第十一話 父として
それから、どれほどの時間が経った頃だろう。
四阿に佇み、
「いけない、そろそろ戻らないと」
繋いでいた手を解く。子供のようにぎゅっと手を握っていたことに、今更ながら恥ずかしさが押し寄せてきた。思わず頬を染めて燎から視線を逸らすように俯くと、顔は見えないもののこちらも少し照れたような声が降ってきた。
「お姫様の手を握るなんて恐れ多いことですが、俺は嬉しかったですよ」
「……からかわないで」
むくれてみせると、からからと明るい笑い声が返ってくる。部屋まで送るという彼の言葉に引かれるように一歩歩きだそうとした時、不意に懐にしまってあった
(何が書いてあるのか、怖い……。けれど、今なら)
胸のうちに残った、僅かな躊躇い。それを吹き飛ばすように小さく深呼吸をする。おずおずと伸ばした手で、そっと目の前の人の衣の裾を引いた。
「……ねえ、燎」
「何ですか?」
ぱっと振り返ってくれた燎の笑顔を見て、胸に温かいものが込み上げる。どうしてこの人は、こんなにも優しくしてくれるのだろう。差し伸べられる裏表のない好意に、押し込んだはずの怯えがほんの少し鎌首をもたげるのを感じた。
誰かを頼ること、誰かと一緒にいることがまだ水月には怖い。それでも、水月の話を聞いて、ただずっと手を握ってくれた彼ならば。
「これを、一緒に見て欲しいの」
水月の進む
巻物が琳王が水月に遺した遺書だと知って、燎は少し驚いたようだった。大きく目を見開き、恐る恐るといった様子で「俺が見てもいいのですか……?」と聞いてくる。いつも能天気なほどに笑顔で、決めたことは頑として曲げない意志の固さと図々しさがあるのに、妙に気弱になることがあるのだ。それが、水月には少し可笑しく思えた。
「一緒に見て欲しいの。ひとりで見るのは怖いけど、燎と一緒なら大丈夫だと思うから」
たとえ何が書かれてあったとしても、彼がいれば水月はそのままでいられる。他ならぬ彼が言ったのだから。そのようなことを話すと、燎は仄かに色づいた頬を隠すように一度顔を伏せた。僅かに間を置いて再び顔を上げた彼が、今度は驚くほど真摯な瞳で水月を見つめる。
「分かりました」
「ありがとう」
彼の真っ直ぐな瞳に報いるように、はにかんで礼を告げる。深緋の留め紐に指をかけ、ゆっくりと解いた。象牙色の紙に、角張った几帳面な文字が並んでいる。閉じ込められていた墨の香が、二人の周囲にふわりと広がった。
水月は巻物を四阿の床に広げると、そのすぐ正面にしゃがみこんだ。ちょっと見上げて視線で促すと、燎もすぐ横に座ってくれる。僅かに肩が触れる気恥ずかしさに、ひとりではないと感じて嬉しくなった。一度ゆっくりと瞬き、改めて己の身体に刻み込むように丁寧に文字列を追っていく。
巻物にはまず、水月への占の感謝が綴られていた。簡素な文章ではあったが、玉華宮では殆ど声を聞くことも叶わなかった父からの言葉に、既に胸の奥底から何かがこみ上げてくるように感じる。
その先に続くのは、父と母の出会い。父から見た母の姿。父だけが知っている、母の水月に対する深い愛情が流れるような筆致で記されている。その端々から浮かび上がるのは、琳王の仮面を被った父の、ひとりの男としての素顔だった。
母を愛し、出生の謎にざわつく周囲を無視して誰よりも生まれてきた娘を愛した父。その背後には優秀な弟に対する鬱屈した思いと、佞臣に唆されるままに彼を処刑したことへの敗北感が隠れている。
国が堕落していることを理解しながら、若き王は何もすることができなかった。気の優しい彼はどんどん力を増していく官吏に流されるままになり、一方で優秀な弟に激しく嫉妬し、その結果政権転覆を恐れ殺してしまった。
その全ての罪をはっきりと自覚したのは、捕虜として捕らえた
『余はあの時、自分が
