指のある部屋

夏野けい/笹原千波

しるしの訪れるまえに

 ゆき子は聞き分けの良くない娘で、舌っ足らずの頃からしょっちゅう物置に詰められていた。先ごろ十五を迎えたが、親の忠告なんぞろくに受け入れたことがない。ささいなことでいちいち口答えしてはそっぽを向くくせに、きょうだいたちが嫌がる薄暗い物置には鼻歌まじりで入っていく。

 皆はそれを反骨精神だか強がりだかと決めつけていた。たしかに昔から物怖じしない子どもではあったが、笑みさえ浮かべて自分から戸を閉めるのに疑問を持たないのはいかがなものか。


 物置は離れの北の端にあって、陽当たりが悪く冬は底冷えする。ゆき子は乱雑に投げ込まれた布団から顔を出した。腰近くまで伸びた髪を撫でつけて立ち上がる。腰帯こしおびの下からつまを引いて襟を正す。

 天井近くにあいた窓から斜めに落ちる光は舞い上がる埃ではりのような存在感を持っていた。色の抜けたゆき子の毛先は、その中を通るとき金色に透きとおる。目の下から頬にかけてうっすらと生えた産毛が明るむ。

 箱や行李こうりの積み上がる中を歩いて、奥へと迷わず進んでいく。壁際の作り付けの棚に腕を伸ばす。

 袖の触れる場所の埃はいつもゆき子の衣に拭われてしまって残っていない。丁寧に塗られた魔よけの爪紅つまべにが暗がりに沈む。茶碗の木箱をよけると手が現れた。右の、手首より先が壁から生じている。


 それは上等な陶磁に並ぶほどの肌を持ち、ほくろのひとつもなく、男のものにしては細い指さきと女にしては主張の強い骨格をしていた。爪は玻璃の細工めいて繊細に艶を帯び、血管が蒼く優美な伏流となって走る。


 初めて見つけた八つの夏には、ゆき子もこれがつくりものだと思っていた。触ってみもしないうちからやたらに気に入って、次のときには爪紅を塗ってやろうと小瓶を持ち込んだ。

 いくらはしたないと言われても手袋は嫌うが、似たような因習にしても爪に色をさすのは好きだった。筆を持って人差し指を掴めば、肌の湿り気と生ぬるさに驚いて手を縮めた。びっくりしたのはそれも同じだったようで、鉤のかたちになった人差し指はびくりと固まった。

 気を取り直すのはゆき子の方が早かった。再びむんずと手を掴むと、抵抗するそぶりなのを無視してどんどん塗った。まだ濡れている紅が肌の白さに映えていた。手は諦めたように脱力していた。

 ゆき子はよく手と遊ぶようになった。手で遊ぶ、と言った方が正確かもしれないが。骨のかたちをなぞったり、指を曲げさせたりする。爪紅が剥げれば塗りなおす。手の方では控えめにゆき子の指の腹を触れたりするくらいだ。


 人間だからゆき子は年を経るごとに大きくなるが、手はなにひとつとして変わりやしなかった。つくりものめいて傷がなく、うつくしいが個というものを感じさせなかった。もてあそんでいれば時間が過ぎるのを忘れてうっとりとし、腹もあまり減らなかった。

 凛とした骨格をおのれの指さきであらわにするのは刺繍の稽古よりもずっとゆき子の美意識にかなったし、真綿よりもやわく感じる掌に包まれれば背骨までとろけてしまいそうに心地よかった。


 ゆき子の手はもう子どものそれではないが、といって大人にもなっていなかった。胸がふくらみはじめてから毎朝、母君はゆき子の手を念入りに確かめる。しるしがないとわかれば、残念なのか安堵したのかわからない顔をした。

 大人はみんな、黒いびろうどの手袋の下にしるしを隠している。女は人差し指と中指のあいだのやわらかいところに。男は人差し指の爪のあいだに。黄金色の、ゆるい弧をえがく線だ。月の満ちる晩にだけうっすらと開いて、契りを交わしたものにとけあうための器官になる。みなは月のしるしと呼ぶ。


 外界と触れ合うために、道具を扱うためにも手はあるが、成熟した大人にとっては男女のことの象徴だった。

 あけっぴろげにしていれば陰口を叩かれるのも無理はない。小さいうちは爪に紅をさして魔のものを退け、大きくなれば手袋をあつらえて人目を避ける。だから形ばかりは完成されてしまった手をさらすのは、どうにも過渡期の痛々しさを感じさせるものだった。

 青い果実をついばむようにしるしのない肌へ触れたがる者もなかにはいる。むやみに素手で子どもと遊ぶような大人は嫌われる。常識的な範囲の交わりとの線引きは難しく、よほどのことがなければ罪を問われることは珍しかったにしても。


 ところでゆき子の遊びは家族の誰も知らない。例によって親のいう事をわかろうともしないわけだから、手肌を重ねる意味についても何らの実感をも持っていなかった。ただ好もしいものと快く戯れる以上の理解はなかった。だからこそ無邪気でいられたのは確かだろう。

 関係の変化は月のしるしとともに訪れた。庭木の梅の花が一輪、夜明けとともにほころんだ日のことだった。

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