一人目 樋口葉一
空は抜けてて、遮るもののない陽光に焼かれる。暑い。
「日陰にするべきだっただろうか。でもそこには蚊がいるし……」
「あの」
テーブルに頬杖を突いて呟いていたら、近付いて来た若い男性が声を掛けて来た。
「はい」
「その看板、正気ですか?」
「それを判断するのが僕の仕事ですよ。いや、違う、本当にやりますよ」
Tシャツにジーパン、サンダル。Tシャツが汗で前掛けみたいになっている。それはいいのだが、汗のラインより下に誰かの首のない体が描いてある。裾の近くには五千の文字。
「じゃあ、お願いします」
「分かりました。でも最初に訊いていいですか? 何で首のない絵のTシャツ着てるんですか?」
「あ、これ、濡れると色が消えるインクなんですよ」
「なんでだよ。汗かくじゃない、夏なんだから」
青年はうーん、考える。
「徐々に上から消えてゆく顔ってのが、いいんじゃないかな」
「おかしいですよ。何で幕が降りてくるみたいに顔が消えなきゃいけないんですか」
「洗うと全部消えますよ」
「そりゃそうでしょ。乾いたら全部出るでしょう」
「それが最近、一部戻らなくなってしまって」
「どこがです?」
「目」
「目だけ抜けてる写真って、犯罪者ですか!」
「どちらかと言うと聖人に見えますよ?」
「白抜きだから?」
「元々細い目だからあまり変わらないかも」
僕は彼のシャツを見る。誰なのか分からない。
「誰なんですか? その彼は」
「彼じゃないです。彼女です。ヒントは五千の文字」
「まさか、五千円、樋口一葉?」
「正解」
「何でお札のシャツなんて着ているんですか。しかも中途半端な値段。好きなの? 樋口一葉」
「親近感があって。僕、樋口葉一って言います」
「ご両親! その名前は避けてあげて下さい」
「いいんですよ。気に入っている名前なんで」
僕は居住まいを正す。
「それで、ご相談はどんなことでしょうか」
「バイトをしても、長続きしないんです」
意外に真面目な内容が来た。最初の客でこうならこの後も結構真剣なものが来るかも知れない。
「どんなバイトをされていたのですか?」
「最初はオフィスの引っ越しの仕事をしてたんですけど、すぐにクビになっちゃいました」
「理由があるんですか?」
「あの手の仕事って待ち時間がそれなりにあったりして、で、オフィスに僕達しか居なくて、面白い感じに荷物がなってるでしょ?」
「同意は出来ません」
「そしたらムラムラとやりたくなっちゃって、みんなでしたんです」
「乱交?」
「何言ってるんですか。そんなことする訳ないじゃないですか。かくれんぼですよ、かくれんぼ」
「紛らわしい言い方しないで下さい。しかもムラムラかくれんぼって年じゃないでしょうし。『ムラムラかくれんぼ』ってどんな遊びだよ」
「で、やってたら見つかって。あ、これは鬼にじゃなくて、社員さんにですよ」
「分かりますよ!」
「『みぃつけた、お前クビな』って」
「社員ノリノリじゃないの」
「それでトラックで帰ってる途中に、一人足りないのに気付いて、多分彼は今も隠れているんだと思います」
「プチホラーだけど、絶対にかくれんぼやめて帰ってるから」
「それで、ああ、僕には複雑な仕事は向いてないんだって悟ったんです」
「引っ越しそこまで複雑じゃないし、クビの理由は仕事内容じゃないから」
「求人で、『パソコンを打つだけの簡単なお仕事』ってのを見つけて応募したんです」
「あー、出会い系のサクラとかの奴ですよね」
青年は頷く。
「それでサクラになってメールを送ると、僕のスマホが鳴るんです。見ると同じ文面が。怖くなって辞めました」
「その会社のサイトで、出会い系に登録してませんでした?」
「何で分かるんですか? してました」
「それ、自分に対してサクラしてただけだから!」
「で、次に、『舌鼓を打つだけの簡単なお仕事』ってのに行ったんです」
「何ですって? グルメリボートをする仕事ってことですか?」
「行ったら、全然違くて、ターゲットの人の近くに行って、チッ、ってやる嫌がらせの仕事でした」
「舌鼓じゃなくて、舌打ちじゃないですか。騙されましたね」
「僕もそう思って、すぐに辞めました。で、次に、『頬を打つだけの簡単なお仕事』に行きました」
「ビンタするの?」
「ビンタするんです。猪木さんの代理とかやるのかなって思って」
「それ、本人じゃなきゃ意味ないから。猪木代理のビンタって、何だよ? しかもそれがアルバイトって意味が分からん」
「現実には、小部屋に来たお客さんをはたく仕事でした。音が派手で、叩かれた感が出て、でもあまり痛くない叩き方をマスターしました」
「それちょっと興味がありますね」
「叩きます?」
青年が手を振り上げる。
「そっちの興味じゃないですよ! 何でMにならなきゃならないんです」
「しばらく続いて、一人いつも僕を指名してくれるおじさんがいました」
「何にせよ、認められて支持されるのは嬉しいですね」
「『君の右手が僕の恋人だ』と言われて、僕自身を見てはくれないのだなと思って辞めました」
「むしろそこは部分愛になって助かったところだと思いますよ」
「それで、『ムチを打つだけの簡単なお仕事』に次は就きました」
「いや、結局そっち方面の仕事気に入ってるんでしょ?」
「また、あのおじさんがいました」
「何でだよ。そう言う店を梯子でもしてるの?」
「当然です。やっぱり指名は取れました。で、この仕事もいまいちだと思って、今に至ります」
「そうですか。それで、長続きする仕事に就きたいんですね?」
「学生なんでバイトがいいです」
「まず、何かを打つ簡単なお仕事、から離れましょうよ。何かアイデアありますか?」
「レジとか、そばとかですかね」
「だから、打つ以外だって!」
「それが分からないんですよ」
「いや、打つでもいいのかも知れません。簡単なお仕事、から離れればいいのかも」
青年が首を傾げる。
「簡単に出来ると言うものじゃなくて、時間をかけて手に職を付けて行く、そう言うアルバイトでもいいんじゃないでしょうか。将来やりたい仕事は決まってるんですか?」
「ビッグになりたい」
「今並んでたバイトは間違いなくビッグになるためのロードには並んでないものでしょ」
「いや、僕はやっぱり、打つカリスマになりたいんだと思います。それに気付きました。僕の選択は僕のビッグに向かう道の上のものだったんです。長い職レポになってしまいましたが、何か、わかって来ました」
「いや、ショクレポは舌鼓のときだけだから。でも、自分の向いている方が見えて来たのはよかったです」
「はい。簡単なお仕事をやめて、難しいかも知れない『打つ』仕事を見つけてみます」
結実の空気。
「では、今日はここまでにしましょう」
「はい。ありがとうございました」
青年はすっきりとした顔をして帰って行った。「状況は変わらなくても状態が改善する」カウンセリングや精神療法で起きる効果と同じものが、ツッコミ面談でも生じるのは面白い。
青年が帰るときにはTシャツの樋口一葉は胸の辺りまで消えていた。それを最後にツッコめなかったのが心残りだ。
31ツッコミ
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