周囲にどう見られるか理解した上で、せめてもの思いで薊妃を妃に召し上げ、
何度も間違い、重ねた罪。それでも玉座に座り続けたのは、自分に残った最後の意地だったのだろうと琳王は自嘲するように綴る。占に予言された革命は、自分に対する罰だとも。
『多くの間違いを犯しても、余は王でいたかった。それだけが、自分に残されたものだと思ったのだ。……だが、これだけは忘れないで欲しい。余が、お前とお前の母を愛しているということだけは』
琳王は、繰り返しその長い文章の中で「水月を愛している」と綴った。懺悔するように、しかし嘘偽りのない愛でもって。
彼は王でいるために、無言を貫くことを決めたのだった。薊妃を寵愛し、水月に冷たい態度を取ることで革命を遠ざけようとした王。しかし、最後まで甘言によって擦り寄る官吏達を跳ね除けることができなかった弱い男。玉座を死守し、革命の刃を己の罰として倒れた王は、その最期にせめて父として水月に言葉を遺すことを選んだのだった。
――自分は水月を愛していた。水月は、紛れもなく琳王と蓮妃の娘であると。
象牙色の紙にぽつり、ぽつりと落ちた水滴が墨色に滲む。それが自身の涙であると気づいた時、水月の喉がぐうっと引きつった。
堪えきれず、小さな嗚咽が漏れる。隣で一緒に巻物を読んでくれていた燎が、控えめな仕草でぽんぽんと背中を叩いてくれた。それでも、はらはらと零れ落ちる雫を止めることはできなかった。
止まるわけがないのだ。ずっと、水月は琳王に嫌われていると思っていた。母を死なせ、後宮にいたところで徒花にしかならぬ娘。本当は、王を父と呼ぶ資格もないのだと思っていた。
だが、琳王は水月を愛していると言ってくれた。他の誰が偽りであると言ったとしても、彼は水月を自分と蓮妃の娘であると言ってくれた。それが、どうしようもなく嬉しかった。
手紙の終わりに、琳王は水月に対してその願いを打ち明けた。
『勝手なこととは承知している。だがどうか、余が壊してしまったこの国を、琳の民を救ってはくれないだろうか』
琳という国の形を取り戻してほしいとは言わない。だが護ることができなかった、罪なき多くの民は救って欲しい。革命により火蓋を切って落とされてしまった、これから激化するであろう睹河原に広がる戦から。
水月は末尾まで読み終わると、遠く琳の空に向かって跪拝した。天から見守っているであろう、父と母に伝わるように。
「この水月が、必ずやお父様の願いを叶えてみせます」
まだ、具体的に何をすればいいのかは分からない。だが、必ず叶えると誓った。己の罪を憂い、それでも琳の民を救いたいと願った王のために。
顔を上げると、すぐ隣で燎が同じように頭を下げているのが見えた。
「――……」
伏せた顔の下、押し殺した声で何を呟いたのかは分からない。ただ彼方に礼を尽くす綺麗な姿を見つめていると、ちらりと視線を上げた彼と目が合った。
優しく目元を和ませる彼に、先程とは違う意味で胸が詰まる。ひと呼吸の後、水月は吐息のように呟いた。
「燎も、手伝ってくれる?」
「もちろんです」
燎の応えは、いつもまっすぐで揺るぎない。それがどれほど水月を安心させ、勇気を与えてくれるのか彼は知っているのだろうか。
「他の誰が水月様の
それだけは変わらないと得意げに言う彼に、水月も柔らかく微笑んだ。
「ありがとう」
そして、再び立ち上がる。今度こそ、大巫女に会いにいくために。
風が吹く。夜明けの光を帯び、無数の桜を伴って水月の行く道を示す風が。
彼女の選択が睹河原をどう動かしていくのか、未だ知り得る者は誰もいなかった。
炎龍と月隠の女王 ~紅炎国成立秘録~ 潮風凛 @shiokaze_rin
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