永らえさせようとするのではありませんか」
「身震いがしますね。ごめんですよ、そんな余生は」
「でしたら最小限の束縛で済むように、わたくしの言う通りにしてくださいな」
ゆき子は差し出されるままに手ぬぐいを噛んだ。唇の紅が移って毛羽がうっすらと染まる。女が針を取って先を小皿の液に浸す。溝を彫ってあるのだろうか、とろりとした色水は針をのぼって纏いつく。ゆき子の右手が女の膝の上に据えられる。針が甲を刺そうかという一瞬、身構えたゆき子に女は初めて柔らかな声を与える。
「大丈夫ですから、力を抜いて」
針はいとも軽やかに肌を通った。ゆき子はくぐもったうめきを漏らす。左の手を支点に、右手で滑らすように繰り返し刺す。肌のうちへ入らなかった色がふくらんだまま線を描いているのを、女は時々針を止めて拭った。
甲には親指の爪ほどの円が形づくられている。針が通るたびに跳ねていた肩もしだいに泰然としてきて、急に大人びたのか諦めたのか、ゆき子の瞳はただ生まれくる絵をつぶさにとらえていた。
女は円の周りに唐草と直線を複雑に絡みあわせた文様を描く。肌の上には紅と血とが混ざりあって滴を作る。こぼれないうちに拭われる。
油皿の中身はずいぶん減っていたし、灯芯もすっかり短くなった。女が詰めていた息を静々と吐きだす。最後に水で洗い落とし、線はよりくっきりと浮かび上がる。
ゆき子の細やかな肌の上に、花開くように紋は刻まれた。当初つくられた円の中は空白のままだ。包帯を巻かれながら、ゆき子はくわえていた手ぬぐいを空いた左手で外す。
「この中は何も描かないのですか」
「望むものは妨げないように。扉の役目をしてくれるものです。流派によって意匠は異なりますが、入り口を示す意味の模様や空白でもって表します」
女は手早く荷物をまとめて部屋を出た。多すぎる灯火の中を、ゆき子は放心して座っていた。母君が迎えに来てようやく、我に返ったようにゆっくりと立ち上がる。部屋に戻って重たい衣装を脱ぎ捨てるや肌着のままで眠ってしまった。
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